ゼアドル家現当主の話
「大丈夫ですか? ライア様」
部屋に戻って改めてお茶を淹れてくれるカエデの言葉にようやく我に返ったライアの目の焦点が合った。
ぼんやりしながら屋敷に戻り、ぼんやりしながらエリーゼと別れ、ぼんやりしながら部屋に戻ったライアは自分が無意識のうちに朝食を食べていたテーブルについていることに気づいた。
もちろんテーブルの上はもうすっかり綺麗に片付いていて、今はカエデが入れてくれている新しい紅茶が乗っている。
でもいつもならこんな時に座るのはソファの方だ。
テーブルの方に来てしまったのは……店にいたときの癖かもしれない。
考え事をする時には大抵テーブルか、台所の作業台に引き寄せた小さな椅子だった。
「あ、うん。ごめんなさい、ぼんやりしてしまって」
目の前のカップが湯気を立てているのをついぼんやり眺めてしまったが、淹れてくれた人のことを考えたらとにかく一口飲まなければ、と思ってぎこちなく手が伸びる。
「カツミさんとちゃんとお話しできましたか?」
心配そうな声にライアがゆっくりと視線を上げると、不安そうなカエデの顔が目に飛び込んだ。
「……あ……!」
そうか。
彼女は私が彼とどんな話をしていたか知らないのだ。
変にぼんやりしていたら、悪い知らせでも聞いたのかと誤解されてしまう。
そんなことに思い至り。
「ええ! ありがとう。おかげさまでいろいろ様子を聞けたわ」
「ライア様の恋人のお話は聞けました?」
「……ぶっ!」
平静を装ってカップを口に運んだところで落とされた爆弾に思わずライアが吹き出しそうになる。
そんなライアを見てカエデが目を丸くするので。
「……なんか……ここの使用人の方々に殴りかかったらしいわ……」
ライアが肩を窄めて呟いた。
「ええ!」
すかさずカエデが声を上げて。
そして何かまだ続けて言葉を発しそうだった口を、ふとつぐんでから。
「……まさか……」
何かに思い当たったようにカエデの視線が泳ぐ。
その様子にライアがつい興味を引かれると。
「あの……前にお話しした村の熱烈なファンって……もしかしてその方かもしれません……」
「ええっ?」
おどおどと話し出したカエデにライアが思いっきり声を上げてしまって、あ、しまったこれでは怒っているみたいになってしまう、と手を口に当てる。
「あの……ライア様って、金髪の方はお嫌いなのではなかったですか?」
ライアの様子を特に気にかける様子はなくカエデがおずおずと切り出した。
「え……?」
意外な言葉にライアが息を飲んで背筋を伸ばす。
「だって、あの……リアム様の事、そんなような呼び方なさってましたよね……?」
「……っ!」
なんだかどこかで聞いたような話の流れにライアの思考が一瞬停止した。
「あの、荷物を取りに行って掴みかかられたっていう者からその方の様子は聞いていたんです。若い金髪の男性だった、というのとなんだか乱暴な感じだったっていうのを聞いておりましたのでね、ライア様の好みの方とはとても思えず……報告も必要ないだろうということにしておりまして……勝手な判断をして申し訳ありませんでした!」
カエデの言葉が最後の方で物凄く改まった声になってライアが我に返る。
「……っあ! ごめんなさい! 別に怒ってないわよ! その……そうよね、私がリアムの事あんな呼び方してたらそう思って当然よね……あれは……その……興味のない人の名前を覚えるのが苦手でついあんな感じになってしまってるだけで……で、最近はエリーゼさんの想い人だという意識が働いたおかげでやっと名前が覚えられたみたいなの……」
そうよね。「あの金髪男」みたいな呼び方してたからレジナルドにも「金髪が嫌いなのか?」って聞かれたんだっけ。
なんて思い当たる。
非常にきまり悪くて気持ちの上で最大限に縮こまりながら説明するとカエデの息を飲む気配が伝わってきてライアがそっと視線を上げると。
「……名前……覚えられないくらいに……興味が……ない……って……」
カエデが愕然とした顔をしてこちらを眺め……そのあと、ぷっと吹き出した。
「くっ……! やだもう! ライア様、それ本当ですかっ? そんなにあの方に興味ないなんてっ……くくくっ……まさかそこまでとはリアム様も予想外でしょうねぇっ!」
何かがツボだったらしくいきなり笑い出したカエデは、笑いを堪えようと多少努力はしているようだが途中でそれも諦めたようでひたすら笑い声を上げ始めた。
……いや、名前覚えられないのって……別にあの人に限ったことじゃなくて通常運転なんだけどね、私。
なんて思いながらライアがちょっと遠い目をした。
午後の早い時間。
ライアは思わぬ人物に呼び出しを受けた。
重厚な雰囲気漂うドアをノックして中に入ると、落ち着いた雰囲気の書斎の主は大きな机の向こうでこちらに向き直って少々表情を強張らせる。
白髪が混ざってグレーに見える髪は元は黒髪だったのかもしれない。ということは息子の金髪は母親譲りか。なんてことをライアはぼんやり考えて……ああそういえば髪の色に真っ先に目がいってたけど顔をよく見たらそんなに老け込むような歳でもないな……仕事で苦労でもしてるんだろうか……いや私生活もなんだかんだで問題ありそうだしな……と、ついどうでもいい事に思考がいってしまうくらいにここに呼ばれた理由に心当たりも興味もない、ゼアドル家現当主が目の前にいる。
「ここでの生活はどうですか?」
強張ったままの表情でゼアドル家の当主アビウス・ゼアドルがまるで挨拶の定型文のように声をかけてきてライアが我に返った。
「ええ、それなりに楽しくやってますけど」
こんな定型分の挨拶に営業用スマイルは不要だろうと思うのでこちらも無表情のままだ。
そもそもこんな拉致監禁されている者によくそんな事を聞けるわ、とライアは内心怒りを通り越して呆れるしかないくらいで。
「……なるほど」
ふ、と。
アビウスの目に表情らしきものが宿った。
面白いものを見た、というような好奇の色。そしてそれを隠すような自嘲の笑みが口元に浮かぶ。
「君には……息子が失礼なことをして申し訳ないと思っている」
……はい?
思わぬ言葉にライアの思考が一時停止した。
あれ、この人謝った? 謝ったの? 私に?
「わたしも人の端くれだ。君の状況が君にとって不愉快なものであることは承知している」
ライアが完全に固まってしまっているのを見てとったのかアビウスが視線を合わせることなく言葉を続ける。
「ただうちとしては今のところどうしても君の作る薬が必要でね。ここでその腕を活かしてもらう事はわたしの望むところだ。わたしの母がやっていた仕事をできるところまで見届けたいという気持ちもある」
ああそうか。
淡々と語られる言葉にライアは少し思い当たるところがあった。
まだ師匠、つまり目の前の男の母親が生きていた頃、ゼアドル家の事情は少し聞いていた。
小さな商家としてスタートしたゼアドル家がいろんな方向に手を出し始めてあちこちで成功して、今の形になったのが師匠の父親の代。その頃には一つの仕事に心を込めて携わるのではなく、たくさんの種類の仕事を手広くやって先が見込めないものは潔く切り捨てる、の繰り返しだったそう。
商会として成り上がるにはそういう過程は必要なのだろうし、上の人間のその采配は能力の一つでもある。
でも。
切り捨てられる人たちにとってはたまったもんじゃない。しかも、成功することだけを見据えたその行動はかなり多くの人からの恨みも買ったらしい。
そんなわけで師匠は若い頃から家の成功に貢献する見込みのない地味な薬師の仕事をすることにしたということだ。
……そんなことをポツポツと話す師匠を見て、きっとなにか辛い状況を目の当たりにしてきたのだろう、とライアは思ったものだ。
そしてある程度手を広げたゼアドル家にとって、あとは今の立場を確立する決定打が欲しい時期でもあるらしいのだ。師匠が亡くなる前にこぼしていたのはそんな事だった。
それを師匠の息子であるアビウスの視点から見れば……身内が手掛けていた愛着のある仕事を手近に置いて見届けたい、という事になるのかもしれない。しかもその仕事に先を見込めるのならその成功ごと我が物にしたいという事だろう。
彼の言う「わたしの母がやっていた仕事を見届けたい」という言葉にはそんな意味があるのだろう、とライアは察していた。
「……もし君が、リアムを慕ってくれていたならそれで話は済むのだがね」
ライアの沈黙を、自分の話を理解したことの表れと取ったのかアビウスの言葉がしばらくの間を置いて続いた。
「人の心はそうやすやすとは変えられるものでもないようだ。君にはここでの何不自由のない生活と仕事のための出資をいくらでも保証できるのだが」
……あれ。
と、ライアが視線を上げる。
なんだか非常に物わかりのいい話の流れになってないかな?
そもそもこの人、こんなに常識のある発言ができる人だったんだ。
そんな意味を込めた視線にアビウスが目を細めた。
今度こそはっきりとした表情が見て取れる。
「……実は先日エリーゼに叱られてね。あの子がわたしに楯突くなんて初めてで……わたしは嬉しかったんだよ」
……はい?
なんだこの人。
今度ばかりはライアが目を丸くした。
なんかこう、人の顔してるけど。
あ、いや。人なんだからそれでいいんだけど。なんかこう……なにこれ。気まずさと嬉しさを滲ませたような……人の……親の顔だ。
「おかしいだろう。いや……自分でも可笑しいと自覚している。あの子の母親もそういう性格だった。周りがわたしを畏れる環境で唯一切り捨てられる者の苦痛を、わたしの胸ぐら掴んででも訴えて、まるで子供にするように叱り飛ばしたのはあれの母親だけだったんだ。……以来話がしたくて恥も外聞もなく彼女の元に通ったものだ」
ふう、と息を吐いて遠くに視線を飛ばすアビウスはもはやライアの知らない人だ。
そしてその視線の先で何かを見つけたようにくすりと笑みを漏らして。
「だから彼女が亡くなって、その娘を引き取る事にできた時にはちょっと嬉しくてね。またあんなやりとりができないものかと心のどこかで期待していた。幸いエリーゼもリアムを好いていてくれていたからね」
……うん。
そこまでならきっと息子夫婦とそれを見守る幸せな父親の構図が完成したんだろうね。
ライアもつい頷きそうになる。
エリーゼさんだって単にそれだけの話の流れならここに来るのは嬉しい環境の変化だっただろう。
でも、来てみたら使用人からは「愛人の子」という扱いで、そうこうするうちにリアムの花嫁候補がやってくるなんて……そんなの身の置き場が分からず混乱するしかない状況だ。
何をどこまで、誰に説明していいかもわからないという環境で自室に引きこもるしかなかったのだろう。
で。
そんなエリーゼが遂に当主に食らい付いたのか。
「えーと。つまり、私はもう用済みですかね? それならさっさと帰らせていただきたいんですけど」
もう。なにこれ。
なんか私がここにいる理由ほとんどなくなってるじゃない。完結してるじゃない。
という気しかしないのでライアがほぼ感情のこもらない棒読みな口調で答えてみる。
「いや」
どこかおめでたい方向に意識が飛んでいたと思われるアビウスの視線が不意にこちらに戻ってきた。
なんなら、さっきまで浮かんでいた表情を再び全部こそげ落としたような目に戻っている。
「君をここにいさせているのはわたしではないのでね。次期当主としての息子に君の件は全て一任している。だからわたしは口を出さないつもりだ……ただもしどうしても不都合があればわたしがあいつの尻拭いをするつもりではいるのでそれだけは話しておこうと思ってね」
「不都合だらけですけど」
すかさずそこはライアが突っ込む。
と、アビウスが再び好奇の色を滲ませた目を細めて。
「ああ……君にとってはね。……わたしが言っているのは商会の不祥事に関わるような不都合という意味だ」
「……」
ああ、なるほど。
ライアは他人事のように納得せざるを得ない。
つまり、仕事に悪い影響が出るような事になれば立場上その火消しには回るがそうでなければ手は出さない。
そのかわりこの感じ……万が一そうなった場合の「尻拭い」ってリアムの後継者生命が絶たれるくらいの事じゃないだろうか。
……これって、あれかな。後継者としての資質を問われる試練とかの流れに私が巻き込まれてるってことなんじゃないかな。
ライアはそんな事に思い当たって視線を遠くに飛ばした。




