権利書
そろそろ夕方かな、という時間帯。
バタバタと慌てたような足音がしてライアの部屋のドアがノックされた。
来たか。
と思ってライアが姿勢を正して返事をすると思った通りリアムが入ってきた。
入ってきた、のだが。
……ん?
あれ?
ライアが目を丸くしてから僅かに眉を寄せる。
入ってきたリアムは肩で息をしており髪もちょっと乱れている。
どこかから走ってきたのだろう。
でも、今この段階で彼がこんなに急いで来る理由ってあったかな? まだ何も言ってない。
エリーゼさんがあの薬を飲むのだって話をした事を伝えてから、ということになっている。
「これは、どういうことだっ!」
ライアの目の前に乱暴に突き出されたのは筒状に丸めた紙。
ここに来るまでの間、握られていたせいか真ん中がクシャッと潰れているがちょっと上等そうな厚みのある紙だ。
目の前に突き出された勢いでライアはそれを反射的に受け取って、何事だろう、とその紙を広げてみる。
「……何? これ」
肩で息をしているリアムは自分で中身を確かめろとでも言うかのように軽く顎をしゃくって見せるだけなので、ライアの視線が再び紙面に落ちる。
上等な紙。何かの契約書の類だろうか。
ああそういえばこんな感じの装丁の紙面を見たことあるな……あれは、ああそうだ。師匠が見せてくれたあの店の権利書だ。
内容を知ってすぐ老木殿に預けてしまったから見たのは一回きりでかなり前の話だけど、確かあの権利書もこんな感じだった。
懐かしく思い出すのは老木殿に預けた日のこと。師匠と二人で老木殿に頼み込んで私たち以外の人には絶対に渡さないと誓ってもらって、もし他の人に見せなければいけないとしても私たちのどちらかが必ず立ち会うと約束したのだ。
ちょっと大袈裟に儀式めいた雰囲気を作ったのは老木殿とその場にいた他の草木たちのお茶目な演出で、なんだか楽しかった。
そんな事をふと思い出してしまったところではあったが手元の証書。これは色調からして写し、といったところか。
ああいう証書は作成するに当たって写し、つまり複製が何枚か作られる。必要に応じて他者が閲覧できるようにしておくのだ。物によっては取引先に見せる必要があったりどこか別の場所に保管する必要があったりするので。
で、手元の写し。
ライアが過去を思い出しながら視線を滑らせて、そのまま目を見開く。
「……え?」
小さい声が出てしまったのは仕方ない。
証書に記載されているのは個人所有の土地と建物。
そしてそれは、自分が数ヶ月前まで生活していた、薬種屋だ。
「お前、いつの間にグランホスタと手を組んだ?」
いつもより乱暴な口調のリアムの声にもまともな反応は返せない。
その声と同時のタイミングでライアの視線は所有者の欄に固定されてしまったので。
グランホスタ商会
そこにははっきりとそう記載してある。
つまりあの店はいつの間にか人手に渡っており、その先はグランホスタ商会。つまり……レジナルドの家ということになる。
だってそもそも、所有者を変更するためには元の権利書が必要で、そのありかなんて誰も知らないはず。そして万が一、知られたとしても老木殿がいるのだ。そう簡単に手は出せないはず……。
そこで嫌な考えがライアの脳裏に浮かび上がる。
知っている人が、一人、いる。
そして彼には、老木殿も警戒を緩めるかもしれない。
少なくとも、老木殿と言葉を交わすことができる人。
心優しい老木殿は彼になら……証書を渡すだろうか。
ゼアドル商会が例の薬を欲しがっているくらいだ。グランホスタ商会だってそういう商品は欲しいだろう。
先の見込める物なら尚更。
でも、先が見込める保証なんか今まではなかった。だからそういう組織があからさまに欲しがる可能性なんか考えていなかった。ゼアドル商会に限っては師匠の血縁者という事により執着されていたっていうだけのことだ。
だからグランホスタ商会があの薬の商品価値や大量生産の見込みに目をつけるなんてありえない。
ライアの頭の片隅に、浮かんでは消えるのはレジナルド。
彼がそんな事をするはずがない。そう思ってはその可能性を打ち消す。
だって彼は、私にそういう目的で近づいたわけではなかった。
だって彼は、グランホスタ家とは縁を切ると言っていた。
だって彼は……そうだ。何よりも彼は、あの薬が大量生産できるようになるかもしれないなんていう可能性を知らないはずだ。
知らない……はず?
そこではたと。
嫌な事を思い出す。
いたじゃない。彼。離れに。
そこで作業していた。
あそこにある物やあそこで行われることになる作業について知ったとしてもおかしくない。
他の人たちなら何の事か分からないような言葉のやり取りでも、私がここにいて、私の仕事が何で、なんていう事を全部知っている彼ならあの場で聞きかじるであろう色々な言葉の断片を繋ぎ合わせて理解することはできるかもしれない。
そんな可能性の小さなかけらに思い当たった途端、びっくりするような筋書きがライアの頭の中で組み上がる。
知り合った「腕のいい薬師」に商売敵のゼアドル商会が執着していることに気づいたグランホスタ家、次期当主。
その薬師に近づいてみたら何のことはない、細かいやりとりは理解できないような薬師。
自分は家を継ぐ気はない、つまり敵にはなり得ないと言って仲良くなったところで土地と店の契約書の存在とその価値を知る。
そして薬師本人が店から消えるという絶好のチャンスが訪れる。
商売敵のゼアドル商会は薬師本人を連れ去ったわけだから店の方への警戒なんかなくなる。
うまくゼアドル家に潜り込んで薬が本当に大量生産できて将来性が見込めるということに確信を持ったところで……土地と店を手に入れる。
あとは薬師だけでは役に立たないということに気づいたゼアドル商会が、薬師を放り出すのを待っていればめでたしめでたし。
薬師に好意を持つ男が彼女を助けるという名目で色んなものを手に入れることが出来るという筋書き。
家業は継がないと言っていたとしても「そういうわけにもいかなくなった」と言われればそれまでだ。
最初から、そういう計算があったのかもしれない。
もっと言えば最初の出逢いだってたまたまとかじゃなくて……機を伺っていたとかも……無きにしも非ず。
「……知らない、こんなの」
口をついて出た声には力がなく、今にも消え入りそうだった。
「知らないで済むか。だいたい店と土地の権利書をグランホスタの奴に渡さなければこういう事にはならないだろうが」
ライアの言葉を拾ったリアムはもう今までの言葉遣いも態度もかなぐり捨てたような粗野な雰囲気そのものだ。
それでも、ライアにはそんなことは気にもならない。
胸の中に大きな穴が空いたような喪失感。
それは……柳の木がもう居なくなってしまったと理解した時のものに少し似ていたかもしれない。
頭の中が真っ白で、物事を考える力が一気に抜け落ちたような脱力感。
それは……昔、母親に愛されたくて努力を尽くしたのに施設に連れていかれる事を悟った時の脱力感に似ているかもしれない。
ああ、これではいけない。
と、無理矢理思考を戻す。
私は、やるべき事をやり遂げなくては。
今やらなきゃいけないことなんて、そんなに大変なことじゃない筈だった。
そう。
例えレジナルドが私が思っていたような人ではなかったとしたって、だからといって、私にはそう大きく影響はない。たいしたことではない。
あの店はもう私のものではなくなってしまった。
でも元々、私のものじゃない。師匠のものだ。
私は仮住まいさせてもらっていただけ。
老木殿のいるあの庭は、もう私のものではなくなってしまった。
でも元々、私の所有物じゃない。老木殿にも庭の草木たちにも自分の意思があって私とは仲良くしてくれていたというだけで、他の人を拒否しているわけではない。
現に、レジナルドのことは気に入っていたみたいだし。
私が、今までいたあの場所から姿を消したところで……誰も何も変わらない。元に戻っただけ。
こういう立ち直りも……早くなったかもしれない。
現実を受け入れて諦めることや、欲しいと主張しても手に入らないものに見切りをつけることに慣れてしまったのかもしれない。
「……グランホスタとはどんな計画を立てていたんだ?」
低い声がしてライアの顎にぐいと手がかかった。
気付けば目の前に迫っていたリアムが無理矢理ライアの顔を上げさせてこちらを見下ろしている。
「けいかく?」
ライアの目の焦点はぼんやりとしたままで言葉にも力がないがどうにか返事は出来るようで。
「さしずめ土地と店をあいつに渡して、それでは意味がないと諦めたわたしがお前を放り出すのを待っているとかそんなところか。もしくは……店と土地さえ手に入れば他の薬師を見繕って薬種屋を継がせるからお前はもう用済み、といったところか。……あの薬に必要な材料はあの店でしか用意できないということになっていたようだからな」
口元を歪めて目の前で嫌な笑いを浮かべる男の感情を、ライアはもう汲み取る気にはならなかった。
そんな計画の可能性は思いつきもしなかったのだ。
「……そんな計画知らない」
何の感情もこもらない、平坦な声が出た。
されるがままの体勢で答えるライアを一瞥してリアムが小さくため息を吐く。
「ふん。あくまでシラを切るならそれはそれでいい。こちらにもやり方はある」
そう言い捨てるとリアムの体がライアから一歩離れた。
解放されたライアがリアムの動きを目で追うのは興味があるからとか関心があるからとかではなく、ただの反射的な行動だろう。
思案げに腕を組んで宙を見据えるリアムは何か悪巧みをしているようにも見える。そんな様子にさえ善意を感じないのは……きっと彼に好意を持てない主観のせいかもしれない。
「いずれにしても、今度のパーティーで君にはわたしと正式に婚約してもらう。あの離れがあれば薬の調合は可能な筈だ。それに……君はうちの庭師とも仲がいいね。薬草を栽培するのに必要な環境は彼に協力してもらってここに作ればいい。必要なものは取り寄せてやる。うちの庭師の腕の良さと知識の深さは先代からも認められているからな」
「……え?」
宙を見据えながら一つ一つ確認するように話すリアムの言葉にライアの方が驚いた。
そうか、この人は。
あまりにも淡々と話すリアムの様子にライアの気持ちが現実に引き戻された。
そうかこの人は、本当に仕事脳なのだ。
そして、彼が言うようにディランがいればこの屋敷の庭にあの店の裏庭と同じような環境を作ることは可能だろう。
あれ。
でも。それなら。
何か不自然だ。何だっけ……えーと……。
ライアが小さく首を傾げながらリアムの計画を一つ一つ頭の中で反芻してみる。
で。
「……あの……それってもはや婚約って必要なくない?」
だってただ今、私、帰る場所なくなったよね。あの店はもう私の家じゃない。
で、更に、仕事場も無くなったわけで。それを最も魅力的な条件で提供してくれるゼアドル家としてはもう結婚とかいう手段なしで普通に薬師の私と契約したら良くない?
「ああ、それね」
ライアの疑問にリアムが微妙な笑みを作った。




