調子に乗って承諾
満月に近い時期はライアにとって毎日が貴重だ。
村の人たちをはじめ、周りの誰もライアの聴覚が戻っている時期があることは知らない。知っているのは以前は師匠だけだったし、今だって仲良くしているシズカくらいだ。
師匠が生きていた頃は気難しいことで知られる店主の店に用もないのにふらりと立ち寄る者なんかいなかった。……その名残か今でもそんな事をするのはシズカくらいだが。
ただ師匠の腕は素晴らしく良かったので医師にかかるほどでもない者たちは大抵この店に薬を買いに来ていた。そういう人との距離感が師匠にとってはちょうど良かったのだろう。……それは勿論、ライアにとっても。
師匠が亡くなってライアが店を完全に継いでから客の雰囲気が変わった。
気難しい老人よりも、愛想笑いでも若い娘の方がとっつきやすいという事なんだろう、とライアは思う。
薬を調合するために客を見極める雑談の間も師匠の時より皆んなゆったりといろんな事を話してくれる。
村での出来事や自分が抱えている小さな悩み。
薬師は聞いた事を他言してはいけない。それも師匠から教えられたことの一つ。客との信頼関係は薬の調合に欠かせないのだ。小さな隠し事が命に関わる調合ミスにつながることもある。
それを村人も知っているので色々話してくれるのだろう、と思っている。
普段周りの話し声が聞こえない分、自分で推察するしかない。
人は憶測でものを言うのが好きなものだ。特にこういう娯楽の少ない村では他人の噂話なんてほぼ唯一の娯楽だろう。
普段自分がどんなふうに噂されているかなんて正確にはわからないけれど……そしていい噂になるようなことは何もしていないとも思うので良く思われているとは考えていないけれど……こういう時期には普段聞き取れない噂話が耳に入ってしまったりするから緊張する。
師匠が生きていた頃は勉強の合間に村の祭りにふらっと出て行ったこともあった。師匠に『たまには年頃の娘らしく遊んでくるのも悪くない』と言われたので。
そしてそこで聞きたくない事を聞いてそっと帰ってきたことがあったのだ。
師匠の悪口だったんだと思う。
町で大儲けしている商会の一族で、親族とうまくいかなくてこの村に逃げてきた偏屈老人。
そんなような事を言っていた気がする。
うちの店に来るお客ではなかったがそういう話を好んで聞く人たちが噂を広めるなら、村の人たちはもれなく師匠をそんな人物だと考えるようになるのだろうと思ったところで祭りに出かけるのは金輪際やめよう、と思ったのだ。
聴覚が戻っている間は視界が一気に開けたように気分が良くなる。
だからつい人の中に出て行きたくもなるが、そこは一度学習した身。
人の中に出ていって情報収集をしようとか無謀なことは計画しないけれど、このやたらと気分のいい時期は気持ちだけでも少し大らかになる気がしている。
それにちょっとやそっとの厄介ごとも、なんなら直前でもうまく交わせるんじゃないかなんていう普段なら考えないようなことも頭をよぎる。
なので。
「……分かりました」
手にした白い封筒から視線を目の前の来客に向けたライアは承諾の意を告げる。
居間に通すのはしっかりと躊躇ってしまった訪問客は時々街からやってくる師匠の親族代表その一だ。
確か孫って言っていたな……。名前……うん、忘れたね。
目の前にいるのは自分と同年代くらいの綺麗な顔立ちの男。町にいることも考えたらもう結婚していてもいいだろうに独身らしい。
すらりと高い身長のせいで視線を上げなければ目は合わない。
短く整えた濃い金髪にグレーの瞳は落ち着いた雰囲気を醸し出している。
丁寧な仕草で渡された封筒は「招待状」らしい。
中を開けて確認するまでもなく午前中から訪ねてきた彼はライアに封筒の中身を説明してくれた。
一族が催す簡単な親睦会があるので来ないか、という趣旨だ。
町の屋敷で行われるというなら断るつもりだった。いや、今までそういう類のものは断ってきたのだ。
でもこの度は、ちょっと趣が違った。
「場所がね、東の森の外れなんですよ」
穏やかな口調で告げられた言葉にちょっとだけライアの良心が咎めた。
おそらく、毎回「人様の家に行くのはちょっと……」とか「町に出て行くのは苦手で……」とか遠回しになってるかどうかよく分からない言い訳で断っていたせいで今回は野外での……しかも町から出てのガーデンパーティーみたいな設定にしているのではないかと思えてしまって。
簡単な説明を受けた後、つい気持ちが大きくなっていたのも手伝って了承の返事をしたライアに男は爽やかな笑顔を向けると礼儀正しく「じゃあ明日。楽しみにしています」と告げて帰っていった。
「……明日って……急すぎやしないかしらねー……」
男が帰るのを見送ってから開けっ放しだった玄関のドアに寄りかかりながら白い封筒を裏返す。
まるで胡散臭いものを見るような仕草だ。
中身を確認するために引っ張り出すと二つ折りになった厚めの紙が入っていて書いてあることは今説明を受けたことと同じだ。
ただ一つ、引っかかるのは発行された日にちくらい。
「これ、一ヶ月前に出されているはずの招待状じゃない」
やっぱりなー、なんて思う。
普通こういう催し物は前もって予定を組んで招待も十分前もって出すものだろう。
それが前日になって、となると……考えられるのは急に欠席が出ての穴埋めに呼ばれたか……あえて直前になってから言い訳の時間を与えないうちに呼び出してしまえ、とか……そんなところだろうな。もしくは呼ぶつもりでいたけどうっかりすっかり忘れてたとか?
「なんかちょっと、やーな感じ」
小さく口元を歪めながら手にした招待状をひらひらと振って家の中に戻ろうと踵を返すと。
「何がやな感じ?」
くすくすと笑う声がして手にしていた招待状が後ろから取り上げられた。
「げ、オルフェ?」
「お。名前呼んでくれた!」
振り向きざまに声を上げたライアに緑の瞳が嬉しそうに細められている。
「……まだいたの?」
つい小さな声で呟くとわざとらしくオルフェが眉を下げた。
「そりゃ、折角こんな居心地のいい村に来たんだからいつも通り一週間は滞在するって。それにここに寄れば美味いお茶も飲ませてもらえるしね?」
「はいはい。お茶くらい淹れるからどうぞ入って?」
ほぼ表情を崩すこともなく、社交辞令のようにも見えるやり取りでライアはオルフェを家の中に入れるが、オルフェの方はとても嬉しそうだ。
警戒している相手に対する態度が先ほどの金髪の男に対するそれで、自分は愛想笑いなしで家の中にすんなり入れてくれるというだけで結構な好待遇である事を察しているのだろう。
「昨日のお茶でいいんですか?」
「ああ。あれ、美味かったもんな」
そんなやり取りをしてライアが一旦台所に入り、それを見送ったオルフェは先ほどライアの手から取り上げた白い紙に視線を落とした。
「なぁ、これ行くのか?」
ティーセットを乗せたトレイを持って戻ってきたライアに早速オルフェが声をかける。
「うん、行くって返事しちゃった……というかさせられた……のかな」
眉間にわずかにシワがよるのは多少気を許せる相手だからなのかもしれない。
なにしろ、彼が少年だった頃からの付き合いだ。……年に一回とかの頻度だったとはいえ。
「ふーん……あ、お茶いただきす」
こちらもなんだかやけに慣れた感じでカップを手に取る。
貴重な茶葉だったとはいえ、お茶としての量は結構あった。あれならしばらく楽しめそうだ、とライアも内心ウキウキしていたのでこんな貴重なものを持ってきてくれた彼に多少還元するのはやぶさかではない。……名前を忘れていたような間柄とはいえ。
「でさ、着て行く服とかってある?」
「……は?」
意外な事を聞かれたせいかライアが目を丸くした。
そんな表情の変化にオルフェがこっそり目を見張ったのはさておきとして。
「あ、いや。女の子にこんなこと聞くのは失礼だとは重々承知してますよ? でもこれ、あの商会の親睦会なんだよね? いくら野外とはいえある程度はちゃんとしたドレスコードあると思うけど……で、俺の知る限りライアっていつもそういう服っていうイメージだから……つい」
「あ……」
ライアの視線がすとんと自分の服に落ちた。
「……着て行く服がないからって言って断るんだった……!」
ガクンと肩を落とすライアにオルフェが再び目を見張って。
「あのさ……ライアって……イメージ変わった?」
「……はい?」
ガクンと肩を落として分かりやすく項垂れたところから視線だけ上げたライアの表情は見るからに恨めしそうなそれで……わかりやすい表情だ。
オルフェにとってライアは子供の頃から表情の無い女の子だった。
以前の店主がいた時はいつもその背中に隠れるようにしてこちらを恐る恐る窺うような感じだったし、成長してからも笑うと言っても愛想笑い。オルフェにとっては大事な顧客であるわけだし、村での薬師としての評判はいいし、商品を見る目もいいから仲良くなりたいと思っていた。
そんな訳で好みの物を土産に持ってくればいいかと思い立ち、好みを聞き出すために会話を試みていたのだが今まで毎回話が噛み合わなかった。こちらが疑問形で投げかける言葉に「ですよねー」なんていう返事が返ってくることもあって、こりゃよっぽど嫌われてるんだろうな、と思ったものだ。
それが今回は、かなり分かりやすい反応が返ってくる。
しかも元々可愛らしい顔立ちであるにも関わらず無表情という表情を貼り付けていたせいでその可愛らしさが全く引き立たなかったのに、二度見したくなるくらいに魅力を振りまいているような気さえする。
栗色の手入れのされた髪は艶やかで、明るい茶色の瞳はぱっちりと澄んでいる。ぷっくりと艶のある唇なんて男が放っておかないだろう、なんて気もする。
一人で家も店も切り盛りしているのだろうに指先まできちんと手入れをしているようで整えられた爪は艶があり、指も細っそりと綺麗だ。
お茶を入れる仕草にも無駄がなく……自分が泊まっている宿屋の娘が毎朝出す朝食の時の仕草よりよっぽど丁寧。
これは……村でも老若男女問わず人気があるのも頷ける。
なんなら早めにお手付きにしておかないと後で悔しい思いをするかも知れない……。
「……ああいや、それは置いといて……」
「……は?」
自分の考えが何か邪な方に向きかけたことを自覚したのかオルフェがボソボソと呟きながら軽く頭を振ると、すかさずライアが胡乱な目を向けてくる。
……なんだこのスカッとするくらい気持ちのいい反応。
なんて思いつつオルフェがこほんと小さく咳払いをして。
「明日、なんだよなこれ。ちょっと待ってろ、多分着れそうな服があるから持ってきてやる」
カップに残っていたお茶を煽るようにぐいっと飲んでオルフェが立ち上がるとそのまま部屋を出ていった。
「……え……なんだったんだろ……」
取り残されたライアは半ば呆然としたまま閉まったドアをしばらく眺めていた。
昼過ぎ。
ドアがリズミカルにノックされてライアが応対に出ると。
「おう、お待たせ!」
いつになく馴れ馴れしくなっている挨拶と共に、目の前にクシャッとした赤毛。……もとい、荷物を抱え込んで頭を下げたままのオルフェがいた。
いつもきちんと束ねているストレートの髪は少し乱れ気味で……何か悪戦苦闘しながらここまで来た事を物語っているように見える。
「え……何、それ?」
抱え込んでいるのはちょっと大きな箱が幾つか。
勢いに押されてライアがドアを開けたまま中に下がるとオルフェが中に入ってきて荷物をテーブルに乗せた。
「どうでもいいけど……お客さんが来てたらどうするつもりだったの」
つい苦笑してしまう。
決して重そうな荷物では無いがかさばりすぎて腕が持ち堪えられなくなっていたようで入ってきた勢いで放り出すようにテーブルに乗せられた箱は勢い余って雪崩れ落ちた。
「ここ、そう毎日客は来ないだろ?」
「……失礼ね」
来るし!
一日二、三人くらいだけど一応毎日お客さん来てるし!
なんならついさっきまで近所のおばちゃんが子供の風邪薬をもらいに来てたわよ!
そうは思うがそれはお客さんの情報を流すことと同義なので口には出さず、わざとらしくゆっくりとテーブルに出ていた二脚のティーカップを片付ける。
一旦台所に行って片付けてきたライアが部屋に戻るとオルフェが持ってきた箱をテーブルの上で蓋を開けてきれいに並べ直してくれている。
「わ……なにこれ……。すごい綺麗」
箱の中身は服だった。
綺麗な薄いグリーンの春物のワンピース。それに薄手のショールに靴。
思わず歩み寄って手に取るとしっかりした生地のワンピースには裾の方に地模様があって生地もふんだんに使われており、デザインそのものはシンプルだが質が高いのがよくわかる。ショールの方は透けるような薄い生地でサイズは大きいがしっとり柔らかいので肩に羽織れば綺麗にドレープが出そうだ。こちらは同系色で少し色が濃い。端の方には金色の糸で螺旋状の植物柄が縫い込んである。
合わせた靴は白くて安定した感じのヒールがついているが服と同じ色のリボンが付いていて可愛らしい。
「……たぶん、ライアの着れるサイズだと思うんだけど」
そんな声がしてライアがハッと顔を上げるとオルフェが物凄く満足そうな顔でこちらを見ている。
「え……どうしたのこれ……?」
聞きながらライアはその色にちょっと思い当たるものを感じた。
薄いグリーン……つまり綺麗な翡翠色。
「いやさー、いつも世話になってる宿屋の娘さんにねだられてたから買ってきた土産だったんだけど、サイズが合わなくて昨日ものっすごく機嫌を損ねちゃって……しかも村娘が着て歩くような服でもなかったんだよな……俺さ、町や都市の富裕層が顧客のほとんどだからついうっかりそういう人たちが好みそうな軽い感じの服の中から選んじゃって……」
「うわー……ご愁傷様……」
結局ものすごい勢いで空振りしてしまった、ということなんだろうと思うとかけてあげられる言葉が思いつかない。
「だから、これ……貰ってもらえるとありがたい」
とっても気まずそうに視線を彷徨わせながらオルフェがそう言うので。
「え……でも彼女、大丈夫なの? 自分が貰う筈だった物を私なんかが着ちゃって」
問題はそこだろう、と思うのでライアが眉をしかめる。
だって仲のいい友達にあげるとかならともかく……私ですけど。なんなら村人からそう好意的に見られているとも思えない、私ですけど。
「ああ。今一旦宿に帰って本人の了承は得てきた。着てくれる人がいるなら喜んでお譲りしますって言ってたし宿屋の夫婦も娘が着るより薬師のライアさんが着てくれた方が服も喜ぶだろうって大喜びだった」
そう言い切ったオルフェはドヤ顔だ。
そんなオルフェに急かされてライアは服をまず試着することに。
オルフェ曰く「もしサイズが合ってなかったら意味がない」との事で、言われてみればその通りだなとも思ったので。
二階の自室に持って上がって、着替えてから下階に降りてみると。
「……!」
オルフェが目を見開いたまま固まった。
「……え……どっか変?」
ライアが眉を顰める。
一応サイズはピッタリだった、と認識している。胸も大きすぎず小さい事もない。裾は膝下丈で品の良い長さ。着てみて分かったのだが腰のくびれから裾にかけて自然に広がるラインはなかなか品が良い。胸元も開きすぎていないし、シンプルな袖は二の腕が隠れる程度についており、ショールを羽織れば全体の雰囲気がさらに品良くなる。
肩にかけたショールは腰のあたりまで下がるので胸から腰にかけて割と体に沿うようなデザインなのにいやらしさがなく上品だ。……と思ったんだけど。
「え……あ……いや……変じゃない! 良く似合ってる! よし、それで行け!」
変な間があったのは何だったのだろうというくらい後半は捲し立てて出たゴーサインにむしろライアが面くらい、眉間のシワを深くした。