強い人
で。帰宅したライアが門のところでまず固まる。
「……え?」
ドアの手前に人影。
ていうか……。
「え……ちょっと、レジナルド?」
白っぽい人影は玄関脇でかがみ込んでいる。
しかも、息が荒くて肩で息をしている。
咄嗟に近寄って分かった。
嘔吐しているのだ。
玄関脇は剥き出しの地面。玄関の前だけ木製の階段が二段ほどあるが、その脇はいずれ花壇にでもしようかと思ったもののそのまま放置されている。
そこでレジナルドはかがみ込んで嘔吐しているのだ。
顔色もすこぶる悪い。
「大丈夫?」
ライアがすぐ隣でかがみ込みながら背中をさすると。
「……ごめっ……ちょっと……我慢できなかった……」
「いいわよ。大丈夫だから出しちゃいなさい!」
思いっきり具合の悪そうな顔をしながらも謝ってくるレジナルドにライアが目を丸くして背中をさすり続け、必要な処置に結びつきそうな原因を探ろうと観察する。
風邪……いや、食あたり……なんか変なもの飲んだか食べたかした?
ていうか……さっき聞いた話と総合して……行った先で毒を盛られたとか……まさかね。無いよね、そんなこと。
とはいえ、見た限りの様子からしてどれもライアの直感に引っかかる原因には思い当たらない。熱があるようでもないし、変に震えが出ているわけでもなく、異常な冷や汗をかいているわけでもない。
ただ顔色が悪い。……そりゃ顔色が良い状態で嘔吐する人なんかいないからそれは当たり前のことで。
合間を見て一度台所に行ったライアがグラスに水を入れて持って来て、落ち着いた頃合いを見計らって「口をゆすいで」と手渡すと、レジナルドは涙目になりながらも受け取って言われた通りにしてくれた。
で、居間のソファに座らせて。
「……大丈夫?」
顔を覗き込みながらライアが声をかけると項垂れるように力尽きたレジナルドが大きく息をついて。
目の前にかがみ込んでいるライアの手を、無言で握って来た。
「……え、と?」
ライアが首を傾げながらもう少し姿勢を低くして顔を覗き込もうとすると薄茶色の瞳が何かを思い詰めたように宙を見つめている事に気づいて小さく息を呑む。
軽く混乱するライアが言葉を失っていると。
ぐい、と握られた手が引かれた。
で、バランスを崩したライアの腰に腕が回り、中途半端な体勢のまま抱きしめられる。
ふわりと前に作ってあげた香水の香りがするが、柑橘系のトップノートはもう無く没薬の柔らかい香りが残っている。
「え、なに? ……どうしたの?」
ライアがさらに混乱して声を上げる。
「ごめん……少しだけこのままで」
どこか思い詰めたような声がしてライアが体に力を入れるのをやめて抱きしめられるままにしてみる。
それにしても中途半端な体勢なのでレジナルドの座っている方にもう一歩近づいて、さらに今度はゆっくり肩から背中に向かって腕を回す。抱き寄せるような姿勢。と、ライアの腰に緩く回っていた腕に力が入ってギュッと抱きしめなおされた。
しばらく沈黙が続いてから。
「……ありがとう。少し補充できたみたいだ」
そんな声がして薄茶色の瞳がライアを見上げる。
「補充って……大丈夫なの?」
ライアはもう何が何だかわからない。
しかも補充ってなんの補充だ?
「……あ、うん……その……」
決まり悪そうに頰を赤くしたレジナルドが視線を逸らして呟くように答えた。
「……ライアの補充。こうすると元気がもらえると思って」
そう言ってライアの腰に回された腕がキュッと力を増した。
ライアの方は戸惑う一方だ。
と。
レジナルドがくすりと笑って。
「……今日さ、僕の叔父って人のところに行って来たんだ。祖父さんに『お前が継がないなら代わりに継いでもらえるように頼んでこい』って言われててさ」
そう言いながら腕の力が緩められた。
こちらを見上げるのではなく軽く俯いたような角度になっているのでどんな顔をしているのかわからない。
ああ、そのことか。
と思いつつもライアは息を詰めてレジナルドの話を聞くしかない。
「行って話してみて……最初はそんな話今更されても困るって言われてどうしようかと思ったけど……たくさん話して納得してもらって……さっき後継者を代わってもらったんだ。……疲れた……」
「……よく……頑張ったわね」
そう言うことしかできなかった。
ライアは力なく自嘲の笑みを浮かべるレジナルドの髪を梳くように撫でながらそう言うのが精一杯だ。
「はは……情けないね。こんなザマで」
レジナルドの笑みに自嘲の色が濃くなるので。
「そんな事ない」
とライアが言葉を重ねる。
そもそも、こういう種類の努力は人それぞれなのだ。
他の人なら難なくできることでも、この人にはものすごく難しい、ということがある。
その人のそれまで積み重ねたものや、置かれた環境によって同じことをするにも物凄く大変だったり難なくできる事だったりするのだから大変さ加減に基準はない。
そんなライアの言葉にレジナルドは口元で無理やり笑みを作る。
「あの人、今日初めて会ったけどさ。……すごく幸せそうだったよ。子供もいて……慎ましやかって言うの? そういう……物語か何かに出て来そうな家庭だった。僕とは一番無縁な、そんな家庭だった。……素朴で、あったかくて、当たり前みたいに笑顔があって……だからそんな仕事いらないって言われたんだ」
ふ、とため息を吐きながらレジナルドがそう言って笑う。
あたたかい笑顔のある家庭。
そんな幸せの代名詞みたいな単語を口にしながらもレジナルドの笑いは乾いた温度のない笑いだ。
その理由に察しがつくのでライアの胸がずきりと痛む。
「今がそこそこに幸せだから、もうこれ以上のものはいらないって言うんだよ。僕と同世代の息子もいてさ、その子にそんな大役は務まらないだろうし今更そんな責任は負えないから辞退するって言われて……」
まるで他人事のように話すレジナルドの表情は薄い笑いを浮かべているとしか言いようがないが……それでも言葉は止まりそうで止まらない。
「僕さ、もう腹が立って……今までその責任に押しつぶされそうになりながら生きる意味を全部犠牲にして来たのに、それをその一言で無価値で無駄なことって言われたみたいで……でもきっとこの人にはそんなことは関係ないし、そんなことは考えも及ばないんだろうって思って……僕に後継者になる意思が無いこととか、祖父が自分の子を探していることとか説明して……頭を下げてさ、納得してもらったんだ」
きっと、レジナルドが言う「頭を下げる」という行為は。
思いっきり意に沿わない行為、なのだ。
生理的に受け付けない行為。
体も心も拒否するような行為。
それを、彼は目的のために実践してきたということなのだ。
だからこそ、その行為を拒否していた体が嘔吐という拒絶反応を引き起こした。
そんなことはライアにも理解できた。
問題はその「目的」だろう。
「だからさ」
レジナルドがゆっくり視線を上げる。
「もう、僕はなにも背負ってないんだ。……もう、ライアに迷惑かけることもないし負担になることもないと思う。ライアの生き方を邪魔することもないし、ただそばにいて支えることができる身だよ。……ねぇ、ライア。僕のこと、受け入れてくれないかな」
ライアが息を飲む。
言葉なんか出ない。
この人は。
自分の身に絡みつく色々を全部切り捨てて、身一つになって私に向き合おうとしたということなんだろうか。いや、そういうことなんだろう。
そう思うと……とてつもなく愛おしいという思いと、そんな対象に見てもらったことへの申し訳なさで一杯になる。
「レジナルド……」
受け入れるべきなのだろう。
彼の払った犠牲を思えば。
でも、それではただの同情だ。
私はどうしたいのだろうか。
頭のどこかに他人がいるような感覚で、そんな事を自分に尋ねている。
レジナルドが好き。
それは本当。嫌いじゃないし、大事な人だという認識もある。
でも、ここまで真剣な思いを向けられていると思うと足元がぐらつく。
そう簡単に応えてはいけないような気がしてならない。
彼の背中の方に向けて伸ばしている手を、そっと引き戻して頬を包む。
男性にしては色白な色素が薄い、と形容できるような頬。
でもこうして自分の手を添えてみるとやっぱり自分の手の方が白いかもしれない。
そんなどうでもいい事を考えながら。
細められながらも潤んだ薄茶色の瞳を見下ろす。
きっと彼は私の言葉を待っているのだ。
肯定の言葉。
なのに、するっと出てこない。
そんな自分に嫌気がさす。
僅かにしかめてしまった眉と、下唇を噛んでしまった事を自覚して……それと同時にレジナルドが小さく笑みを漏らした。
ああ、失望させたかもしれない。
そんな考えが一瞬ライアの脳裏を掠める。
「……ごめん。こんな言い方、ずるいよね……」
レジナルドの口から漏れたのはそんな言葉で、その瞳は決して失望の色に染まったわけではない。
でも、やはり、ライアはもう言葉が出なくて……自分に失望する。
私は、意気地なしだ。
いざというときに何もできず、なんの責任も負えない、役立たず。
ごめんなさい、と言う事さえ……申し訳なくてできない。
「……あの……」
「いいよ、大丈夫。無理に答えないで。……それじゃ僕が後でものすごく後悔するから」
どうにかして何かしらの言葉を絞り出そうとしたところでレジナルドがふにゃっと笑った。
……ああ、どうしたらいいんだろう。
何かが込み上げてくるようでライアの息が詰まる。
こんな笑い方、させたくなかった。
見上げてくる瞳は、一生懸命期待を隠そうとして、それでも諦めないように必死。
この人は……強いのだろうと思う。
物凄く。
意に沿わない事でもやり遂げる強さ。いつまでもじっと辛抱して待つ強さ。
そんなものを持ち合わせている。
強すぎて、勇気がありすぎて……わたしには釣り合わないんじゃないかという気がしてならない。
そんな人から向けられる好意に、眩暈がする。
「……え、ライア?」
ライアがそっと、ソファに座ったままこちらを見上げているレジナルドの首に腕を回して屈み込むようにしながらぎゅっと抱きしめると戸惑うような声が上がった。
「……ずるいのは私だと思うの」
だって、こんな中途半端な自分を棚に上げて……まだどこにも行ってほしくないとか思ってる。まだもう少し待ってて欲しいとか、思っているのだ。
「ううん。ずるくない。……ライアは悪くないよ。僕が一方的にライアの生活に干渉しようとしてるだけ。一緒にいるのが心地よくてついどこまで許してもらえるかなって……試したくなる。……僕が悪い」
そう言いながらもレジナルドの腕はライアの腰に回ったまましっかり抱きしめてくる。
「……いい人過ぎるでしょ」
ライアが小さく呟いた。
どうして、この期に及んで私のことひとつも責めないんだろう。私、相当酷いことしてる自覚あるのに。
そう思うとため息が出る。
「あ……じゃあさ。一つお願いしてもいいかな」
不意にちょっと明るい声になったレジナルドにライアの腕が緩んだ。
「なに?」
「縁を切ってもらうことになるからさ。行くとこないんだ。とりあえず泊めて?」
屈託のない笑顔が向けられる。
……自分の笑顔に結構なパワーがあること、知ってるよね。知っててやってるよね。っていう笑顔だ。
そもそも、縁を切ってもらう事になったって言っても、ニールとの正式な話はこれからだろう。
行くところがないなんていう正当な理由はない筈。
……あったとしてそれは気持ちの上での話。
なので反射的にライアが小さく頷く。もう反射的に、だ。
「別に既成事実作ろうっていうんじゃないから安心して」
「……それが余計だわ!」
ライアが勢いよくレジナルドから距離をとった。




