ありがとう
「ライア、あり……が……とう!」
こちらを睨み返すような目つきになったレジナルドが勢いよく顔を上げて、それでも途切れがちに言葉を発した。
「え……あ、うん……?」
あ、なんだ。
お礼を言いたかったのか。
一瞬拍子抜けしたライアは、目の前のレジナルドの表情に思考が固まる。
なんだこれ。
なんで、こんなお礼ひとつにこんなに決死の覚悟です! みたいな顔してるんだ?
レジナルドの表情といえばさっきまでの柔らかさもキラキラしさもなく、今から真冬の激流に飛び込みます! くらいの覚悟が表れたような表情だ。
「あの……レジー……?」
思わず心細くなってつい愛称で呼んでしまった。
なんだろう。この感覚。
こんな顔を見たら、咄嗟に彼が遠くに行ってしまうのではないかなんていう考えが浮かんだ。
なんだか、自分と距離をとることを覚悟した人の、表情のような気がして……怖くなった。
「あ……え……っと、その……」
愛称で呼ばれて一瞬嬉しそうな目になったと思ったがその薄茶色の瞳はすぐに伏せられて、何かを思い出そうとしているようにライアから逸らされた。
そして、発せられたのは意味をなさない言葉。
「あの、レジー? どっかに行っちゃったりしない、わよね?」
どうしてこんなことを口走ってしまうのだろう。なんの確信もないのに。
そう思いはするが、どうしても心の奥がざわつく。
こんな顔のレジナルドをライアは初めて見た、と思った。
そんなほぼ直感から出ただけのライアの言葉にレジナルドの逸らされていた視線がスッと戻った。
「……行かなくてもいいの?」
丸く見開かれた薄茶色の瞳はどことなく潤んでいるように見える。
そして青ざめた顔に、小さく半開きのままの口元はやけに幼く見えて。
「……行かなくていいに決まってるでしょ!」
一瞬呆けてしまったライアだが、気を取り直して断言する。
もう何が何だかわからないけど。
意味なんかわからないけど。
だってこれだけは事実だ。
そもそもレジナルドに、どこかに行って欲しいなんて思ってない。そんな風に思ったことはない。
なんならずっとここにいて欲しいと思っている。
それが具体的にどういうことか理解する以前に、本能的にそばにいて欲しいと願ってしまっている。
テーブルの上でぐっと握りしめた両手のひらに爪が食い込んで痛みを感じてようやくライアは、目の前のレジナルドを睨みつける勢いで今の言葉を発したことを理解した。
「……そっか……良かった……」
叱られてでもいるかのような勢いで言葉を投げつけられたというのに、レジナルドは途端に肩の力を抜いて大きく安堵の息を吐いた。
なので。
「な、何……? どういうこと? ……何があったの?」
今度こそライアが不安げに声を上げる。
嫌な緊張をしたせいで涙が出そうだった。
問い尋ねる声もつい語尾が震えてしまう。
「あ、違うんだ。ライアがそんな顔することはない……ごめん、僕が悪かった!」
ふと、ライアの様子に我に返ったらしいレジナルドが取り繕うように慌て始める。
「え? ……なに? 何が悪かったって? 何がごめんなの?」
やっぱりどこかにいくとかそういう話だろうか、と思ってしまうのでライアの不安がさらに募る。
と。
レジナルドがふわりと腰を浮かせて前屈みになる。
テーブルを挟んでこちらに屈み込み、ライアの握りしめた左手にレジナルドの右手が重なった。
「大丈夫。僕はどこにも行かない」
見下ろしてくる薄茶色の瞳は優しく細められており、ライアの心を包むように言葉が降ってきた。
「じゃあ、なに?」
ライアの問いにレジナルドが一瞬目を逸らし、そしてまたその視線をしっかりと戻す。
「ずっと……この言葉が言えなかったんだ。……子供の頃から」
皮肉っぽい笑みを口元に浮かべたレジナルドが話し出したのはちょっと間を置いてからだった。
向かいの椅子に座り直して一呼吸、何かにけじめをつけるように息を吐き出してから。
「子供の頃、家に誰もいなかったって話しただろ? 使用人も次々に変わってしまって仲良くする相手なんかいなかったって。……あれ、僕のせいなんだ」
そう言うと辛そうに一度眉を顰めて、また息を吐く。
「そもそも使用人と祖父さんしかいない屋敷だったけどね。で、僕に親切にしてくれる使用人は決まってすぐ辞めさせられる。……祖父さんがさ、僕が使用人に懐くのを毛嫌いしたからなんだけど。最初それが理解できなくてさ。……優しくしてくれる使用人は僕のお気に入りだったからいつも何かしてもらうたびに『ありがとう』って言ってた。で、ある時気が付いたんだ。僕がそうやってお礼を言うと決まって数日後にはその人はいなくなる」
「え……?」
なんだそれ。
何かの呪い?
ライアが眉を顰めると。
「僕が子供の頃はね、使用人たちがけっこう代わる代わる可愛がってくれてたんだ。でさ、他に優しくしてくれる大人がいなかったから僕はそれがすごく嬉しくて。で、祖父さんはそれが気に入らなかったらしくて『この家の人間なら使用人なんかと親しくするな』って殴られてね。僕が親しげに声をかける相手は次々に辞めさせられたんだよ」
「……」
ライアは言葉を失った。
なんて理不尽な。
自分では愛情を注がないくせに、代わりにその愛情を注ごうとする者を片っ端から取り除くなんて。
それに使用人の方々とレジナルドとのやりとりもなんとなく想像がつく。
このレジナルドのことだ。子供の頃はきっと相当可愛かっただろう。
屋敷に一人でいる可愛い子を放っておける大人なんかそういないと思うのだ。しかも優しくしてあげて嬉しそうにお礼なんか言われたら……大喜びだろう。
それを見て片っ端からそういう優しい人たちを根こそぎ辞めさせていくなんて……ありえなくない?
怒りが込み上げてきてライアの肩に力が入った。
「で、ね。それがわかった途端、言えなくなったんだ。お礼の言葉。気持ちを込めなければ言えるけど……本気で感謝したい時ほど……言えなくなる」
ふう、と再び息を吐く音がしてライアはそろりと視線を上げた。
視線の先でレジナルドは遠くを見つめるように宙に視線を固定したまま。
「僕さ、彼らがこの家を追い出されたら次の仕事が決まるまで大変な思いをすることも子供ながらにわかってたんだ。……『ありがとう』って言ってしまったら彼らの人生が変わってしまう。それだけじゃなく……僕が自分で大切な人を失くしてしまう言葉だって認識してしまって……もう二度と誰にもそんな言葉は使わないようにしようって思ったんだよね」
そこまで話すと視線がすいとライアの方に戻ってきて。
「でもさ。……ライアにはどうしてもちゃんとお礼を言わなきゃって思ったんだ。頭では解ってる。『ありがとう』はお別れの言葉でもなければ、誰かを遠くに追いやるための言葉でもない。ただ感謝を伝えるための言葉だって。だからライアにはこういう言葉をちゃんと伝えられる人でありたいと思ったんだ。……ごめんね、変な思い出話に付き合わせちゃった」
くすりとこぼす笑みはどこか寂しげで、でもどこか満足げにも見える。
そしてライアは。
そうか。
それで。
こんな簡単な一言を言うのにあんなに必死な顔だったのか。
そんな思いをしなければ、こんな言葉すら口にできなかったのか。
それこそ今生の別れ、みたいな勢いで口にした一言。
そこまでの覚悟がなければ言えない一言。
そんな言葉を……口にしてくれたんだ。
と、思った途端。
自分にも、思い当たるものを見つけてしまう。
なんだかそんな気持ちを、感覚を、よく知っているような気がするのだ。
ライアはそう思った途端、レジナルドのささやかだった一言の重みがさらに増したような気がした。




