権利証の行方
「取り敢えず、一回落ち着こうか?」
困ったように眉を下げたレジナルドがライアを元の椅子に座らせて、自分も向かいの席に座り直した。
「今、手元になくて申し訳ないんだけどこの店の権利証をちょっと拝借してるんだ。……知ってるかもしれないけど一時的に名義を書き換えさせてもらったよ」
「……一時的……?」
ライアが思わず聞き返す。
と、レジナルドが小さく頷きながら。
「うん。ゼアドル家が……っていうかリアムのやつが君を離さなかっただろ? でさ、ライア自身があの家にいたいと思ってるわけじゃないのは分かったから、あいつが重要視していなかった方のこの店を先に押さえればあとは掻っ攫うだけになるかなって」
「……掻っ攫うって……」
ライアが眉間にシワを寄せる。
「あ、いや! 最終手段というか結果論というか。まさか力ずくで攫おうとか思ってないから。相手が相手だからね。ライアだけはちゃんと正式にあいつが諦めるように仕向けるつもりだったんだけど……ライアの方から動いてくれたから早く済んじゃった……んだけど」
焦ったように早口で捲し立てるレジナルドが薄っすらと頰を染めながら視線を逸らすので。
「……正式、に?」
つい強調されたように思われた単語をライアは繰り返してしまった。
と、レジナルドはハッとしたような顔になって……それから一旦目を閉じて、小さくため息のように息を吐き。
「この店の権利証を書き換えるのにちょっと無茶をしたんだ。でもライアは物じゃないからね、やっぱり大事に扱わないと」
そう言ってその目がまっすぐにこちらに向いた。
口元に浮かんでいる笑みは暖かく、薄茶色の瞳はどこか自信に満ちていて、その目は何か大事な感情を伝えようとしているように見える。
そんな目を向けられると、次に出てくる言葉に妙に気構えてしまう。
そのせいか。
「そうよ! 店の権利証! 何勝手なことしてくれてるのよ! この店が欲しいなら私に直に言いなさいよ! なんで私に黙って……!」
「え、ちょ、ちょっと待って! 違うよ何か勘違いしてる!」
このままいくと出てきそうな話題の方向を回避しようとライアが咄嗟に店の権利証の方に勢いよく話題をすり替えるとレジナルドが慌て出した。
「勘違い……って」
「僕が欲しいのは別に店じゃないよ。リアムじゃないんだからさ。あいつがこの店に手を出せなくなる一番の方法が、商売敵のものにすることだったってだけだよ。ライアが所有者だと婚姻関係で所有権が移るだろ? でも商売敵の商会が所有者ってことになれば手は出せない。だから叔父に頼んでグランホスタの物にしてもらったんだ」
「……頼んで……?」
「そう。ほら、僕さ、もうグランホスタとは縁を切ったからね。ああ、まだ公にしてないけど年が明けたら公表することになってるよ、新しい後継者。で、仕事始めに無茶なお願いしなきゃいけなかったから後継者育てには僕が責任持って尽力したってわけ。だいたいこんな数ヶ月でグランホスタ商会を背負って立てるように教えるなんてただごとじゃないからね。ライアにもらった薬茶と香水なかったらもう僕死んでたと思うよ」
「……え?」
ライアの思考が一旦固まった。
「だからライアのお茶と香水には感謝してるって……」
「じゃなくて! 何……レジナルド……本当にグランホスタ家と縁切ったの?」
ライアが目を見開いたまま聞き返すとレジナルドは当然のように頷いて。
「ああ。だからそうするって言ってたでしょ。……え……っと……もしかして、地位のない男には興味ないとか、言う?」
途中から言葉の勢いがなくなった。
ので。
「いや、まさか。そんなの関係ないけど……そうじゃなくて……え? それじゃ、この店って今誰のもの?」
レジナルドのものでも、自分のものでもないとしたら。
そう思うと頭から一気に血の気が引いた。なんなら目眩もする。
「あ! 大丈夫! 一時的にグランホスタの物にしただけだから! ちゃんと返すよ。リアムも婚約解消するって言ったわけだし、もうこっちにちょっかい出すことはないだろうって確認取れたらすぐにでも返す! そういう約束で叔父にさせた仕事なんだ」
「……一時的……」
話についていくのがやっとでようやく理解した単語をライアが繰り返す。そういえばさっきもその単語が出てきていたような気もする。
「そう一時的。大丈夫だよ。ちゃんと返すからね? ライアの大切な店だろ。思い出も詰まってるし大切な木や薬草たちがいて……ここがライアの居場所なんだからさ」
自分の座っている位置からぐいと前にかがみ込んで距離を縮めたレジナルドがライアの目を覗き込む。
「……私……ここにいていいの……?」
小さな声が出た。
この話の流れは、もしかして、そういうことなのだろうか。という小さな希望。
もはやそれは「希望」だ。
もう、全部無くなったと思っていた。
師匠との思い出も、大事な植物たちとの関わりも、村での穏やかな日々も。
そもそもが自分は分不相応なものを持っていただけで、それゆえに失ったのだ、元々失っても文句の言えないものだった、と思えるくらいに。
楽しい時間は私の人生の中のほんの短い期間の夢で、もうその夢から醒めなければならない時期なのではないかと思っていた。
なのに、まだ、ここにいて夢の続きを見ていいという「希望」があるなんて。
「いいに決まってる」
ふと、温かいものがライアの頬に触れた。
レジナルドの右手の指先がライアの頰をそっとなぞっている。
落としていた視線を上げると薄茶色の瞳がこちらに向かって困ったように細められており。
「ライアはさ、今まで頑張ってきただろ。薬師としての腕は一流で本来ならもっと大きな都市で働いてもいいような人だよ。なのにこんな小さな村に落ち着いて、村の人たちからも信頼されてるよね。それって自分で努力して築いたものだろ? それに不当な境遇にも文句を言わないであんな屋敷でもできる事を見つけてやってたんだよね。それって凄いと思うよ」
ゆっくりと言い聞かせるように紡がれる言葉にライアはつい聞き入ってしまった。
でもそれは、なんだか自分以外の人に向けられている言葉のようで現実味がない。
そう思うと、つい視線を逸らしてしまう。
そして逸らした視線の先にレジナルドの腕に広がる黒い痣を見つけて現実に戻る。
「……あ! その痣!」
まるで話題を逸らすかのようなタイミングになってしまったが、それでもこちらの方が急を要する、とばかりにライアが立ち上がる。
「……え……」
急な反応についていけなかったと思われるレジナルドが固まりそんな彼に「そこにじっとしててね」と声をかけると今度こそライアは裏庭に向かった。
建物を回り込むようにして裏庭に入ると、空気が変わる。
ざわりと、そしてさわさわと、木や植物たちが反応した。
……ああちゃんと覚えてくれているんだ。
そう思うと嬉しくなる。
「ただいま」
囁きかけるような声。
ライアが声をかけるにはそれで十分だ。元々声なんか出さなくても気配でこちらの気持ちまで察してくれるような相手なのだから。
『おお……帰ってきたか……』
開けた庭の一番奥から低くて柔らかい声がした。
「……老木殿……ただいま戻りました」
声の方にいそいそと歩みよりながら声をかけると古木を覆う葉がさわさわと揺れる。
すぐ目の前まで行ってライアは月明かりでわかる範囲でそれとなく木の様子を観察する。古木のウロのあたり。心なしかその辺りの葉が少なくなっているような気がする。
『あの若いのが無理矢理持っていったが……』
心配そうな声にライアが顔を上げ。
「あ、うん。聞いたわ。あなたの葉や棘を傷付けてしまったと謝っていたけど……」
『……ふん……愚かな……。その程度、痛くも痒くもないわ……それ以上の報いを受けたであろうに……』
なんとも微妙な声色で呟かれライアが薄く笑う。
「そうね。……彼の腕、あの感じだともう使い物にならないかもしれない」
手の甲から肩にかけての痣は少しずつ広がって、筋肉の動きを妨げ、関節を蝕み、いずれ肩から先は動かなくなるかもしれない。
そんな状態だった。
『……なに。そんなに酷いのか……』
心なしか焦ったような声がした。
「ん……相当無理矢理腕を突っ込んだんでしょう? 彼」
ライアがため息混じりに尋ねると。
『……まったく……これだから人の子は。一度意思を通わせるとこちらを人と同じようなものと考える……だいたい、こちらは抵抗のしようがない存在なのだ。葉を落とすなり、蔓を断ち切るなりすれば良かろうものを……あやつ、こちらに詫びを入れながら自らの腕をそのまま突っ込みおった』
「……ふ……」
ついライアの笑いが漏れる。
木からする声はどことなく、柔らかく先ほどから温かい。
可愛い子供を叱るような口調になっている。
『お前もだ。姫』
「はい?」
思わぬ声の矛先にライアが真顔になって聞き返す。
『お前とて同じことよ。一度心を通わせてからずっと我らを対等に考えようとする。痛みも傷も人のそれとは違うものである我らと。……こんな気持ちになろうとは……我ながら……』
なんだか大切な物に語りかけるような口調にライアが言葉に詰まる。
そんな風に言われたらなんて答えて良いのかわからない。
と。
『ほら、急げ。姫の腕があればまだ間に合うだろう。薬草たちはもう準備ができているようだぞ』
くすりと柔らかく笑みをこぼす気配と共にそう促されてライアはここに来た目的を思い出す。
あまりに懐かしい感覚にうっかり忘れるところだった。
「あ、そうか。……ありがとう! 薬の材料貰っていくわね!」
薬草たちにはいつも以上に力を分けてほしいと思っていた。だから彼らがレジナルドの行動を快く思っていないままだったら釈明してお願いして、その上で材料を分けてもらうつもりだったのだが。
どうやらそこまでするまでもなく、みんないつも以上の力を出してくれているらしい。
……レジナルド、ちゃんとみんなから受け入れられてるんじゃない。
そう思うとライアの頰が無意識で緩む。
「また歌いにくるわね」
そう言い残すとライアは急いで家に戻った。




