動き出す
「平気なわけないだろ!」
大きな声がしてライアがノロノロと視線を上げると、レジナルドの真剣な顔が目に入った。
あれ。
なんでこの人、こんなに真剣なんだろう。
私は大丈夫なのに。
ただ、木が一本切られたというだけの話だ。
森にはまだたくさんの木があって、その中の、一本が、切り倒されたというだけの話。
全然大丈夫。
「……ライア。なんで僕の前で平気なフリなんかするんだよ。あの木はライアの大切な友達だろう。……ちゃんと泣けよ」
覗き込んでくる薄茶色の瞳が心許なさげに揺れている。
「……え……泣くって……?」
だって、おかしいでしょう。
木が切られて泣くなんて。
切られた木のために悲しむなんて。
「あのな。僕をなんだと思ってんの。ライアのことどれだけ見てきたと思ってるんだよ。あの柳がライアにとってどんな存在かなんて知ってるよ。ライアにとって大事な存在は例え言葉を交わせなくても僕にとっても大事な存在だ。……頼むから、僕の前で我慢なんかするな」
絞り出すような声だった。
気付けば体を支えていた彼の手はライアの両頬を包み込んで、額と額がくっついている。
ほんの少し視線をずらすだけでレジナルドの瞳が目に入り、その瞳は苦痛を堪えるように潤んでいた。
「……ばかね、なんであなたが泣くの」
ライアが口元に薄い笑みを作ってレジナルドの頬を片手で撫でる。
ああ、私ではなくてこの人が、今にも泣きそうな顔をしている。
そう思ったら、つい無理矢理にでも笑みを作ってしまった。
「ライアが泣かないからだろ。……ほら、泣けって」
そんなこと言われたって。
「……ふ……」
つい笑みが漏れた……筈だった。
小さな薄い笑い。
私は大丈夫よ、っていう自己主張を兼ねた笑み。
なのに。
胸の奥から出た声は微かに震えていて……頬を何かが滑る。
口角を上げておきたいのに下唇を噛んでおかないと、嗚咽が漏れそうだ。
こんな所で声を上げて泣くわけにはいかない。
色んな意味で。
誰か人に聞かれたら、この場を説明するのはちょっと面倒な事になる。
周りの木や茂みたちはもうさっきから心配そうにしてくれている。
この庭を悲しみで染めるわけにはいかない。
なのに。
この白ウサギときたら。
さっきからずっと背中を優しくさすってくれたりして、涙を流す私を一つも責めないのだ。
「それでいい」って囁き続けてくれる。
だから余計に止まらなくなる。
声を殺して、なるべく控えめになるようにしゃくり上げながらも、涙は止まらない。
「……ごめんな」
暫くして、レジナルドがゆっくり呟いた。
「……ふぇ?」
まだ泣き止めていないのでライアの返事は不明瞭なままだ。
「もっと早く、気付いていたら止めてやったのに。……森にはずっと行ってないんだ。ライアがいなくなってから……最初は森に探しに行こうかとも思ったんだけどどこかですれ違ったら、と思うとライアの店で待ってる方がいいような気がして……あの店から一歩も離れられなかった。木を切ろうとなんかする奴がいたなら……見つけてたら……力ずくででも止めたのに」
ああ、そんなこと。
謝らなくたっていいのに。
だってこれはどうしようもない。レジナルドにはなんの責任も無いことだ。
そう思ったら今度こそ、小さく笑みが浮かんだ。
そしてライアがそっと頭を振る。
「いいの。木ってね、私が思うほど自分の存在に固執してないのよ。いずれ切り倒されるのも定め……っていつも笑うの。命のあり方も人とは違うから、人が死んじゃうのと同じじゃないんだよ……っていつも言われてたの。だから悲しく思うのは私の勝手」
泣いたらほんの少し気持ちが落ち着いた。
なのでゆっくりなら、心を揺らさない程度になるべく平坦な気持ちを保てば、喋れる。
そんなライアがゆっくり説明するとレジナルドが小さくため息をついた。
「そんなこと言ったって……頭で理解するのと気持ちで処理するのは別問題だろ。我慢する必要なんかない。だいたいなんだってあいつ、そんなこと思い立ったんだ。ライアへの当て付け……いや、でもあいつはライアがあの木と喋れること知らないんだよな?」
「……悪気はないと思うの。私があなたとあそこでダンスしてたの知ってたから……本当に善意で、思い出の木を使ったらいい建物になるだろう、くらいの気持ちだったと思うのよ」
レジナルドの怒りの矛先が明確になりかけた所でライアが思わず視線をひしと彼の瞳に貼り付けた。
「……なんで庇うんだ?」
一旦屋敷の方に向かっていたレジナルドの視線はふと胸元にしがみつくような格好になっているライアに落ちた。
「え……別に庇ってるわけじゃ……」
ライアの視線が落ちる。
……庇うとかそういうのではないけれど、でもエリーゼさんが一生懸命なのを知ってるし、さっきはどことなくその成果がちょっとはでているんじゃないかなんていう気がした。そういう事を考えると、もうただの悪人のような気はしなくなっている。
でも、それをレジナルドに説明するのって……一言では、無理。
「……なんだよ。ライア……もしかして……一緒にいるうちにあいつに情がうつった……?」
「え、違う!」
思わず勢いよく顔を上げたライアの視線の先で、レジナルドの目が眇められる。そして。
「もしかして……僕の手紙に応えてくれなかったのも……そのせい、か?」
「いや、だから違うって! 別にリアムの事なんかなんとも思ってないし……って、え? 何、手紙に応えるって……どういう事?」
なんだか肝心な所で誤解が生じていそうでライアがつい必死になったあと、不可解な発言に引っかかり眉を顰めると。
「……本当にあいつのこと、好きになったりとかしてない?」
「ない! そもそもこのお屋敷にはあの人に思いを寄せてる女の子がいるんだから。私は彼女を応援してるの!」
「そんなの……信用できない。ライアの恋敵かもしれないじゃない」
レジナルドがへにゃっと眉を下げた。
「こ……っ、恋敵っ?」
「ライアは知らないかもしれないけどね、ゼアドル家のリアムって言ったら街の令嬢たちに人気あるんだよ? 言いたくないけどあいつ顔はいいからね。あいつのところで仕事できるなんて事になったらそりゃ仲良くもなるだろ?」
あれ。
なんか急に口調が……というか醸し出す雰囲気が……幼くなった……?
ライアが目を丸くしてレジナルドを見つめると、薄茶色の瞳が機嫌悪そうに逸らされた。
「いやいやいや、ないないない。あんっな捻くれ者、誰が仲良くなんかなりますか。理解者になるのだって至難の業よ? 婚約者としての立場をどうにかエリーゼさんと代わってもらわなきゃいけないって言ってんのに」
「こ、婚約……っ?」
「え……あ、あれ?」
言葉尻に激しく反応されてライアの頰が引きつった。
あれ? レジナルドってどこまで事情を知ってたんだっけ? てゆーかこの感じ、知らなかったのかな? 私、今すごく余計なこと言った?
目の前のレジナルドはこれでもかっていうくらい目を見開いたまま固まっている。
「あ、あの……」
「ちょっと待って。ライア、婚約、してるの?」
レジナルドの周りの温度が一気に下がった。
気付けばライアの両肩が掴まれている手には痛いくらいの力が入っている。
「わー! 違う違う! してないし、そんな気もない! 向こうが勝手に決めてるだけ! 私ここから出られそうにないからとりあえず仕事だけしてるけどそれだって村の人たち限定で……」
途中まで言いかけて言葉は自然に尻窄まりになる。
確かに、婚約を受けた記憶はない。でも、それ、リアムに通用してるだろうか。私、もしかして本当にあの人の婚約者という立場におさまっちゃったりしてないよね?
なんていう一抹の不安がよぎる。
「……あいつ、絶対許さない……」
氷点下の温度を纏ったレジナルドが宙を見据えたまま呟く。
「あ! あのっ!」
なんだかそこはかとない恐怖を感じてライアが声を上げる。
これはどうにか話を逸らさなければ。
ちらりと自分の方に戻ってきた視線はまだ何かを疑うように眇められている。ので、ここは無理矢理にでも、と微笑んでみて。
「さっき言ってたのどういう意味? 手紙に応えるって、どういうこと?」
確かそんな事を言っていたと思う。
レジナルドからもらった手紙といえば、一つしか思い当たらない。「必ず迎えに行くから待ってて」と書いてあったメモ書きのような手紙。
書いてあった言葉が「待つ」事を促す文面であった以上、何か行動を起こさなければいけないということもない筈。
……え、それか、あれは何か暗号的な別の読み方ができる文章だったのだろうか?
そんな事をあれこれ考えながら小さく首をかしげて見せると。
「ああ、あれ……って、ライアさ、全然出てきてくれなかったじゃない。僕ずっと待ってたのに」
「……はい?」
今度こそライアが盛大に眉を顰めた。
やっぱり暗号的な何か!
「……あれ?」
今度はレジナルドの方も眉を顰めた。
「えーと、さ。手紙、受け取ったって言ったよね?」
「うん……迎えに行くから待ってて、って書いてあったよね?」
暗号……何か別の読み方できた? 行の頭だけ拾って読むとか?
でもあれ、そもそも二行くらいの文章だった。
「あれ? 他のは?」
「……え?」
駄目だ! やっぱり暗号的な何かだ!
もしかして紙が二枚重ねてあって何かの方法で剥がしたら中からもう一枚手紙が出てくる仕組みだった、とか?
いやいやいや、そんな不自然な厚みがあったら絶対気付く!
改めて思い出すのも恥ずかしいけど、あの手紙が嬉しくて何気に毎晩引き出しから引っ張り出して眺めてたんだもん。
これは何か私がやらかしてる可能性!
「ご、ごめんなさい。あの手紙が嬉しすぎて……その、あの文面を毎晩眺めてただけで……他に何か隠してあるとかそんな事全然考えもしなかった……もしかしてインクが特殊で何かすると他の文章が浮かび上がるとかそんな仕掛けがあった?」
「いや、そんな凝ったことしてな……え、何、最初の手紙しか見てないの?」
「最初……?」
あの手紙には続きがあったと言うことだろうか。
ライアの反応にレジナルドは何かを察したらしく、かくんと肩を落とした。
「ああ、そういうことか……あのね、最初にあの手紙をカツミさんに託したらライアから薬茶が届いたでしょ? だから、ああこれならちゃんとやり取りできそうだ、って思ってそのあと何回か手紙を注文のメモに紛れ込まさせてもらったんだ」
「ええ? 本当に? ……そんなの……知らない……」
村の人たちからの薬の注文はきちんと受けていた。
毎回封筒に入っているメモ書きは、作るものに責任を持つ以上は何回も確認している。カツミさん経由で村から来ているものだし、薬の数が違うとか言われたこともないのでちゃんと確認した上で作っていたことに間違いない。
他の手紙なんかが入っていたら絶対気付く。
ということは。
「カツミさんからライアの手に渡る間に誰かが意図的に抜いてるってことかな……」
ライアがふと思った可能性と同じ事をレジナルドが呟いた。
「……え、でも誰が? なんのために?」
そう思うからライアは言葉にこそしなかったのだ。
「ああ……その辺はよくわからないな。一応ね、書いた内容は」
こほん、と小さく咳払いしたレジナルドがどことなく気まずそうに視線を逸らしながら続ける。
「えーと……ライアを今すぐに迎えに行きたいところだけど今は身動きができない。少し時間をもらって、カツミさんに弟子入りするからそのあとゼアドル家で会おう。みたいな事を何回かに分けて書いたのと、こっちで働けるようになったから適当な場所で落ち合おう、って内容のを何回か、書いた」
「……そんなの……知らない……」
「うん……よく分かったよ……」
呆然と返すライアだが、レジナルドの方は若干顔が赤くて……ああこれは他にも私情が色々書いてあったのを恥ずかしくなって今は端折ったな、というのが見え見えだ。
で、そういう内容の手紙が送られていた事を考えると……彼はこの庭とかで待っていてくれた日があったというわけで。
「……あ……じゃあ、こないだ会ったのって……」
そういえばつい先日、彼と「偶然」会った。
「だから、待ってたんだ。ライアの方から場所を指定してもらった方がいいかなと思ってたんだけど一向に返事が来ないから。一応さ、離れで作業してる見習いが探し物してたら迷いこんじゃいました、って言っても通用しそうな範囲内で動いてたんだけど」
「……そうだったんだ」
え、あれ?
私あの時、どんなやりとりしたっけ?
なんか会えたということがただ嬉しくて、舞い上がった結果、ろくに会話もせずに帰ってきたような気がする。
しかも……持っていたカツミさんに渡す薬を……ついでのお使いのようにレジナルドに預けたんじゃなかったっけ……?
「……うわ……ごめん……私、なんかもの凄く申し訳ないことした気がする……」
「……うん……あれはさすがに僕もびっくりしたけどね……いや、手紙を読んでなかったなら仕方ないよ……」
ライアの言いたいことにレジナルドも思い当たったようで乾いた笑いを漏らされた。
「まぁ、でも。誰かが意図的に僕の書いた手紙を抜いているということを考えると……今後は下手に手紙は送らない方がいいだろうな。それに……婚約なんて大それたことまで考えてるなら……」
レジナルドが小さくぶつぶつと呟き始めたのでライアがそっとその顔を覗き込む。
と。
「あのさ、ライア」
改まった口調で視線を返された。
「……はい」
ライアが咄嗟に姿勢を正して答えると。
「僕のこと、信じてくれる?」
あまりにもまっすぐな、薄茶色の瞳。
あれ、この人、こんなに大人びた顔してたっけ。ああ、少し頰が痩けたような気がするから以前よりどことなく精悍な雰囲気になったとかそういうことだろうか。
なんてライアは頭の隅で考えながらも、つい首肯で返した。
途端にふにゃっと薄茶色の瞳が歪んで笑顔になる。
うん、これはいつもの白ウサギ。どことなくホッとする笑顔。
「ライアはリアムと結婚する気はないんだよね? それに出来ることなら自分の店で仕事をしたいと思ってる、ってことでいい?」
「うん」
「もし……結婚する気はないまでも……ここで仕事する方がいいと思ってるなら今のうちにそう言ってくれる?」
あ。なんだか見慣れていた笑顔に寂しさが上乗せされた。
レジナルドの目に見惚れてしまってつい言葉の方を聞き逃しそうになったライアがハッとする。
「ううん! そんなこと全然思ってない。私はあの小さいお店が性に合ってるもん。ここだと儲け重視の仕事をさせられそうで怖いし」
今レジナルドに尋ねられた事を頭の中で反芻しながら丁寧に応えてみる。
「ふ……そうか……うん。そうだね。僕が好きなライアのままだ……良かった……」
「……え?」
なんだか物凄く、綺麗な笑みが作られた、と思った。
何か眩しいものを見るような、キラキラした笑顔。
もっとよく見たい、と思った瞬間、ライアの視界が遮られた。
そう離れた距離にいたわけでもなかったが、レジナルドが腕を伸ばして半ば強引に引き寄せ、抱き締めてきたので。
さっきもこんなふうに抱きしめられていたけれど、なんだかこの度はちょっと違う。
柔らかい、それでも振り切れないくらいの強さの抱きしめ方。
レジナルドの方からしがみついてくるような、そんな感覚さえある。
ライアは頭が回らないまま、されるがままといったところだ。
一度ぎゅっと力を入れて抱きしめてきた腕がふと緩み、それに合わせてライアがゆっくり体を離す。
「多分、この後もうしばらくは会えなくなると思うんだ」
そう言ったレジナルドがゆっくり背中を丸めて屈む。
その動きはまるでこちらの目を覗き込むような動きでもあり……そうでなければ……。
思わずライアが目を伏せた。
そんな表情を確認するかのような小さな間があって、ライアの唇を一瞬何かが掠め……その暫くあとに、額にキスが落ちた。
……あ、あれ?
ライアが訝しげに目を開けると、困ったような顔のレジナルドがこちらを見下ろしている。
そして目が合った途端、その顔がかあああっと赤くなった。
「ご……ごごごごめんっ!」
「え?」
思いっきり謝られてライアが目を丸くする。
「こ、これはっ! ……その……僕が勝手にする事だから、ライアにはなんの責任もないからね! あの……っ、ただ、それだけ、伝えたくて! じゃ!」
何やら一方的にそれだけ言い切るとレジナルドの手がライアから離れた。
そしてそのまま少し名残惜しそうに一歩下がり……そのあとくるりと踵が返されて、白ウサギは脱兎の如く走り出してしまい……。
「……今のって……?」
取り残されたライアは自分の額を軽く指先で押さえる。
……キス、されたんだよね?
いや、えーと……思っていたのと……場所が違った、けど。




