ゼアドル家の庭
どことなく部屋が明るい。
と思ったら、いつの間にか満月が近付いていたらしい。
ライアがふと窓の外に目をやって目を細める。
耳の聞こえが良くなっている事を自覚したからといって外に満月が輝いている、というわけではなく今はまだ真昼だ。
太陽の光がかなり強い。
ちなみに「部屋が明るい」は、物理的な太陽光の話ではなくて聴覚が戻っていることによる感覚的なものだ。
それでもちょっと前より気分はいい。
塞ぎ込みそうだった昨日までとはちょっと違って無理矢理頑張らなくてもモチベーションを保てそうな気がする。
なんなら鼻歌だって歌っちゃう!
なんて思いながら試しに小さな声でハミングしてみて……。
「……ライア様、資料、こちらに置きますね」
そっと声をかけてくるカエデにライアが歌声を止める。
止めるといっても元々ささやかなハミングだったけど。
「あ、ごめん。ありがとう」
うっかり窓の外ばかり見ていたからカエデが部屋をノックされて応対に出ていたのを気に留めてなかった。
もう訪問者の応対は全部カエデに任せっぱなしだ。
「……大丈夫、ですか?」
小さな机の上に乗せられた紙の束を手に取って眺めているライアにカエデが恐る恐る声をかけてくるので。
「……え?」
ライアがつい目を丸くしてそちらを振り返る。
と。
一瞬カエデがホッとて肩の力を抜いたように見えた。
「あ、ああいえ。……なんだかずいぶん寂しそうな歌を口ずさんでいらっしゃったので」
「あ……ごめん……」
やっぱりそう聞こえてしまったか。
咄嗟に謝罪の言葉が出たのももう致し方ない。
先程「ああ、満月期だ。歌でも歌ってやろうかしら」と口ずさんだ歌は昔どこかで聞いた鎮魂歌のメロディーだった。
やはりこういう時に楽しい歌なんか頭には浮かばないようで。
この部屋はもとより外の廊下にも植物は飾ってあったりしないし、窓の外の地面まではかなり距離がある。相当大きな声で歌わなければ外の植物に届くことはないからいいけれど、こんな曲を聞かせたら植物の暴動が起きるかもしれない。
怒りや悲しみの色が濃い歌は植物に良い影響は与えないのだ。
「気分転換に歌ってみようかと思ったんだけど選曲に失敗しただけよ」
ライアが肩をすくめてそう答えてから、ああここは心配させないように笑った方がよかったかな、と唇の端を少し上げてみる。
と。
「少しお庭でもお散歩しませんかっ?」
カエデが拳をぐっと握りながら前のめりになって声を上げた。
「え……散歩……?」
ライアがその勢いに驚いて思わずのけぞると。
「ええ! だってライア様、ここに来てから数えるほどしかお部屋から出てないじゃないですか。たまには息抜きしないと病気になってしまいます!」
カエデの勢いは削がれることはない。
「え、ああ……うん。そうなんだけど……でも、私が部屋から出るとなると、なんだか大ごとになっちゃうでしょう? 皆さん暇にしてるわけじゃないんだから申し訳なくて……」
ここに来たばかりの頃に何度か庭くらいには出たいと言ったところ、ライアを取り囲むように使用人が何人か駆り出されて張り付かれた。
恐らくこの屋敷から逃げ出す事を防止するためにカエデ以外の人たちも都合をつけて付き添わないといけないとか、そういうことになっているんだろうなと思ったら、迂闊なことは言えなくなった。
「そんな事を気にしてらしたんですかっ?」
ライアの言葉にカエデがこれ以上目は開きませんよ、っていうくらい目を見開いて食いつくように言い返してきた。
ので、ついライアは勢いに押されるように無言のままこくこくと頷く。
「なんてこと!」そう短く声を上げたカエデはその後のライアの反応も返事も一切待たず、くるりと背中を向けて勢いよく部屋から出て行ってしまった。
かくして。
どうやらライアが使用人に「遠慮して」自主的に部屋に引きこもっていたということにショックを受けたらしいカエデはどこからともなく許可を取り付けてライアは庭に出ることが出来た。
「ああ今日はいいお天気ですね。日向にいたら少し暑いくらいじゃありませんか?」
なんて言いながら日陰になる場所を目指してゆっくり歩くカエデはもう上機嫌そのものだ。
「そうね……そういえばここって随分庭が広いのね……」
なんて言いながらライアがそのすぐ隣を歩く。
キョロキョロしてしまいそうになるのは極力我慢。
気持ちとしてはどんな植物があるのかを色々見たいところだが、あんまりキョロキョロすると屋敷の敷地から出て行こうとしているのと勘違いされて少し間隔を空けてこちらを見ている使用人の方々がすっ飛んできそうだ。
そしてあの方々はきっと「さりげなく」こちらを見張っているという設定なのに違いない。
聴覚が戻っている期間はなんとなくいつも以上に周りの気配に敏感になってしまって「聞こえる音や声」だけでなく肌で感じる類の視線とか空気感みたいなものにも敏感になってしまうのだ。
一応、ライアの隣を歩くカエデと二人で庭をお散歩、という形は取っているが植え込みの向こうで庭の手入れをしていると思しき人があちこちに何人かいてチラチラこちらを見ている気がする。
だいたいそんなに大勢で庭の手入れなんかするはずないと思うし、あれ、草取りしてるような姿勢だけど……取った草がそばにかけらもないもんね。あ、あっちの人は木の手入れしてる風を装ってるけどあの木ってこの時期に手入れをするような種類じゃないと思う。
なんならいっそ、いきなり走り出してみようかな。みんなびっくりして追いかけてくるのかしら。
なんて事を思いついてはみたものの……そういや私、足には自信がないんだったね。なんか色々怖い思いしそうだからやめとこう。と、自主的に思いとどまってみる。
「あの……普通に歩き回っても大丈夫なの?」
ライアが恐る恐るカエデに尋ねると。
「え? 大丈夫ですよ? だって歩き回らないと健康に悪いでしょう?」
と、至極当然! といった真顔で返された。
なので。
「いや、えーと……ほら、あんまりあちこち歩き回ると脱走しようとしていると思われちゃったりとか……」
「え……」
もうこうなったらストレートに聞いてみよう。と思って口にした言葉にカエデが言葉を失った。
で。
「あ……ら、やだ! 大丈夫ですよー!」
途端に笑顔になってカエデが声を上げる。
キョトンとしてしまうライアに。
「だいたいライア様はそんなことなさらないでしょう? 今までだってそんな素振り一度もなさらなかったじゃないですか。私ども使用人の間ではライア様の支持率は鰻登りなんですよ? なんならほぼ全員、ライア様の協力者です。むしろ一番効率の良い時を見計らって脱出のお手伝いをしますのでそれまでは堪えてくださいませね」
後半は声を低めて目くばせする様に囁きかけるカエデに、やはりライアは言葉を失ってしまう。
……いやだって……周りに見張りっぽい人たちいますよ?
どうにも半信半疑なライアをよそに、カエデは庭のあちこちを案内して回ってくれた。
……ええと、そんなに隅々まで案内しちゃって大丈夫ですか? 敷地内に精通しようとしている行為だと勘違いされませんか? と、ライアの方がむしろ心配になるくらいだ。
それでも。
「……あ、ここ。風が気持ちいい」
かなり広く作られた庭の一部がとても風通しがいいことに気付いたライアがつい呟いた。
近くに大きな人工の池があってそこを通る風が程よく冷たくなって流れ込んでくるのが心地いい。
比較的気温が上がる季節であるとはいえ咲いている花は色とりどり。
アーチを作っているのはクレマチス。紫や白が涼やかで数種類がうまく絡まっている。
インパチェンスやペチュニアは毎日花がらを摘んでもらっているようでピンクや白の綺麗な花だけをつけている。人の背丈くらいまでで整えられて程よく隣の庭の造りから雰囲気を切り離してくれる生垣には数種類のひまわりが咲いていて小ぶりの黄色やオレンジ、赤褐色の花を咲かせて賑やか。生垣の高さ自体もかなり計算されているようだ。
「そうですね。ああ、あそこにお茶の準備がありますよ」
カエデが示す方向に目をやると、緑の生垣を背に小さめのテーブルを囲むように椅子が三脚ほど置いてあり、そこにお茶のセットが並べられている。
隣のワゴンでお茶を入れているのは時々見かける屋敷の男性の使用人だ。
「わ、すごい。あんなところでお茶が飲めるの?」
ライアが目を輝かせるとカエデが得意げに笑う。
緑に囲まれた、かなりリッチな気分の場所。
後ろの木が木陰を作ってくれていて、その下には背の高いダリアが咲き乱れ、さらにその足元に咲き誇っているのはハーブたちだ。ライアの店の裏庭ほどではないが風に揺れて香りを放っているので爽やかな空間を作っている。
ライアが真っ直ぐに向かったのは馴染みのあるハーブの前。
爽やかな香りのハーブや食卓でも使えるようなハーブはどれも元気で瑞々しい。
「綺麗な子たちねぇ。よくお世話してもらってるのね」
しゃがんで小さく声をかけるとさわさわと嬉しそうに揺れて香りをさらに放ってくれる。
そしてそんなハーブの茂みに顔を埋めるようになりながら見上げると、そんなライアに気づいて「私も見て!」と言わんばかりにキラキラしたダリアが目に入る。
「わぁ。素敵。ダリアってこんなに種類があるのね。花びらも艶々ね! 色合いも綺麗!」
目を細めるライアに一番手前の蕾が微かに動いた。
……おっと。
目の前で蕾がポンポン咲くというのは……自分の家の裏庭ならともかく人様の家でやらかすとちょっとした騒ぎになってしまう。
とはいえ。
なんだか気になる蕾だ。
と思って思わず注視。
株自体は弱っている風ではないが蕾に元気がない。
「なあに、どうしたのあなた」
つい小さな声で話しかけてしまう。
と、蕾が内側からむくっと動く。
なんだか頑張って産まれようとしているみたいな雰囲気だ。
もしかして、初めて咲く花だろうか。
直感でそう思ったライアは思わず花の香りを嗅ぐようなそぶりに見せかけてチュッと小さくキスをする。
咲き出すまでにはまだ時間がかかるかもしれない。
「……頑張って」
小さな声援を送ってみて。
「香りますか?」
カエデの声に慌ててライアが立ち上がると。
「そこまで楽しんでいただけたら庭師が喜びます」
と、お茶の用意を整えてくれていた男性がにっこり笑った。
カエデよりもさらに年上っぽいその人はそう言って軽く礼をするとカエデの方に目くばせをしてその場を後にする。
「後の給仕は私がやりますね」
作業を交代した、ということなのだろう。カエデがポットのお茶をカップに注いでライアの方に差し出すのでライアは早速席に着いた。
ワゴンにはまだ茶器が残っている。
「ね、カエデは飲まないの?」
その残った茶器の方に目をやりながらライアが声をかけると。
「あ、いえ。私は……」
「だってまだカップあるじゃない? そのティーポットお茶まだ入ってそうだし」
ライアが隣に立ったままのカエデに首を傾げて見せると。
「……もう。どうしてお茶の用意までしちゃうんですかねぇ……」
と、カエデがとても小さな声で呟くのでさらにライアが訝しげに眉をひそめる。
「リアム様ですよ。……ライア様が庭をお散歩すると報告しましたら自分も出て行くからお茶の準備をしておけって……お一人でお茶をしたいそうですからってお断り申し上げたんですけどね」
「うわ。そうだったの……」
ライアの顔が今度こそ苦虫を噛み潰したようになった。
なんだあの金髪男と一緒にお茶するのか……一気に楽しい気が失せたな……。
「ね。カエデがそこに座っちゃいなさいよ。今日は女子会の気分なんですって私が言うからさ!」
ライアがカエデの方を見上げて両手を組んで思わず懇願ポーズを取ってみると。
「……よろしいんですか?」
ちらり、とライアの方に視線が向く。
「もちろん。私を助けると思って!」
そんなわけで女子二人のお茶会。
別に使用人でもライアのための侍女ということなら二人でお茶をしたって問題はない。一度カエデがカップに口をつけてしまえばリアムだってそれを使ってでもお茶をしようなんて思わないだろう。
こうなったら早いもん勝ちだ!
……と、どうやらライアはこの時期かなり強気でもあるらしい。




