ありがとうの気持ち
これは夢だ。
ライアはぼんやりと情景を眺めながらどこかで冷静に感じ取っている。
夢。
だって、亡くなったはずの師匠がいる。
『今更そんな事に利用されかねない立場に自分がなるなんて思わなかったね』
そう言ってこちらに向けられた視線には何とも言えない悲哀の色が滲んでいて……ああ、これは師匠が最後の仕事を手掛けていた頃だ、とノロノロと思う。
昼間に訪ねてきた親戚を追い返して、夜に裏庭で二人でお酒を飲みながらポツポツと師匠が話していた場面を思い出しているのだ、と自覚する。
師匠は、特殊な伝染病の薬を手掛けて……最終的には自分の命を削ったが、その仕事に使命感を持っていた。
どうにか多くの命を救うための薬の調合を成功させようと、その作り方を確立しようと必死だった。
そして、その仕事にゼアドル家が目をつけたのだ。
家業の成功に関わらなくて済むように選んだ「地味」であった筈の薬師の仕事は思いもよらない薬が完成するかもしれないという可能性のために、思いっきり家業の成功に関わる方向に動いてしまった。
まさかこんな結果になるとは思わなかった、と呟く師匠の目がなんとなく自分に向かうのを自覚したライアは、ああ、私のせいで彼らの気を引いてしまったのかもしれない、と気づいて申し訳なく思ったものだ。
師匠は家業から離れたところでひっそりと暮らしていこうとしていたのに。
結局のところ、私のする事は師匠の今まで手が届かなかった所へとその手を届かせてしまう結果になり……最終的には師匠の命を削った、いや、奪ったのだ。
そんな現実から目を背けたくて自分の仕事に専念していた。
なのに今、自分は師匠が関わらないと決めていた者たちの中にいる。
ここにいれば作りたかった薬を量産できるかもしれないという可能性のせいで半分は自分の意思でいるようなものだ。
望んだことをやり遂げるために望まない場所にいるという現実。
そんな現実にため息が出る。
そんな思いでついたため息が意外に深くて……目が覚めた。
ため息混じりに寝返りを打ってみて、部屋の中に視線を滑らせると月明かりがカーテンの隙間から差し込んでいて……ああそうか満月なんだっけ。と、ぼんやりと思う。
こんな夜には裏庭で歌っていたものだ。
夢の中で師匠とお酒を飲んでいたのもそんな夜の延長だった。
こんな夜に裏庭で……レジナルドと一緒にお酒を飲んで、歌っていた。
いつのまにか隣にいるのは師匠ではなくてレジナルドになっていた。
彼といるのが心地よくて、先のことなんか考えずにただ楽しくふわふわした時間を過ごすことが心地よくて……彼の気持ちに応えることまではしていなかった。
私はずるい人間なのかもしれない。
彼の気持ちに応えてしまったら、そのあとどうしていいか分からない、ということが怖くて……今をズルズル引きずろうとした。その結果がこれだ。
居たいと思わない場所で、くすぶっている。
そんなことを思えば思うほど眠気が遠のいていく。
「はぁ……」
小さくため息を吐いて、そっと起き上がる。
もう完全に目が冴えてしまった。
このまま眠ったら変な夢でも見そうだ。
ベッドから離れて引き寄せられるのは……やっぱり窓辺。
カーテンを開けて空を見上げると丸い月が見える。
大きな屋敷の窓から空を見上げる自分を思うとまるで籠の中の鳥のような気分になる。
こんな空の下で自由に歌っていた頃が懐かしい。……なんて。
昼間にあったあれこれのせいで自己憐憫に陥っているのかもしれない。
今まではこんなふうに思うことはなかった。
私のことなんて誰も気にかけているはずはないと思っていた。
なのに……村の人が心配してくれていた。
レジナルドは私のことなんか忘れて今まで通りの日常に戻っているかもしれないと思っていた。
なのに……荷物を取りに行ったここの使用人に掴みかかるほどの気持ちを……まだ持っていてくれた。
ここから出ていける可能性なんてないと思っていた。
なのに……この家の当主はリアムのお嫁さんに私を望んではいない。
帰る場所が、あるのかもしれない。という可能性。
帰りたい。という思い。
そんな思いを抱いてもいいのかもしれない、という小さな希望。
そんな突き詰めてしまったら自分の首を絞めるような淡すぎる思考を誤魔化したくて現実逃避に走る。
小さな音が頭の中でくるりと回る。
くるりと回った音は細く繋がって音楽になる。
頭の中で響く音楽が出口を求めるように頭の中を途切れることなく巡り続ける。
そして細く弱いハミングが、ライアの唇から漏れ……そのハミングに言葉が乗る。
はるか遠く
川を辿り 遡り
いつか帰り着くことを夢見て
はるか遠く
空を渡り 行き巡り
いつかかの土地を通り過ぎよう
ひと目でも
この目に映して
この足で
その地を踏んで
残して来た者を思う心
残して来たのは我が故郷
ライアの口から溢れるのはやはり古い歌だ。
以前ならそんな歌詞にライアは違う感情を乗せていた。
昔人が旅路の果てで故郷を思って帰りたいと願った哀しい歌のその歌詞に、木々や草花の種が運ばれて来て根付いた先で自分にも故郷があったのだろうと、それはここと比べてどんな場所だっただろうかと、笑い話にするそんな感情を乗せて楽しく歌っていたのだ。
彼らが人を愛おしむ、故郷を愛し懐かしみながらもそこに帰ることを拒む人間の気持ちを切なく思いながらも愛でてくれる、古い樹への敬意を乗せて歌っていた。
「……あっ、と……!」
なんだか知ったような気配がしてライアが慌てて歌うのをやめて振り返る。
そう。
「普段なら」違う感情を乗せて歌っていたのだ。それはあえて。
で。
うっかり歌のまんまの感情を乗せて歌ってしまった。
部屋の隅にある小さめのテーブルには、やけに長持ちしている青いダリアの花。
つまり。
「うわわわわ! ……どうしよう……これ」
歌に同調した花が、盛大に成長してしまった。
切り花なのに、花芽を更に出してそこから枝を伸ばし、その先で蕾をつけ、花を咲かせている。なんならそうやって伸びた枝で、もうすっかりテーブルの上を覆ってしまっている。
うっかりした!
思いっきりうっかりした!
屋内に植物は無い、という環境が続いたせいで外に聞こえなければいいだろう、くらいの気持ちでいたら……あったじゃない花!
ライアが静かに狼狽えながらテーブルに近づく。
ダリアの花は一様に、懸命に咲いている。
懸命に。
なにしろ水はもう無くなっている。
「ごめんね」
ライアは小さく囁いて一番手前の大きな花にそっと手を添えてみた。
自分を慰めようとして精一杯咲いてくれたのがわかるのだ。
『ここにいるよ。あなたの心にちゃんと気づいてるよ』
という花の主張。
そんなものが手に取る様にわかる。
危うく「ここから出たい」という気持ちに同調して窓や壁を破壊するほどに枝を伸ばしてしまうかもしれないところだった。
「私は大丈夫よ。ありがとう」
ライアがそっと囁いて触れていた花の先でまだ咲こうと膨らんでいる新しい蕾にそっとキスをする。
この子達はもうそろそろ限界だ。
そもそも、もう終わりかけていた切り花だった。
ライアがそっとキスをして声をかけた途端、安心したように花の勢いが失われていく。
伸びようとしていた新芽の先が萎れて茶色くなり、花びらが萎れていき、咲いていたものは散り始め、蕾はそのまま水気を失っていく。
月明かりだけを頼りにした夜の室内でもその様子は手に取るようにわかった。
「ありがとう」
最後のライアの声を聞き届けたかのようなタイミングでテーブルを覆っていた花が一気に枯れ果てる。
草花の気遣いは毎度のことながらありがたくて、胸が締め付けられる。
昔、そうやって枯れてしまった花を前に泣いていたら庭の木がくすくすと笑って教えてくれたものだ。
『泣くことはない。それは人や動物の死とは異なる現象だ。いなくなったわけではない。ほら、根が残っている。種も残っている。我らはそうやって記憶を引き継ぎながらまた顔を出すのだ。悲しむべきは我らの気遣いに気付かずに踏みつけられることくらいよ。……まぁ、しかし、それもまた植物の定めよの』
そうなのだ。
別にこのダリアの花が枯れたとしても株は残っているのだし、来年にはまた同じ花を咲かせてくれる。だから今生の別れではないのだし、泣くことでもない。
でも、なんとなく、もの言わぬ彼らがこうやって精一杯の気遣いを見せてくれることに感動するのだ。
感謝の気持ちでいっぱいになる。
そんな感謝と敬意を込めてライアはテーブルの上に散った花の残骸を一つ一つ丁寧に拾い上げた。




