乙女の本音
ひとしきり笑うエリーゼを心配そうに見つめるライアは取り敢えず、かろうじて長椅子に彼女を座らせて自分も隣に座り、彼女が落ち着くのを待った。
どうやら、本気で壊れてしまったわけでもなさそうなので。
「……ごめんなさいね、ライアさんがあんな目に遭ったというのにこんなに大笑いしてしまって……」
ちょっと息をついたエリーゼが自分を抑えるように胸に手を当てて深呼吸しながらこちらに申し訳なさそうに目を向ける。
うん。大丈夫。
笑いすぎて目の端に涙が浮かんでいようとも、正気のエリーゼさんを相手になら安心できるし。
と、ライアの口元は若干引きつらせながら頷いて見せる。
そして。
「私のことはいいんだけど、エリーゼさん大丈夫?」
「え? 私?」
ライアがようやく言葉をかけるとエリーゼが目の端の涙を拭いながらきょとんとした顔になるので。
「だって……リアムにあんなこと言っちゃって……その……あれって後で収拾つかなくならない?」
何しろそこが心配でしかない。
リアムがどんな人間であろうともはやどうでもいい。エリーゼさんが泣くようなことになるのが一番嫌なのだ。
……いや、でも。
と、ライアもちょっと冷静になって考えてみる。
当面はエリーゼが泣くようなことになるのを回避できたとして、そのあとは?
あんな男に振り回されるエリーゼさんって、いずれは泣くことになるんじゃないだろうか。
それなら今のうちに見切りをつける方向で説得したほうがいいのかもしれない。
……そもそも、大笑いしてて泣いてなんかいないんだけど……あれ? 大笑い、してるわね……。
うん?
そんな意味を込めた視線をライアがエリーゼに向けると。
エリーゼがふっと榛色の瞳を細めた。
「大丈夫ですわよ。さっきのリアム様の顔見たでしょ?」
「え……うん。なかなか見応えのある顔してたけど」
一応思い出しながらライアが答える。
「あの方、ああいう顔はされることがないんですよ?」
くすりと笑みをこぼしながら頷いて見せるエリーゼはどことなく満足そうな顔をしている。
「……?」
意味が分からなくてライアが眉をしかめた。
そりゃ、あの男があんな顔をするのは初めて見たし、あの男の性格からしてそういう顔を度々しないであろうことは理解できる。……で、それが何か?
「あの方ね、本当に表情が乏しい方なんです。乏しい……っていうのはむしろ生やさしい表現ですわね。表情を作れない、と言った方がいいかもしれない」
ちょっと視線を逸らしてどこか遠くを見るような顔になったエリーゼがため息を吐きながらそう言うので。
「え……何? どういうこと……?」
ついエリーゼの言葉の真意を探りたくなってしまってライアが背筋を伸ばした。
「リアム様もおっしゃっていましたでしょ? そう育てられた、って。あれ、本当にその通りの言葉なんです。この商会を継ぐために育てられた方だから教えられた事に届かないこともそれを越えることも許されずに、ここまで来てしまった方なの。自分で考えて行動するなんていうこともほとんど経験ないんじゃないかと思いますわ」
「……え……」
ライアはその言葉の意味を理解して絶句した。
そういえば。
と、彼について知っている限りの記憶を引き出してみる。
彼の表情。
そういえばいつもお面を貼り付けたような顔だった。
個人的に親しくなりたいとは全く思えない、といつも直感していたのは彼の訪問の目的とかそういうことではなくこちらに向ける表情のせいだ。
整った顔立ちではあるが、感情の抜け落ちた顔。
こちらの言葉を解していないのではないかと思ってしまうような顔。
そして、いつも父親と一緒に行動していたその不自然さ。
そもそもいい歳をしてわざわざ父親と一緒にうちにやってくるなんて不可解だ。やってる事を考えたら一人で来ても良さそうなものなのに。
「私もね、ここに来てあの方に会った時はびっくりしたのよ。子供の頃のあの方を少し存じ上げていたんですけどすっかり変わってしまっていて。でもね、本当はもっと感情の豊かな優しい人なんです。そういう子供だった。……だからあの頃のように自由な心を持って欲しいなって思っているの」
ライアの思考を肯定するようにエリーゼが説明を付け加えていく。
そんな事を言われるとライアもいちいち納得せざるを得ないので無言でゆっくり頷く。
「でね。あの方に表情が戻る時って、だいたい素の自分が出る時なんです。そしてあの方ってね、そのあと自己分析までなさるのよ。今の自分は正しい自分であったかどうかって。言われた事をただ守るだけでは人として価値なんかないでしょう? 最近そんな話を時々するのよ。だから、そんな自分の殻を破るにあたって今は自分のあり方を模索中といったところだと思うの」
頷くライアに一度視線を戻したエリーゼはその後少し視線を宙に浮かせて思案げに人差し指を顎に当てる。
「さっきのあの顔。相当な勢いで素が出てたからあれはかなり手応えがあると思うのよね!」
と、最後に満面の笑み。
「……エリーゼさん……」
「はい?」
ライアはようやく口を開いてみたものの続く言葉が見つからず名前を呼ぶにとどまってしまったがエリーゼは相変わらず可愛らしい笑みを浮かべてこてんと首を傾げてくれる。
「……あなた……案外大物ね……」
ポツリと口から出た言葉はそんなものだった。
「とりあえずライアさんが無事なら良いのよ、彼のことは私に任せてね。彼は私がもっと人間らしくなれるように最後まで面倒見るって決めてるの!」と、言い切ったエリーゼの勢いに飲まれたままライアは部屋を出て行く彼女を見送った。
なんなら最近顔を見せに来なかった理由は「大好きなライアさんと仲良くなるにあたってあんまりしつこいと嫌われてしまうと思ってあえてここにくるのを我慢していた」なんていう話までしていった彼女にライアはもう茫然自失状態だ。
数日、間を置いたから今日は様子を見て顔を出そうか決めよう、と様子を伺いに来てくれたらしい。
……すごい良いタイミングで助かったけど。
そう思うともう胸を撫で下ろしてしまう。
あの状態のリアムを抑えてしかも考えを変えさせる方向に動かすなんてエリーゼさんの力って偉大すぎる。
そんな事を思うとさっきまで自分が置かれていた異常な状況の記憶も薄れて案外しっかり立ち上がれる。
緊張が解けたら足に力なんか入らなくなるんじゃないかと思った。
広い作業台の上。
その端に散らばっている薬包に目をやって、一瞬思わず目を逸らす。
何をされそうになったか……考えると身がすくむ思いだ。
考えてみたらこの建物の、この階はほとんど人気がない。
最近は信頼されているということなのか使用人の姿もそうしょっちゅう見るわけではなく、カエデだっていつもいるわけではない。
……もっと色々気を付けなければならないだろうか。
そう思いながら自分の身だしなみにも目をやる。
最近は用意されている服を躊躇う事なく着るようになってしまった。
今日着ているのは白いブラウスに薄紫色のスカート。その上から作業用のエプロンをつけているが……ブラウスは息苦しい気がして一番上の釦を外していた。
なんとなくその釦を留め直しながら小さくため息を吐く。
自分の家から服も持ってきてもらってるんだし……明日からは自分の服を着よう。
軽く頭を振って散らばっている薬包を片付ける。
これらをそのままもう一度村の人に渡すというのは気が引ける。
中身をどうにかされたという可能性は低いとはいえ、作り直した方がいいだろう。
一度作った薬とはいえもう一度最初から作り直しとなるとそこそこ時間はかかるから今日はこれにかかりっきりかな、なんて思いながら作業に入り……そんな中で作業の合間にエリーゼが話していたことが頭をよぎる。
リアムにしてもレジナルドにしても。
こういう家で育つというのはどこかに歪みが生まれやすいという事なのかもしれない。
そう思うとライアの口からため息が漏れる。
仕事に没頭する親に育てられる子供は……きっと子供が必要としているものが十分に注がれる事なく時間だけが過ぎていってしまうのかもしれない。
自由に考えることも、振る舞うことも、発言することも……そういう当たり前の自由を全部もぎ取られたような人生なのかもしれないのだ。
ただ、家業を成功させることだけを目標にした人材育成。
もちろんそれが悪いとは言わない。
人の上に立つ者にはそれなりの資質が求められるだろうし、それには幼い頃からの教育は必要だ。
でも本人がそれを望んでいなかったら。
それでも他の者を候補に挙げられる余裕がなくて力尽くでその立場に押し込められる、とか他の選択肢を与えられない、とかだとしたら……きっとそれは相当本人の心の負担になるだろう。
本人が望んでそこにいるのとは訳が違う。
そうやってリアムは自分の意思を殺してここで生きてきたということなのかもしれない。
子供なんて、自分を認めてもらうためならいくらでも自分を殺すものだ。
そんなこと……私は知ってる。
自分を見て欲しいから、植物に話しかけるのをやめた。
自分を見て欲しいから、歌うのをやめた。
自分を見て欲しいから、ダンスのレッスンにも文句を言わなかったし、パーティーも楽しいフリができた。
私は……きっと幸運だったのだ。
そんながんじがらめの鎖を早めに断ち切れた。
師匠に拾われて、自分らしくある事を考え始めることができるようになった。
リアムみたいにあの歳になるまでそのままだったらきっと相当拗れているだろう。
そう思うと……エリーゼさんの覚悟って相当すごいかもしれない。
なんて思う。
彼女はリアムをもっと自由に生きられるように助けるつもりだ。それには時間がかかるだろうし生やさしいことではないだろう。
うわぁ……すごいな。
私だったら……もうめんどくさくて投げ出してしまうわ。
彼女の原動力ってやっぱり愛なんだろうなぁ。恋する乙女ってやつなんだろうな。
子供の頃のリアムを知ってるって言ってたし、その頃からの想いなんかもあるのだろう。
私だったら……そりゃね、リアムは顔立ちも整ってるし身分も悪くなくて世の中のお嬢様方からしたら申し分ない恋のお相手かもしれないけど……それでもあの中身では……責任持って面倒見ます、なんて言えない。
私が責任持って面倒見るとしたら……あれ?
ふとキラキラの笑顔を向けてきながらオムライスを食べていた白ウサギが脳裏をよぎる。
……私だって結構面倒な子の面倒見るつもりになってたんじゃない。
いや、でもレジナルドはもっとちゃんとしてるというか……そんなに面倒だとか思わなかったし。
……うん? そういえば家族とうまくいってないし、彼もおっそろしく温度のない顔することがあって背筋に悪寒が走ることがあったな。
いや、でもレジナルドは……さ、もっとこう……。
「……ああ、そうか……」
きっとエリーゼさんもこういう気持ちってことか。
ついぽろっと声に出してしまいそうになりながらもライアは辛うじて最後まで呟くのを思いとどまり……かわりにがっつり赤面してしまう。
なによ私、エリーゼさんのこととやかく言えないくらい……レジナルドのこと大好きなんじゃない。
そんな結論を導き出してみたところで。
つい窓の外に目をやってしまう。
そんなの自覚したところでここにいる以上何もできないのよね。




