隙間に落ちた夜
夜。
少し夕食が遅かったのは恐らくリアムがひと騒ぎしたのだろうとライアは想像したのだが、カエデが食事の支度を運んできてから色々とあの後の出来事を報告してくれて納得した。
つまり。
当たり前のこととしてエリーゼは目を覚ました。
そしてリアムは彼女を問い詰めはしたものの最終的にはエリーゼに徹底的にやり込められたらしい。
「女性の心を何だとお思いですか」と睨みつけられて言葉を失った挙句、エリーゼに頭を下げたリアムはその場に居合わせた使用人と医師にとって相当な見ものだったと伝え聞いたカエデは「これはしばらく使用人の間で話題になりますね!」と鼻息も荒く興奮していた。
「ですから、ライア様は責任を問われることはないと思いますわよ」
とカエデは大きく頷いて見せる。
運ばれてきた物は手付かずで持って帰ってもらうわけにはいかないので話を聞きながら食事を進めていたライアは話の終盤、そのあたりに来てようやく食事の味がわかるようになってきていた。
そもそも食欲なんてなかったくらいだ。
とにかく。
エリーゼが無事でよかった。
薬効が無事に切れることだけではなく、リアムに何か言われるとか、最悪この屋敷から追い出されるとか絶縁とかいうことになったらどうしようかと気が気ではなかったので。
本来なら自分が出した薬の効果がきちんと切れて、体調が完全に元通りになっているか自分の目で確認したいところだった。
でも、カエデの話によれば今日のところは医師の指示でベッドから出ないようにしているだけで体もいたって元気そうだということなので、ひとまずは安心できる。
「あ、それから、これ……」
ライアが食事を終えるのを見届けてからカエデがエプロンのポケットから紙の束を取り出した。
束、と言っても小さめの紙を何枚か折りたたんだ物で、それが何かを一瞬で察したライアの頬が一気に赤く染まった。
「当たり前ですが、私は中身は見ていませんからね?」
カエデがどこか決まり悪そうにそう付け足しながらそれをテーブルの上に置いた。
うん。それは当たり前だしそんなこと疑ってないけど……そう言いたくなる気持ちはわかる、と思ってライアもそこはあえて突っ込まず「ありがとう」とだけ伝えてその紙の束を手に取る。
畳まれているので文章は読めないが、チラリと見えた文字はやっぱりレジナルドの文字だ。
一番最初に貰ったメモ書きを時々引っ張り出して読み返すなんていう事をしていたのですっかりその文字の特徴を覚えてしまっている。
そして、そんな自分に一瞬胸の奥がずきりと痛んだ。
彼は、私の店を奪った人だ。
ついそんな現実を、頭の片隅から引っ張り出す。
のぼせるな私。
彼への想いをこれ以上募らせるな。
反射的に笑みが浮かびそうになった頬は、唇を引き締めて緊張させて理性を引っ張り出す。
「ライア様?」
なんとも微妙な表情に仕上がっているライアを気遣わしげに覗き込みながらカエデが声をかけてくるので。
「へっ? あ、何?」
ライアがようやく我に返った。
「あ、いえ。……その手紙、お返ししてよろしかったんですよね?」
カエデが眉をひそめながら訊いてくるので。
「あ、うん! 勿論よ! ありがとう!」
慌てながら答えるライアにカエデは「恋人からのお手紙かと思ったんですが……そのご様子ですと違いましたか」なんてボソリと呟いた。
ライアは乾いた笑みを返すのみで詳しくは語らず……。
気遣わしげに世話を妬いてくれるカエデは恐らくライアの表情から何かを察していたのかもしれない。
手紙を読んではいないとはいえ、大体こんな事が書いてあるというのは話してあった。
そんな内容の手紙を受けとって素直に嬉しそうにするのではなく、微妙な反応のライアを見たら心配もするだろう。そもそもカエデはライアの家が人手に渡ったことは知らない筈だ。
つまり今のライアには帰る場所がない、という事はほぼ誰も知らないということになる。
そんなカエデが退室してから、申し訳なかったなと思いつつライアは小さくため息を吐く。
窓の外はもう暗い。
「はぁ……とんでもない一日だったな……」
小さな声が漏れた。
朝の騒動は予想していたとはいえ、コキアの乱入とそれによる事態は全くの想定外だった。お陰で一日中部屋から出るわけにもいかず、かといって部屋でできる事があるわけでもなくやたらと長い時間をここで過ごしたような気がする。
やることもなく、じっとしていなければいけないというのは結構辛いものだ。
しかも物事の進展状況がわからないままだったので気楽に過ごすこともできないまま。
とりあえず、屋敷の中の事件はそれなりに片がついたのではないかと思うと少し気が楽になった。
それでもどこか落ち着かないのは……たぶん。
ライアの視線が手元に落ちる。
カエデから受け取った数枚の紙の束はしまうでも捨てるでもなく握ったままだ。
なんとなく開くのも躊躇われて受け取った形のままだった。
だって、これを書いた彼の気持ちがもうわからない。
彼の気持ち、本音、目的、魂胆。
そして、そんなものを探り出すような目で読んでしまいそうな自分も嫌で。
そんな思いを自覚してしまったところで、紙の束を一旦くしゃりと握りしめてしまってから……それでも誰かが自分のために書いたものだと思うと捨てるのも忍びなく……ノロノロと開けた引き出しの奥にそっとしまってみる。
ああ、こんな気持ちの時、今までだったら……。
今までだったら、裏庭の老木殿の所に行っていたな、と思い出す。
きっと風に揺れる草花達を眺めて、老木殿の昔話でも聞いたらこんな気分はすっかり癒えてしまうのだ。
もしくは。
キラキラと光を反射する池の水面と、風が吹いるわけではないのにまるでそよ風に揺れてでもいるかのように優雅に揺れる柳の木の細い枝を思い出す。
小さくて細い葉っぱはキラキラと囁きかけてきて「大丈夫? 泣いてるの?」なんて小さな声がしたものだ。
そして笑えるようになるまでずっとそばで気にかけていてくれた。
柳の木は、柔らかい時間の流れを寝たふりなんかしながら寄り添ってくれた。
笑えるようになる頃に「また来ていたのか」なんて声をかけてくれたりして。
どうしても話を聞いてほしい時には「何があった?」と声をかけてくれるから普段は寝たふりでもしていたんだと気付いたのはわりと最近だ。
古い木ほど気の使い方が上手いのかもしれないと思うようになっていた。
あの柳の木は、もういないのだ。
そう思うと心の中が急に喪失感で満たされた気がして体が重くなった。
そんな体を引きずるようにライアが歩き出す。
部屋のドアに向かって。
ドアを開けると廊下には誰もいない。
今日の出来事を考えたら、見張りの一人くらいはいてもいいようなものだが……リアムはともかく使用人には信用されているということかもしれない。
なのでそっと廊下に出て歩き出す。
階段を降りて一階のエントランスに向かい、重い玄関のドアを少しだけ開けて外に出る。
すっかり日が暮れた後の空気は若干肌寒く、ささやかな風ももう冷たい。
風に揺れる木の葉は微かな音を立てており……ああ、また満月の時期がやってきたのか、とライアは空を見上げてみた。
残念ながら雲に隠れてくっきりとは見えない月は、それでもぼんやりとあたりを照らしており手入れのされた庭の木や花壇の植物の整ったシルエットを浮かび上がらせている。
庭を歩くのはもう慣れたもので行きたいところがあれば迷うことなく真っ直ぐに向かうことができる。
なんとなく足が向いた先は、離れだ。
思い描くあの場所にいるはずの柳の木が、今はここに、物言わぬ姿で、その形すら変えて、ある。
もう「いる」とは呼べない姿だ。
そんな事を改めて思うと視界がぼやけて目の奥が熱くなってくる。
それでも、そばにいたい、と思った。
そっと離れの玄関に近づく。
ドアが空いていなければ中に入らなくてもいい、なるべく近くにいければそれでいい、と思っていたのにドアはあっけなく開いた。
まだ建物の中は空っぽだから施錠する必要もないという事なのかもしれない。
真っ暗な室内は大きくとった窓のお陰で外からの仄かな月明かりが差し込んでうっすらと明るい。
満月に近い月の光は薄雲を通してもまだ辺りをそこそこに照らす程度には役立っているようだ。
そっと忍び込むように室内に入り込んで、窓際まで行き、その窓のある壁に背中を押しつけてしゃがみ込む。
まだ何も搬入されていない室内はがらんと広く、床全体が見渡せる。
大好きだった声はもうしない。
でも一歩踏み込んだその瞬間からライアを包むのは、よく知った柔らかく温かい、そんな空気だ。
この空気に包まれて、安心し切って過ごせる時間が好きだった。
そう思いながらライアはゆっくりと抱えた膝の上に顔を伏せた。
 




