美しいもの
ライアが店に帰ってきて数週間が過ぎた。
レジナルドの体力もようやく回復したようで、ライアが食事の支度をしようとするとベッドを抜けて台所でうろうろし始める。
「あのね。まだ手伝いとかいらないから。休んでいてくれていいのよ?」
とたしなめるライアの言葉は全く聞いていない様子。
「んー……お皿、これでいい?」
……聞けよ、白ウサギ。
具沢山のスープを入れるのにちょうどいい深さのスープ皿を二枚持ってきたレジナルドにじとっとした視線を向けながらもつい素直に受け取ってしまう。
昼食はパンケーキをリクエストされたのでそれを焼く。
そういえば前に、レジナルドに作ってあげたいと思っていたパンケーキがあったな、と思い出した。
「……その粉、何?」
めざといな。
使っている粉を興味津々といった顔で覗き込んでくるレジナルドにライアはつい笑みを作ってしまう。
こういう細かいところに気づいてくれるのってやっぱり嬉しい。
「うん、これね。燕麦。普段使ってる小麦粉と違ってちょっと味に深みが出るのよ。前にこれでパンケーキ作ったら美味しかったからレジナルドにも……」
あ。
レジナルドにも食べさせてあげたい、なんていう言葉……ちょっとおこがましかったかな。……なんならこういう言葉って家族に言うような言葉、かもしれないし。
と、ライアが口をつぐむと。
「……ふーん……」
手元を覗き込むレジナルドが笑みを深めて……なんなら隠しきれていないキラキラ度が上がった。
なんとなく気まずくなったライアが生地を作ったところでわざとらしくレジナルドに背中を向けてフライパンの方に移動すると。
「ライア……」
「……っ!」
背後からライアの体に腕が回された。
びっくりして固まるライアの耳元で。
「僕のことちゃんと考えてくれているんだね。すごく嬉しい……ありがとう」
最後の一言を発するタイミングで腕にぎゅっと力が入った。
その理由がなんとなく解ってしまうのでその腕を振り払おうとなんか思えない。
なので、びっくりした拍子に取り落としそうになったボウルを脇に置いてからそっとレジナルドの腕に自分の手を添えてみて。
「……無理に言わなくてもいいのに。ちゃんと分かってるわよ」
「ダメ。ちゃんと言えるようになりたい」
腕に込められた力が増した。
あ。これは。
軽く聞き流してはいけない類の言葉だ、と解る。
ので、ライアも逆らうように取られる仕草も言葉も控えることにする。
「全部……嬉しかったんだ。こんな腕放っておいてもいいのに治療してくれたことも、ずっと付きっきりで診てくれた事も、良くなったからって追い出すんじゃなくこうやって家に置いてくれる事も」
なんとなく言葉の端々に息を詰まらせるような気配が感じられて、まるで言葉を絞り出しているかのような印象を受ける。
「……だから、ありがとう」
少し間を置いてさらに絞り出される言葉は、か細く、それでもしっかりと発音されてライアの耳に届く。
「……うん」
ライアは頷くしかない。
「……それにね。これは、賭けなんだ」
くすり、とレジナルドが耳元で笑うのでその息が掛かってライアの体が小さく跳ねた。
「な、何? ……賭け?」
体の反応を隠すために身を捻って後ろを向く。
その勢いでレジナルドの腕の力が弱まったので少し体の間に距離を取ってみて。
ライアが見上げるとレジナルドの薄茶色の瞳はゆっくりと細められた。それはまるで何か大切なものを愛おしむような目で……そんな視線と目が合ったものだからここは盛大に照れても良さそうなものなのに、なぜか見入ってしまう。
綺麗な瞳だな、と思えてしまって。
光の加減で蜂蜜のようにもミルクキャラメルのようにも見える瞳の色だ、と思う。
彼の瞳にこんな風に暖かく甘いイメージを抱いてしまうのはどうしてだろう、と改めて思う。
以前、彼の表情に氷をイメージした事もあった。整ってはいるけれど温度のない人形のような顔だ、と思った事があったのだ。
彼に群がる令嬢たちはきっとそういう雰囲気に心を奪われていてその美しさが好きなんだろうな、とも思った。
でも、私は。
あんなのダメだ、って思った。
あんな顔をさせたらいけないって。
あれは……多分この暖かくて柔らかくて甘い雰囲気を知っているからだ。そっちの方が似合うと思う。彼らしい、と思うからだ。
こんな綺麗な宝石を、価値の分からない人になんか渡すものかって心のどこかで思った……あれ?
……うん?
はた、と。
自分の思考が向かう先を認識してしまってライアの頰が熱をもち始めた。
いやいやいや。待て待て私。
今何考えた?
我に返って見入っていた視線を勢いよく下げる。
と。
「……僕が感謝の言葉を使っても大事な人がいなくなったりしなければ、僕のあれはただの思い込み。僕は自由にありがとうって言えるようになる。っていう賭け」
ライアの反応に合わせるようにくすりと笑みが溢れてそんな言葉が降ってくる。
で。
ライアの方は。自分の思考回路に我ながらパニックになっているといったところで。
「え……あっ! そうなのね。うん、そうよね。それはただの思い込みだから自由にありがとうって言えるようになるに違いないわよ」
つい自分の熱い頬を両手で押さえながら返す。
私、ちゃんと受け答えしたわよね。
間違ったこと言ってないわよね。
……なんか変なこと一瞬考えそうになったせいかレジナルドの言葉、ちゃんと聞いてなかったような気もするけど。
なんて思いながら。
なので、一瞬目を丸くしたレジナルドが悪戯っぽくニヤッと笑ったのは完全に見逃した。
予想通り、レジナルドは燕麦のパンケーキをキラッキラの笑顔で食べた。
とろけるような微笑みを眺められたライアはもう幸せいっぱい、満足度マックスだ。
危うく自分のパンケーキに驚異的な量の追い蜂蜜をしそうになってレジナルドに止められた。
「ああそうだ。元気になったし老木殿と薬草たちにお礼を言いにいかないといけないね」
食後のお茶を飲んでいたレジナルドがふと顔を上げた。
「あ……そうか。うん、そうね。……私がこないだお礼を言いに行ったけど……レジナルドがちゃんと挨拶したらみんな喜ぶかも」
ライアもつい頷いてしまう。
お礼を言う、か。
レジナルドにとっての「ありがとう」の呪いは対人間限定だろうか。
なんてことに思い至ってしまったライアは視線をつい手元のカップの中に落としてしまう。
まだ熱いカミレのお茶は「ふう」と吹くと小さく揺れて……その揺れはすぐ収まって改めて何事もなかったように湯気が立つ。
こんな風に彼の心に立つ波もすぐに凪いで……穏やかになるだろうか。
植物たちは、心を読むというわけではないが心の色を感じてくれる、と思っている。
悲しみに染まった心。
恐怖に侵食された心。
喜びに色付いて膨らむ心。
期待の心の奥にある輝き。
そんなものを察して、その上で受け止めてくれる。
だから。
もし、本当に辛いなら、無理に言葉なんかにしなくても、彼らは感謝の心を感じ取ってくれるのだ。
むしろ、言葉にすることで心が感じる痛みを感じ取って痛みを共有してくれたりもするかもしれない。そこまでしなくてもいいのではないか、と思ってしまう。
そんな痛みをあえて自分の中に作り出さなくても、多分彼らはちゃんと「感謝」の心を感じてくれる。
「……大丈夫だよ」
ふと、柔らかい声がしてライアが咄嗟に顔を上げた。
目の前には声の通り柔らかく微笑むレジナルド。
部屋に入る日差しは彼が纏うとこんなにも柔らかく優しい光になるのだろうか、といつも思う。
薄い色の金髪は毛先が透けて、それでもわずかながら顔に影を作るから彼がそこにいると実感できる。光の悪戯でたまたま浮かび上がった幻影とかではなくて実在する人だと認識できる。
薄茶色の瞳を縁取る睫毛が長くて目元に影を作るほどであることは前から知っていたけれど、こうして改めて見るとなんだか妙に胸が高鳴る。
色白の頬は少しやつれはしたが、むしろ精悍な印象を際立たせて、初めて会った時のような危うさがなくなっている。
カップを持つ骨張った指は形が良くその手も大きい。ライアが持っているカップと同じサイズのものを持っているにもかかわらず気持ち小さく見えるような気さえする。
そんな、絵画のような光景が目の前にあったということに改めて気づいてライアが軽く息を飲んだ。
「……ライアのことだから、僕がまた心を痛めるんじゃないかとか考えてくれてるんでしょ? 大丈夫だよ。庭の植物たちへの感謝は本物だけど……失いたくないから言葉にするのが怖いって思うのは彼らじゃないから」
ああどうしてこの人はこんなに綺麗なんだろう。
そう思いながら見入っているライアにはその声までもが心地良い響きに聞こえる。
柔らかく響く音は心の奥にすとんと入る音楽のように気持ちいい。
なので。
「……え? あ、ああ……そうなの?」
どうしても言葉の意味を考え損ねて曖昧な返事をしてしまうのだ。
くすりと笑われるのさえ心地いい。
で。
「じゃ、行こうか」
笑みを浮かべながら立ち上がるレジナルドには小さく頷いて自然な動きで従ってしまう。
裏庭の草花たちが嬉しそうにさわさわ揺れる。
それは人であれば隣の人と笑みを交わし合いながらこちらを眺めている光景に似ている。
そんな印象を受ける。
『ほう……すっかりよくなったように見受けられるな……』
安堵の息を吐くような声にライアもつい頭を下げる。
「老木殿、お陰様で」
『我の力ではない。此度は庭の薬草たちの力よ。我は……。……ふむ……若いの、お前もわざわざ頭を下げに来たか』
古木を覆い尽くす蔓の葉がさわさわと揺れながら言葉を伝えてくるのを遮る事がないように、なのかレジナルドは言葉を発することなくライアの隣で膝をついて頭を下げたので、声は図らずもそちらへ注意を向けるような形になった。
ので。
「……すみません。お礼の挨拶が遅くなりました。お陰様ですっかり良くなりました。注意を向けて頂くほどの者でもありませんのに」
レジナルドが慇懃な態度で言葉を発する。
『……ふむ。それは良かった。……のう、姫』
声はわずかな笑いを含んでライアに向けられる。
『それは人の子の間では友とみなしたものに向ける姿勢か?』
「……は?」
ライアが言葉の意味を掴みきれずに思わず頭を上げた。
ふと気付くと周りの薬草たちのさわさわとした揺れも、何か含み笑いのような意味ありげな揺れ方に変わっている。
「い……え、そんな。友達同士ならよほどのことがなければ頭を下げるなんてないかと思いますけど。それに……膝をつくのは最大限の敬意の表明、です」
この姿勢は確かに人間同士であれば敬意の表明としてすぐに分かってもらえる姿勢だ。でも相手は植物。何か失礼な事をしてしまっただろうか、とも思えるのでライアはちょっと慌てながら説明した。
と。
『……そうか……』
何やら笑いを堪えるような気配と共に声がして。
『ならば立たれよ。我が友よ。そして我が姫君。我らの間にそのような堅苦しい礼節は不要。……違うかな?』
笑みを含むような楽しげな声が響く。
同時にレジナルドが目を丸くして顔を上げた。
「え……と、友……?」
『お前は我らの大事な姫を預かる身であろう。であれば我らの友よ。姫を大事に思うその心は我らと同じ……いやむしろ我ら以上かも知れぬな……』
どこか誇らしげにも聞こえる声はやはり笑いを含んだように楽しげで。
そんな声に応えるように周囲の植物たちがざわりと動く。
それは決して不気味なものなどではない。
それはまるで、ひとときの夢か幻。
ライアの感覚は素直にそう捉えた。
そして隣を見やるとレジナルドの反応もまた、恐怖とは程遠いもの。
一斉にその背丈を倍以上に伸ばした植物たちは、二人を包み込むようにその場を森にしてしまったのだ。
草花の類とは思えない、姿形。
その枝は若く瑞々しく、生え出る葉は艶やかで芳香を放ち。
精一杯の花芽をつけ、それらが一斉に芽吹く。
植物の本来の生命力とはきっとこのようなものなのだろうと思えるほどに美しく清々しく、空気に何かがみなぎる。
『姫よ。これは我らからの贈り物。……受け取ってくれぬか』
穏やかな声が響き、ライアが周りを見回していた視線を目の前の古木に向ける。
古木に巻き付いた古い蔓に。
「……私に?」
何かを貰う理由なんてない、と思うと同時にそもそも受け取れるようなものは見当たらない。
ライアが小さく首を傾げた。
『……気付かぬか』
声は相変わらず楽しげだ。
ライアには全く意味がわかっていない。
ので、思わず隣のレジナルドに目を向けてしまう。
レジナルドの方も全く意味がわかっていないようで小さく肩をすめられる。
「え……何? 老木殿、意地悪しないで教えて……あ、れ?」
さわさわと周りの植物が葉を揺らす音はまるで囁く声のようだ。
その音に合わせて芳香が増すのは、ライアにとっては馴染みのある感覚。
これは満月期のそれ。
でも。そういえば私……いつからこの状態だった?
なんなら……前回の満月期、つまりゼアドル家でパーティーをぶち壊したあの時からずっとこんな感じじゃなかったっけ?
そう、だってレジナルドの看病をしていた間中ずっと彼の寝息に注意を払っていたし、彼が寝返りを打つたびに寝具がずれる音を聞いていた、気がする。
ライアの右手が無意識に自分の右の耳に触れる。
そんな仕草を見たレジナルドが小さく「あ」と声を上げた。
「そういえば……ライア、ここのところずっとちゃんと普通に聞こえてた?」
レジナルドの言葉にライアが視線をそちらに向けて小さく頷く。
『ほう。……良かった。我らが姫君は自分のこととなるとあまりに鈍すぎていかんな』
くつくつと笑うような声が上がり、それに応えるように周りの植物が愉しそうに揺れる。
「……どういう、こと?」
『今宵は青藍の月。我らが姫君に贈り物をするには最適の時よの』




