確認しながら。
「……感謝?」
レジナルドが目を見開いた。
むしろその反応の方が驚きですけど。
くらいの勢いでライアの方もまた目を見開く。
「え……感謝、するでしょ普通」
ライアが目を見開いたまま辿々しく答える。
そしてまあ、これはちゃんと言わないといけないやつなのかな、と思い直して。
「だってお陰で私、ゼアドル家から正式に出て来れたのよね? しかも……レジナルドのやってくれたことって私にはなんの損失もない代わりにグランホスタ家には面倒ごとになってる可能性あるわよね?」
ヘレンがあの夜に言っていたことを少し思い出してみる。
「不正な方法で中身が空っぽの家を買った」というようなことを話していた。
それは商売上の損失にしかならない事だというのもなんとなく分かった。
そして、レジナルド自身がグランホスタ家に未練がないとは言っても、いや、むしろそうだからこそ現当主がそれを実行に移すというのは彼が相当頼み込んだからこそできたことだろう。
そして、レジナルドが叔父だけでなく、実質上まだ実権を握っているであろう祖父に頭を下げるというのはどういうことかを考えると……これは相当な犠牲である筈なのだ。
そういえばちゃんとお礼を言ってなかったな、と思い直したライアはからのカップを持って立ち去る気だったところを思い直してベッドの縁に腰を下ろす。
これでレジナルドを見下ろすような位置から目線が同じ位置になった。
ちゃんと言わなきゃいけないと思うので手に持っていたカップはもう一度サイドテーブルに戻す。
レジナルドは目を丸くしたままだ。
「ありがとう。私のために犠牲を払ってくれて」
薄茶色の瞳をまっすぐに見ながらライアがそう言うと、レジナルドが視線を逸らして眉をしかめた。
それはまるで何かをこらえるような表情にも見える。
そんな表情の意味なんかわからないからライアはつい言葉を重ねる方向に気を遣ってしまう。
「あ、それに。これは謝らなきゃいけないわ。……レジナルドは最後に会った時に『信じてほしい』って言ってくれてたのよね」
レジナルドの行動の意味が分かってから思い出したことがあった。
ゼアドル家の庭で最後に会った時、彼はそう言ったのだ。
その意味を多分、自分は誤解して……さらには忘れていた。
あれは、これからやろうとしている事が私への裏切りではないという事を信じてほしいという意味だったのだ。
なのに私は。
「私……あなたのこと、ちゃんと信じてなかったわ。私、あなたに利用されてたことにどうして気付かなかったんだろうって思って落ち込んだりして……そんな必要なかったのね……」
今度はライアが視線を逸らす番だった。
なので、レジナルドの視線がそろそろと自分の方に向かい直したことには気づかない。
「……ライアが、謝ることなんか、ない」
ようやく絞り出したような声がして目を上げると、情けなく眉を下げた白ウサギが困ったようにこちらに視線を送っている。
「あれは……僕のできる限りの意思の表明。ライアを助けるためにできると思った行動は本当にあれだけだったんだ。それでライアが自由になってくれるんなら……僕のことなんか嫌いになったって構わないと思った。もう、笑ってくれなくなったって……いいって思ったんだ」
くしゃり、と顔を歪めて無理やり作られる笑顔にライアの息が止まった。
……なんて顔をするんだ。
……そんな顔されたら。
「……え? ライア?」
レジナルドが驚いた声を上げた。
ライアがその腕を伸ばして抱きついてきたので。
それでもなるべく左腕には腕が当たってはいけないと寸前に思い出したのでライアの左腕はレジナルドの背中に回り、右手は彼の首から後頭部を抱き締めるような形になっている。
そんな体勢なのでレジナルドはライアの胸元に顔を埋めるような格好になる。
「嫌いになるわけない、じゃない。……むしろ疑った自分が嫌になったわ……」
これはもう、疑ってしまったことへの懺悔の行為かもしれない。
そんな気がしながらもライアはレジナルドの体を抱き締める腕に力を込め続ける。
「……へへ。役得」
不意に背中に回された腕に力が入ってレジナルドの顔がライアの胸に押しつけられた。
「……うん?」
声の調子が少々楽しそうになっているのでライアが我に返ると。
「これ、すごく気持ちいい」
頰を離すことなくレジナルドがうっとりしながら視線だけこちらを見上げてくる、ので。
「……は、離してっ!」
理不尽だろうとは思いつつもつい声を上げてべりっと引き剥がす。
「……いててて! 酷いなぁ……僕、怪我人なのに……」
「うあ……っと! ごめん!」
レジナルドの言葉に、左腕の痣を思い出したライアが勢いよく謝る。
そうだ。
あの腕はなるべくそっとしておかなきゃいけなかった筈だ。私、今その腕を振り払った?
そう思うと血の気が引いた。
その痛みをつい想像してしまうので。
で。
「ごめん、ちょっと見せて」
レジナルドの寝間着のボタンを手早く外す。
肩から腕にかけてを見ようと思ったら着ているものは脱がさなければならない。
この際「え、ちょっとまって」とかなんとか食い下がろうとするレジナルドにまともな反応を返している余裕はない。
「……これ、相当痛いでしょ……?」
ライアが思いっきり顔を顰めながら聞いてしまうのも無理はない。
黒く残っていた痣は赤黒い色に変化して、腕全体が熱を持っている。
治癒に向かっている証拠ではあるがこの状態はかなり痛い筈。
「あー……うん、まぁ……痛い、けど」
右手の人差し指で頰のあたりをポリポリと掻きながら気まずそうにレジナルドが答える。
「とりあえず、湿布するからちょっとまってて」
ライアはそう言うと今度こそ空になったカップを手に取って一旦部屋を後にした。
「これは単に痛みを和らげるだけの物だから効果がないなって思ったら勝手に外してもいいからね」
そう言いながらライアが湿布薬をレジナルドの腕に貼り付けてその上から包帯をぐるぐる巻きにする。
「大丈夫。ライアがやってくれた事が効果ないわけないから」
くすくすと笑いながらレジナルドが答えるので。
「笑い事じゃないわよ。……もう。大事な商売道具をこんなにして。例え左手だって大工仕事するのにこれじゃ不自由だったでしょうに」
つい恨みがましい視線を向けてしまう。
右手を使わなかったのはきっと仕事で使う利き腕だからじゃないだろうか、なんてことまで想像してみたが……それでも大工仕事を片腕でするというのはちょっと非現実的だ。
「……ああそうか。商売道具、になるのか……考えなかったな」
呟きにも似た小さな声にライアが目を丸くして顔を上げた。
「は?」
考えなかった、と言ったの?
大工になりたくてカツミさんのところに弟子入りしたくせに?
という視線を思いっきりぶつける。
「え?」
今度はレジナルドが盛大な疑問符を貼り付けたような顔でライアの方に視線を寄越す。
……これはもしかして、何かがまたすれ違ってる可能性!
ライアが幾度となく経験している空気感に思い込みで返事をするのをやめよう、と決意して眉を顰めながら口を開く。
「だって、それ、あえて右手を使わないで左手が怪我するようにしたのよね? 右手をとっておいた理由って、大工仕事に使う利き腕だからなんじゃないの?
私、レジナルドがそんなに大工になりたいと思っていたなんて初耳だったけどカツミさんの家に住み込みで弟子入りするくらいだから余程やりたかった仕事なんでしょう?」
「え……あーーーー……」
ライアの言葉になぜかレジナルドがガックリと肩を落として右手で顔を覆ってしまった。
「え? やだ、何? 違うの?」
思いもしなかった反応にライアの方が慌てる。
「……だいぶ、違う。……まぁ、言ってないんだから知らなくて当然だし……いいんだけどさ」
そこまではまるで自分に言い聞かせるように呟いたレジナルドが顔を上げて。
「ライア、もう一回こっちに来て」
困ったような笑顔を作られた。
「……うん?」
さっき一度抱きしめたとはいえ手当てをする為にライアはベッドの縁に腰を下ろすのではなくて向かいの椅子に座っているのだが、レジナルドが痛みがある筈の左手をさりげなく動かして先程彼を抱きしめた位置に座るようにと自分の隣をポンポンと叩くので。
ライアはつい言われるままに移動する。
と。
「……え?」
ライアが向き合うように腰を下ろしたタイミングで体を前屈みにしながらレジナルドが右腕をライアの背中に回した。
これは……抱きしめる、という行為だろうか。
レジナルドの右腕はライアの背中から肩を抱くように回っており、痛む筈の左腕は腰の辺りに力なく回っている。
いきなり自分に覆いかぶさるように接近してきた体にライアが硬直しつつ訳が分からないまま目を瞬かせていると。
「……ほら。ライアのこと抱きしめるのに利き腕がないと不便だろ」
笑みを含んだような吐息ごと耳に吹きかけられるようでライアの頭が真っ白になった。
「な……っ! え……っ? なに? え、どういうこと?」
目の前がチカチカするような状況に思わずライアがパニックになりながら聞き返す。
なにしろ目の前は手当てのために寝間着を脱がせた剥き出しの胸だ。左腕から肩にかけて包帯でぐるぐる巻きにしたとはいえ熱を持った体はライアの頬に直接体温を伝えてくる。
「だからさ。利き腕は、ライアのためにとっておきたかったの。でもそんなこと老木殿には関係ないだろ。だから左腕くらいならくれてやろうと思って。そのくらいの犠牲は払わないと、だろ? 彼らへの敬意のためにもさ」
照れるでも、はぐらかすでもなく、至って真面目で静かな声にライアの思考もつられるように落ち着いた。
落ち着いたが故に。
なにを言ってるんだ。
この人は。
私のためって。
老木殿にくれてやるって。
それはあなたの、大事な、体じゃないの。
私なんかのために無駄にしていいものじゃない。
老木殿が対価を要求したわけでもない筈。万が一そんな事があったのならそんなの、私が代わりに支払ってもいいのに。
「……馬鹿じゃないの……?」
声が震えた。
眉間にものすごい勢いでシワを寄せたライアはそのまま顔を上げてこちらを見下ろしている薄茶色の瞳を見据える。
「そんなことのために、あなたが傷を負う必要なんかないわよ? それに……私なんかのためにあなたの人生を無駄にする必要もない。あなたはあなたが生きたいように生きればいいでしょう? 大工になりたいっていう夢があったのに……私のせいでその夢が潰えるところだったじゃない!」
語気を強めたつもりだったのに、勢いはつかなかった。
自分のせいで片腕を失う覚悟までさせてしまったことを考えたら申し訳なさが胸に広がって……勿論こうなったらなにがなんでも治してやるという気はあるが、それでも……身のすくむ思いがして。
「……うーん、それも、違う」
こちらは本気の視線を向けているというのにレジナルドの方はどこか決まり悪そうに視線を逸らしながら微妙な返答をよこす。
「……?」
ライアがさらに目を眇める。と。
「別に大工になるっていう夢とかそんな大そうなことじゃないよ。……えーと、ほら、ライアに釣り合うような男になるためには何か手に職があった方がいいかなって思って。で、折角カツミさんと仲良くなったしこのまま弟子入りしたらいいかなって思ったんだ。もちろん、いい加減な気持ちとかじゃなくてさ。離れの建設を手伝ってて職人さん達の話を聞いてたらものすごく意気投合しちゃったんだよね。で、僕にも向いてるかなって思ったのも、ある」
照れ臭そうに泳がせていた視線がライアのところに着地するとそれは真剣なものに戻っていた。
「……え……じゃ、大工になるっていうのは元々の夢とかじゃなくて……?」
ライアの目が見開かれる。
なにそれ。
それってつまり……。
「うん……まぁ、その。思いつき。だって無職の男なんか嫌だろ?」
薄茶色の瞳が不安げに揺れる。
まるで何かを恐れるように。
何かを。
なんとなくわかる。
否定されるのを恐れているのだ。
「……あなたねぇ……」
なんと言っていいかわからなくなってライアが肩を落としてそのまま俯く。
思いっきり、脱力してしまった。
そしてその先の言葉も思いつかない。
思いつきでカツミさんのところに弟子入り。
……まぁ、誰に迷惑をかけているわけでもないならそれはそれでいいのかもしれない。
その仕事を馬鹿にしてるとか、軽く見ているとか、そういうことでもなさそうだし。
それに腕のあることで定評のあるカツミさんが弟子にしてもいいと思ったのならそこに口を挟むつもりもない。
でも……その理由が……私、なのか……。
「……私、別に無職だと困るとか言ってないけど……」
そこはなんとなく食い下がる。
だって、そんな理由で彼の人生を決めてしまうのは申し訳なさすぎる。
「え、ダメだろそんなの。村の人にだって認めてもらえないだろうし。……あ、一応無一文とかじゃないけどね。でもさ……なんていうか『地に足つけた生活してる男』じゃなきゃライアが恥ずかしいだろうし」
「え、いや、あの……ちょっと! 私が恥ずかしいってそれ、なに前提よ」
ライアがちょっと慌てる。
私、まだレジナルドと所帯を持つとかそういう話はしてないよね?




