ヘレンという人
目の前に腰を落とした女性の視線には明らかにいたわりの色が浮かんでおり、そのどこか哀しげな視線にライアは戸惑いを感じた。
自分にこういう種類の感情を込めた視線や声が向けられるとは思っていなかったので。
あまりにも意表をつかれた。
「さっきの話、聞いてしまったのよね?」
ヘレンがそっと尋ねてくる。
ライアはその言葉の意味するところに気づき、上げていた視線を下げる。
と、ヘレンが慌てるように少しにじり寄ってきながら。
「あ、いいのよ。立ち聞きしたことを咎めたりはしないわ。そもそもこんなところで話していて聞くなという方が間違いよね。貴女にとってここは……ここは……ここに貴女がいるのは……ごく当たり前のことでもあるのよね」
最後の方の言葉はとても辛そうに、まるで絞り出すかのような声で……ライアはその理由にも思い当たった。
リアムの言葉。
ついさっき話していた、この離れを建てた理由だ。
この離れに使われた木に対する私の思いを考えて、言葉を選んだのだろう、と思えた。
そして。
それに気づいた途端、ライアの目から涙が溢れた。
「……っ」
声にならない嗚咽にヘレンが静かに慌てるのが分かったがライアにはそれを気遣う余裕はなかった。
「ごめ……なさい……私……知らなかっ……」
ライアの口をついて出る言葉にヘレンは息を飲んだ。
「え……知らなかった……の? もしかして、この建物に使われてる木の話、今初めて聞いたの?」
きっと陽の光が差し込む場所にいたらヘレンの青ざめた顔がよく見えたかもしれない。
そのくらい彼女の口調は愕然としたものだった。
なので、ライアは素直に首を横に振った。
知って、いたのだ。
この離れに使われている木のことは。
リアムが得意げに話してくれたので。
信じたくなんかなくたって、自分の感覚の全てがそれを肯定している。
ただ、その動機を知らなかった。
そこまで酷いことを考えていたなんて思いもしなかった。
そうは思っても、それは恐らく木と心を通わせてしまう自分ならではの感情なのかもしれないとも思う。
単に思い出の場所、というだけの話なら、ここまで深くは傷つかない。
飽くまで「自分の」思い出の場所がなくなったという喪失感だけがここにあるはずなのだ。
でも、柳は確かに生きていた。
私とは別の生を持つものとして。
柳の木の思い出も、想いも、関わってきた全てのものとの関係も……その全てを断ち切られたことへの哀しみはきっと誰にも理解してもらえない。
それらはほんの短い生を生きる人間と比べたらもっとずっと重いものだったのに。
そう思うと涙は止まらず、言葉は出てこなくなり、ただ嗚咽が漏れるだけで。
そんなライアにヘレンは自分の意見を押し付けることもなく、そっと隣に移動して背中に手を回してゆっくりさすってくれた。
「……そう」
ヘレンの相槌には重みがあった。
しばらく泣いて、落ち着いたライアはヘレンに簡単に説明はできたのだ。
自分の能力について話す必要はないと思ったので、この離れを建てたリアムの真意を今初めて知った、ということだけを説明してみたところ、ヘレンは深く頷いて一言だけ相槌を打ってくれた。
「あの……すみません、こんなことくらいで泣いたりして……」
ライアが小さく謝ると。
「いいのよ! こんなところに連れてこられて、しかも思い出の場所まで奪われることがどんなに辛いことかあのバカ息子は全く分かってないわね」
宙を見据えたまま毒づくヘレンの様子は誰かを思い出させるな、と思えてライアは口元を歪めた。
「しかもあなた、本当にいい子ね。あのバカ息子の善意を信じようとしてくれてたなんて。……もう、ほんとに我が息子ながら情けないったらないわ」
ライアの方に視線を戻したヘレンが柔らかく微笑んだ。
心なしか「あなた」という呼びかけが優しくなったような気がしてライアの肩の力が抜ける。
それで小さく笑みが漏れ。
「……いえ。きっとリアムは家を継ぐことにものすごく気負っているだけなんじゃないかと思うんです。最近はエリーゼさんが彼を気にかけていて……お陰でずいぶんリアムも柔らかくなったと思うんですよ」
……柔らかくなった、というのはかなり和らげた表現だ。人間らしくなった、くらいに言いたかったがさすがに母親の前でそう言ったら今まで人間じゃなかったみたいでそれは差し控えた。
と。
ヘレンが意味ありげにくすりと笑って。
「……そうね。エリーゼには本当に感謝しているのよ。あの子も本当にいい子。うちの大バカ者たちに喝を入れられるのはあの子くらいだわ」
そう言って気怠げに頭をくしゃりと掻き、小さく「あ」と声を上げる。
綺麗に結い上げた髪が乱れてしまったのだ。
ヘレンは躊躇いもなく髪を留めていた髪留めを外して軽く首を振り、滑らかな金髪を肩に下ろす。
「……私にも責任があるのは分かっているのよ。子育てを完全に放棄したわ。若い頃は自分の境遇を恨んでばかりいてね。……そんな未熟者が子供なんか作るべきじゃなかったのよね。でも当時は息子を産むことだけが自分の立場を確立する為の方法だと思ってて……アビーのことだってこれっぽっちも思いやったりしなかったわ」
深いため息が吐かれる。
アビーというのは夫の愛称なのだ、とライアが気付くのに少々時間がかかった。
そうか。……彼女は夫を今でも大切に思っているのだ。と、ライアは思う。
どことなく夫を愛称で呼んだ彼女の口調にはそう思わざるを得ないような響きがあった。なので。
「……こちらには戻ってこないんですか?」
つい、立ち入ったこととは知りながらも尋ねてしまう。
「んー……」
ライアの隣に座り込んだ姿勢で立てた膝の上に両腕を伸ばして乗せたヘレンが気怠げに答える。
ライアの「立ち入った」質問を気にする様子は全くない。
「ほんとはね、そろそろ戻ろうかなって思ってたのよね。で、今日は様子見で息子に会いに来てみたの。今度のお披露目パーティーにはどうしたって私も出なきゃいけないんだけど、それを機に戻ろうかなって。まさかこんなに色々拗れてるなんて思わなかったし」
「……はぁ……」
そうか、離れているとこの屋敷で何が起きているかなんて頓着していられなかったかもしれないな。と、ライアは遠い目をする。
そもそも聞いた話だと、このヘレンという人は仕事一筋で別宅を拠点にバリバリ働いていたんじゃなかったっけ。
「これでもね、息子の不出来さ加減と夫の突拍子のない子育てに嘆いてはいるのよ。で、どうにかしようと裏で手回しはするつもりなの。表立ってやったら二人とも思いっきりプライド傷つけられて捻くれまくった挙句素っ頓狂な方向に走ってしまいそうなタイプじゃない? だからさぁ、二人にバレないように色々根回ししようと思ってね……いたんだけど……」
かしかしと頭を掻きながら話すヘレンはなんだか物凄く気さくさ全開でライアの方が目を丸くしてしまう。
この人、なんだか物凄く……ざっくばらん過ぎないか?
「……はぁ……」
そう思うともう、打てそうな相槌のバリエーションがなくなってきた。
「ああそうだ。だからね」
そんなライアにはお構いなしでヘレンがライアの方に向き直った。
「あなたは自分の好きなようになさい。ここにいたいわけじゃないんでしょ? うちのバカ息子とバカ亭主に気を遣って騒ぎを起こさないようにしなきゃとか思って、ここにいてくれてるだけなのよね?」
「え……っと……」
ライアはヘレンのあまりに率直な物言いに思わず「ええそうです」と言いかけてその言葉も飲み込んだ。
「……まさかあなたまであのバカ息子に気があるなんていう、素っ頓狂なこと言わないわよね? 母親の私が言うことじゃないけどそんな絶滅危惧種みたいなのはエリーゼ一人で十分奇跡的存在なのよ?」
「いや……そういうわけではないですが……」
ついたどたどしく返事をしてしまいながら……えーと、私、なんでここにいるんだっけ……とライアが記憶を辿る。
「あ、そうだ。違うんです。私、今帰る場所がなくなってしまってまして」
目の前の女性の意外すぎる言動に色んなことを忘れかけていたライアだったが、どうにか現状を力ずくで思い出してみたので説明を試みた。
自分の家の権利がグランホスタに持っていかれてしまったこと。
しようとしていた仕事は、ここでなら思うようにできそうなのが現状であること、機材だけでなく庭師の腕もいいから材料の調達もできる見込みがあることなど。
「あああ。グランホスタまで巻き込んだのか……どうしようもないなあの出来損ない後継者はっ!」
ついにヘレンが頭を抱え込んだ。
「……えーと……?」
いや……その……えーと……うん。出来損ない……グランホスタを巻き込んだ……間違ってはいないと思うんだけど……言い方よ。
そもそもレジナルドへの当て付けにこの離れを建てたという段階で十分巻き込んでると思うんだけど。
「いや、だって。あなたのお家、グランホスタの所有物になってるんでしょう? あそこの御子息は確か後継者の権利を譲るって話よ? ……ああ、これはまだ表立った話じゃないんだけどね。ということは、よ。御子息の気に障るような事をしてこの離れを建てたっていう事も問題だけど、それ以上ににグランホスタ商会の財産そのものにまで影響を与えたって事なのよね、あのバカ息子は」
「え……っと、それってそんなにまずい事ですか?」
一応ライアは頭の中を整理してみて。
自分の主観は置いておくとしても、グランホスタ商会の所有物が増えるという事そのものは、もしかしたらゼアドル商会にとっては面白くない事なのかもしれない。
でも、この場合、家の中身である自分がここにいるのだから大した損失ではないだろう。
それに、ヘレンの言葉はそういうこととはちょっとニュアンスが違った気がした。
そう。彼女は「影響を与えた」という言い方をしたのだ。
「んー……そうねぇ……」
ライアの疑問点に気付いたのかヘレンがライアの方にチラリと視線を送ってよこしてから気まずそうにその視線を逸らして。
「少なくとも、今のところ、あなたの家そのものにはただの土地と店っていう価値しかないわけよ。でね、グランホスタがそんなものにわざわざ手を出すっていうのはむしろ損失になるの。名義を考えると買い取ったのは御子息ではなくて当主でしょ? つまりあなたの詳しい現場を知らないでお金を出してる可能性もあるわよね。あなたがうちにいる以上大きな収益が見込めるわけじゃないし。となるとね、あの商会、この後どう出るかわからないわ。慈善活動の一環で買い取ったとかいうわけじゃないと思うから。買い取ってみたけど中身が空なんて……うちが報復されかねないって事」
「……げ」
ヘレンの視線と口調には冗談を思わせるようなものは一切なく、それゆえにライアは思わず小さくうめいた。
そしてふと。
「あれ? ……でも買い取った……って仰いました? 誰から?」
思わず目を丸くしながらライアがヘレンを見つめる。
なにしろ元の持ち主である自分の預かり知らぬところで起きた所有権の移動。お金なんかもらってないし。
「あちゃー……」
そんな様子を見たヘレンが自分の額に片手をぺちりと当てた。
「そっか……あなた、取引に応じたわけじゃないのよね? となると、事態はもっとややこしいかも。不正な方法で店と土地を手に入れるって、結構なリスクがあるのよ。そのリスクに見合う利益が無かったって分かったら、うち、結構大変なことになると思うのよね。なにしろグランホスタの現当主はそういうのきっちり片をつけるタイプだから」
「ええええ……」
他人事のように聞いていたライアはついに青ざめた。
気づかない間に結構ことが大きくなってる……!
「とにかく。あなたは無理にこの家に合わせることはないわ。自分の利益をまず考えなさい。今度のお披露目パーティーだって、機会があればあのバカ息子に恥の一つもかかせていいし、なんならすっぽかしたっていいわ。帰るところがないなら息子の不祥事としてグランホスタから店を買い戻してあげるからそれまでは私の別邸に来てくれててもいいわ」
「え……本当、に……?」
思いがけない申し出にライアの声が震えた。
「もちろん。これはあなたへのお詫びのしるしよ」
そう言うとヘレンがにっこりと笑う。その笑みはどことなく自信と落ち着きが滲み出ていて不安なライアの心に安心感をくれたのだ。




