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あんなやりとりをした後なので毎日のようにエリーゼが作業部屋にやってくるかと思いきや、彼女はあの後ぱたっと来なくなった。
なんとなく気になってカエデに尋ねると。
「あー……そういえば『今日はライア様のところに行かれますか?』って聞いたら急におどおどして挙動不審というか……言ってることまで良く分からない感じで……今日は来るんだか来ないんだかって様子でしたけど」
というのが今朝の答えだった。
……全くもって意味がわからない。
そしてそういう意味不明な反応だったと言われると……ライアの方もなんだかちょっと不安になる。
こないだの私の言葉のどこかに彼女を気まずくさせる要素があったか……気を悪くさせる要素があったかで……ここに来るのに二の足を踏ませているのではないだろうか。とか。
まぁ、良く考えれば確かに私は失礼な事を言ってしまった訳でもあるのだけど。
友達だと思っていてくれたエリーゼに「それは勘違い」みたいな態度をとってしまったのだ。
それは……きっと傷つけてしまうような態度だっただろう。
そう思えるのでこちらから積極的に会いに行くようなことも避けている。
そもそもライアは彼女の部屋にまで出向いたことはないし正確な彼女の部屋の場所を知らない。
使用人に……それこそカエデあたりに訊けば教えてくれるだろうが……そこまで積極的な気持ちにはなれそうになくて。
どうにも待ってしまう。
今日はエリーゼの為の髪の香油を作る予定だったのでそれを完成させてから庭にでも出ようかと作業部屋の窓から外に目をやる。
天気は良い。
いつのまにか空が高くなったような気さえした。
と。
トントントン。
ノックの音がした。
ライアが反射的に振り返ってつい笑顔を作りながらドアの方に駆け寄ろうとして、止まる。
なんとなれば、そのドアは開いた。自主的に、声をかけられることもなく。
そして、そこにいたのは明るい褐色の髪に榛色の瞳の美人ではなく、彼女より身長のある金髪の、男。
目が合ったところでライアの笑顔が一気に引っ込んだ。
「……リアム……」
シャツの襟元にはタイはなく、一番上の釦が開いているところを見ると今日は仕事ではないのかもしれない。
それでも生成りのシャツは皺ひとつなく、茶色のベストも焦茶のズボンも質の良いものだ。そのままジャケットを羽織ればそこそこに改まった外出ができるような格好。思わせぶりに真っ白な包帯を右手に巻きつけているのは相変わらずと言ったところか。
「おや、期待はずれといった顔ですね。誰か来る予定でもありましたか?」
口元だけに笑みを浮かべた彼の表情はもう見慣れている筈なのに、ライアは久しぶりに人の笑みを見て悪寒を感じた。
きっと、ここ最近カエデやエリーゼを始め、心から笑っている人の顔ばかり見ていたせいなのかもしれない。
そんな事を思いながら、リアムに視線を絡め取られたまま動けなくなっていると。
「まぁ、良いでしょう。ちょっと話がありましてね。失礼しますよ」
そう言うとリアムはずかずかと作業部屋の中に入ってくる。
そして。
バラバラバラ。
何かが音を立てて作業台の上にこぼれ落ちた。
それを見たライアの身体が一瞬で強張り、体も思考も動かなくなる。
リアムの左手には見覚えのある袋があり、口の空いたそれを作業台の上で無造作にひっくり返したのだ。
なので、中に入っていたものが作業台の上にぶちまけられるという結果になっており。
それは、ライアが昨日カエデに渡した筈の……もう何度目になるだろうか、という村の人たちへの薬だ。
「こういうことを勝手にされるというのは面白くないですね」
リアムの声は平坦で特に感情が込められている風ではないが、その目は冷ややかで表情は凍りついているようにも見え……こちらの反応によってはどんな感情が表面に出るのか予想できない。
まるで捕食動物に睨まれた小動物のように身動きが取れなくなってしまったライアはそのまま声も出せずに固まってしまった。
そんなライアの様子を一瞥したリアムは思わせぶりにため息を吐いて。
「あなたには自分の立場をわきまえてもらわないと困ります。聞けば彼らは支払いも済ませているというではありませんか。あなたはゼアドル家の所有物なんですからね、商売をするならきちんとこちらに筋を通していただかないと」
作業台の上に散らばった小さな包みを一つ取り上げて片手で弄びながらライアの方に向けられる視線には温度がない。
暖かくも冷たくもない……それは何らかの思い入れのある人間に向けるような視線ではなく……道端の石でも眺めるような、そんな目だ。
きっと彼にとって私はそんな程度の存在なのだろう、と心のどこかで納得してしまうので自分の意見を口にするのを躊躇ってしまう。
そんな人を相手に自分の権利なんか主張しても意味はないだろうしそんな意見が通ることもないだろうと思えてしまうので……諦めの気持ちが先に立つ。
「これだけの薬……きちんと利益を上げようとしたらいくらの儲けがつくか……」
「……儲け……?」
それでもボソリと呟かれた言葉にはつい反応してしまった。
薬というものは困っている人に差し伸べられるべきもの。利益の為の商品ではない、というのは師匠から叩き込まれた概念だ。
「あなたはこれにいくらの値が付けられるか分かっていないようですね。こういう物は安く買えると思わせてはいけないんですよ。ある程度の金を出さなければ手に入らないという常識を作る必要があるんです。一度値段を下げてしまったら上げるのは難しくなってしまうでしょう」
そんな簡単なこともわからないのか、とでもいうかのようにこちらを一瞥するリアムに。
「……だから……」
ライアの爪が手のひらに食い込む。
「……はい?」
こちらの反応には無関心、といったリアムがめんどくさそうに片眉を上げた。
「だからあなたのお祖母様は商会との縁を切ったんじゃない! 薬を金儲けの手段にするなんてどうかしてるわよ! 困っている人から薬を取り上げるようなこと、よくも考えつくわよね。お金が払えない人は苦しんでろって言うの?」
思わず一気に吐き出した言葉にはライアも自分でびっくりした。
この人を相手にこんなふうに声を荒らげるなんてできるとは思っていなかったのだ。
「……当たり前です、何を今更」
それでもリアムの態度は平坦なままだ。
「それに安価な薬と高価な薬を分ければ良いだけのことですよ。安価な薬にはさほど効果はない気休め程度のものを。きちんと効果のある薬にはそれなりの値段をつけます。そうすれば高価な薬のために金を惜しまない者が増えるというものです。気休め程度の薬でも定期的に購入する者がいればこちらにもある程度の利益がありますからね。……ああ、あなたにはきちんと効果のある薬のみを手掛けてもらいますよ。安い薬なんて誰にでも作れるんです」
淡々と話すリアムはもう、何かの契約事項の確認でもしているかのような至って事務的な態度だ。
「ふ……ふざけないで」
ライアがようやく声を絞り出した。
肩が震える。
腹の底から何かが込み上げてくるのを辛うじて堪える。
どうしてこの人は、こんなにも薄情なのだろうか。
自分のやろうとしていることが他の人間の生活を変えてしまう可能性について……どうしてこんなに無頓着なのだろうか。
そう思うと無性に腹が立つ。
「悪いけどそんな仕事はしませんからね! 私は効果の高い薬をより沢山の人に使ってもらいたいの。それに、そもそもここにある薬草は私が自分で調達したものばかりです。私の物を私がどう使おうと私の勝手だわ。それから、お忘れかもしれませんが私はまだ正式にゼアドル家の物になったつもりはありませんからね!」
こういう事ははっきりと伝えるべき!
とライアは思うので相手を真っ直ぐに見据えて瞳にも力を込める。
と。
リアムが不愉快そうに眉をしかめて。
「分かっていないのはあなたの方だ」
そう短く告げるとライアの方に大股で歩み寄る。
その勢いにライアはつい後退りしてしまうのだが、一歩引いたところでこれではこちらが逃げ腰になっている事を示すようなもの、と踏みとどまり。
目の前に迫ってきたリアムはこれ見よがしに右手を上げてみせた。
「この怪我のせいでわたしがどれほど生活に支障があるか考えたことがありますか?」
と言いながらリアムはこちらを蔑むように目を細める。
「……それ、は……」
知ってる。
そういう手段に訴えるのであろう事は多少は覚悟していた、筈。
それに正論から言えば、その怪我は私のせいではない。彼が自ら負った怪我だ。
そんなことも知っている。
でも。
今まで自由に使えていた手が使えなくなるということがどれだけ生活を苦しくするか、ライアには想像がつくのだ。
そういう人を沢山見てきた。
大工仕事を生業にしている人が腰を痛めたら仕事ができなくなる。
主婦が手を怪我したら家事の大半が出来なくなる。
途端に家族という単位で物事が回らなくなるのだ。
足を痛めて思うように歩けなくなるだけでその人の世界は変わってしまう。
目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりしたらその人の世界は閉ざされる。
なのに世界は変わらず回っているという現実に……みんな多かれ少なかれ絶望を経験するのだ。
治るものならまだ良い。
でも、彼の場合は。
私の場合はまだ良かった。
植物たちが私のために本気になってくれたのと、私自身が植物とただならぬ勢いで相性がいいせいでちょっと寝込んだ後は痣も消えたし痛みも無くなった。肩の痛みも腕に走る激痛も無くなってしまったからもう完全に元通りだ。
でも彼の場合はそうはいかなかったのだろう。
あれだけ大量に毒液が掛かったわけだし……処置はしたとはいえ回復力には個人差がある筈だからこの感じだと後遺症が残っているのかもしれない。
そして彼にとって右手は生活の中で必要な道具である筈だ。
日常生活だけでなく、仕事でも。事務的な仕事に右手が使えなくなったら今まで使ったことのない左手で書き物をするなんていうことまでしなければいけないのかもしれない。
そんな日常の苛立ちを、どこかにぶつけたくなる気持ちだってわかる。
そんな事を思うので掲げられたリアムの右手に視線が貼り付くと同時にライアはもう眉をしかめて唇を噛むしかない。
言葉を失ったライアにリアムがさらにもう一歩近付く。
それはもはや話をするには不自然なくらいの距離だ。
「……っ?」
ライアが一歩後ろに下がりかけて息を飲む。
なんとなればライアの右腕はリアムの左手に掴まれて……これ以上距離が取れなくなった。
「それに……まだ、と言いましたね。なんなら今この場でわたしのものにしてしまっても良いんですよ」
目の前でにやりと笑う口元には感情らしい感情が乗っていないように見えてライアの背筋がぞくりと震えた。




