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守るべき大切な人

 

 空気がふわふわとしているような気がする。

 池の水の反射なのか柳の葉の感情表現なのか、ふわふわきらきらとなんだか子供の頃に夢見た童話の世界のようだ、とライアは思う。


 心穏やかにただ座って、そんな光景を眺めながら簡単な食事を楽しむ。

 隣にいる白っぽい男の子も何だか童話の中の王子様のようだ。綺麗な横顔にきらきらとした瞳。

 ミートパイを頬張りながら、その都度「美味しい」なんて呟く声も心地よく。

 少し早い時期に収穫される青い林檎は小さめで酸味が強い。小さいのでそのまま齧ったりするけれど一応ナイフも持ってきているので半分に切ってみる。途中まで入れたナイフの刃を左右に動かすとぱくっと二つに割れて、その片方をレジナルドの方に差し出すと嬉しそうに微笑まれて……そんな小さな表情の変化にもどきりと胸が鳴る。


「……ねぇライア。柳の木、なんか言ってる?」

 シャクシャクといい音を立てて林檎を食べたレジナルドがライアの方に視線を移した。

「え? ううん。今は……何も言ってないわよ。そうね……何だか楽しそうだけど」

 柳の木もかなり古い木だ。うっかりするといつの間にか眠っているかのように沈黙していることが多い。でも、不思議と本体が眠っていても枝の葉が子供のようにきらきらと揺れて状況を楽しんでいたりする。

 でも、そうか……この感覚を感じ取れないのって、ちょっと残念かも。

 そう思ってライアがレジナルドの方に向けたのは困ったような笑顔だ。


「そっか……なんだかこうしているとライアと入れ替わったみたいだな」

 ライアの思いを知ってか知らずかレジナルドがふっと満足げに笑って柳の木に背中を預け、頭上を見上げた。

 うん? とライアが首を傾げると。

「普段はライアって音が聞こえなくてきっとこんな感じなんだろうなって思って。こうやって僕の方が感じ取れなかったり聞こえなかったりすると平等な感じがして嬉しいなって」

「……あ」

 ライアが小さく声を上げた。


 そうか。

 そんな風に思ってくれるのか。

 なんだか……あたたかい、な。

 そう思うとライアの頬が熱くなる。


 と。

「……はあああああああ」

「うんっ?」

 唐突に隣のレジナルドがやたらと深いため息をつくのでライアが今度こそ盛大に聞き返した。

「あー……ごめん」

 レジナルドは頭上を見上げた姿勢のまま目を閉じて……眉間にシワを寄せている。

「なに? どうしたの?」

 ライアが体ごと隣に向きを変えて思わず顔を覗き込んでしまうくらい、その表情は深刻そうだ。

「いや……なんか幸せだなって思ってたら……急に現実を思い出した……」

「現実……?」

「いや、ほら。僕、家を飛び出してきたんだったなと思ってさ」

 ……あ。

 そういえば。

 なんか色々ありすぎて忘れてたけど……レジナルド、やたらと落ち込んでたんだっけ。

 少し距離をおいた方がいいだろうとは思ったけど……そろそろちゃんと現実に向き合わないとただ逃げてるだけになっちゃうよね。

「……逃げっぱなしは良くないしな」

 ライアが思っていたことがレジナルドの口から出てライアはつい目を丸くする。

「ライアがさ、僕のことすごいって言ってくれたでしょ。あれ……嬉しかったんだ。なんか……頑張ろうって思えた。でもあれって……ライアが大変な思いをたくさんしてきたからこその言葉だったんだなって思って。……むしろライアの方が僕なんかよりずっと大変な思いをしてきたんじゃない?」

 ふと気付くとレジナルドは木にもたれたままライアの方に顔を向けて真剣な眼差しをこちらに注いでいる。

 そしてライアは。


 ……私の、してきた、大変な思い。

 それって……つまり、過去とかそういう事だろうか。

 ふと、この場に似つかわしくない感情が頭をもたげて、ライアは思わずその場で手を膝の上で握りしめたまま固まってしまった。


「ライアとあの木の話、聞いたらさ。僕の今までのことなんて小さいなって思ったんだよね。……僕はまだ、もっと頑張らなきゃいけない人間なんだと思うんだ」

 ああそうか。

 つい黙り込んでしまったライアに優しい口調で話しかけるレジナルドの言葉にライアはようやく言われている言葉の背後にある物を汲み取った。


 老木殿と出会った時の話をした時に、さらっと、飽くまで軽く、だったけれど自分の育ちについて話した。

 親に捨てられた孤児。

 そこそこいい育ちだったはずの子供が孤児になって居場所を失うことの意味は、多分彼なら想像がつくのだろう。物理的な居場所だけではない。この能力のおかげでどこに行っても心の落ち着く場所がなく、孤立していたことも、察したかもしれない。だからこそ、毒を持ち「自分に近寄るな」と言う老木殿に惹かれたのだし。


 でも。

 そういう過去を、感情の色をつけないようにしてただ「記憶」に留めるように努めてきたライアにとってそれは蒸し返して欲しくない過去とかそういうことではない。

 痛みの伴わない過去なのだ。

 ただの記憶。


 いや……そう思えるように努力している。


 だから、こんな場所で、こんな状況の時に思い出したくない感情が不意に込み上げてきそうで、ぐっと握った手に力が入った。

 私の過去なんか、私が忘れてしまえばそれで済む程度のものなのだ。


 むしろ、意識を向けるべきは私ではなく。

 目の前で心配そうに、真っ直ぐこちらを見ているレジナルドだ。

 こんなちっぽけな私の過去と比較して「自分はもっと頑張るべきだ」と言うその目には……危なっかしさがある。


「ね、それって比べちゃダメよ」

 ライアが真っ直ぐにレジナルドを見つめてそう言うと薄茶色の瞳が眇められた。

「あのね。どっちが大変とかそういうのはないの。状況もそれを受ける人も違うんだから受け止め方が違って当然なのよ。他の人と比べて自分は大したことはないんだからって無理する必要はないと思うの。そんなことをしていたらレジナルドがいつか壊れちゃうわ」


 なんだろう。

 どう言ったら伝わるかよく分からないけれど、今ここで彼を「そうだ甘えるな、もっと頑張れ」という方向に励ますのは違うと、ライアの頭の中で警報が鳴ったような気がした。


 こういう患者を見てきたことがあるからかもしれない。

 師匠が落ち込む姿を見たことがあったからかもしれない。


 人は、強いけれど……意外なところで弱くぽっきり折れることがあるのだ。

 頑張って頑張って、やっと乗り越えたと思った先で、まだ全然足りてなかったと思い知った時に、生きることも含めて全てを諦めてしまえるほど……弱かったりするのだ。

 私は何度それを乗り越えただろうか。

 乗り越える時にはいつも、ゼロからのスタートではなくてマイナスからのスタートだった気がする。その力は優しい木たちが分けてくれる気遣いから来ていたことが多い。そんな力を得られた私はとてもラッキーだったのだ。

 だから一人でも生きて来れたんだと思う。


「ライアって……本当に優しいね……。ずっと甘えていたくなってしまうな……」

 ふっと笑みをこぼしながらレジナルドがそんなことを言うので。

「いいわよ」

 つい、そう返してしまった。


 売り言葉に買い言葉、的な流れだったかもしれない。

 でも、放って置けないと、思ってしまった。

 そして彼なら、私が責任持って受け止めてもいいかな、なんて思ってしまったのだ。


 ゆっくりと、薄茶色の瞳が見開かれた。

 そして、一瞬考え込むように視線が逸らされて……その視線が戻ってくる。

「あの……それってさ……」

 ああ、これは。

 ちゃんと私の気持ちを伝えなきゃいけないってことなんだろうな、とライアも自覚したところで。

「……とりあえず、疲れたりもう限界って思ったりしたら私が逃げ場所になってあげるから無理しちゃダメ」


 あ。

 うん。

 ちょっと違う言葉が出ちゃった。

 駄目だ。私、恋愛とかそういうの、向いてないのかもしれない。

 言った後で口元を引き攣らせるような笑みを浮かべながらライアがこっそり心の中でため息を吐く。


「……ああ、そっか。うん、ありがとう……そうだよね。『大切な友人』だもんね。……どうせ。……いや、ちょっとは昇格してるのかな……」

 なんか白ウサギがぶつぶつ呟いているけどライアはもう聞こえないふり。


 周りできらきらと揺れる柳の葉がこちらを冷やかしているように思えるのは被害妄想だろうか。


「……よし! 歌うよ! レジナルド、ダンスしよう!」

 ライアが勢いよく立ち上がる。

「え?」

 ライアの切り替えにレジナルドが目を丸くしていると。

「ワルツに合う歌もあるのよ。大衆向けの祭りの歌だけどね!」

 そう言って笑顔を作るライアにレジナルドは納得した、という笑みで答えて立ち上がる。

「では一曲、お願いできますか?」

「ええ喜んで」


 おどけたように差し出された手に自分の手を重ねたライアはなめらかに滑り出すステップに合わせてハミングし、そして歌い出す。



 実りよく

 生み出す地に

 歓喜の声を響かせて


 遠き地までも声響かせ

 今日までの労を喜び夜を明かそう


 嵐の日の辛抱と

 風吹く夜の憂いは今宵

 歓喜に変わる


 花は咲く

 咲き乱れる

 歓喜の声は高らかに


 豊かなる時 今楽しもう

 明日からの労をねぎらい夜を明かそう


 雨降る日の祝福と

 光あふれる朝の希望に

 歓喜の声はこだまする



 歌いながらくるくると踊るのは想像していたよりずっと楽しい。

 ライアはステップを踏みながら心からそう思っていた。

 時々レジナルドがくるりと回るようにステップにアレンジを入れてくれるので歌声に笑い声が混ざる。


 ずっとここで歌う時は一人でステップを踏んでいた。

 昔、母親のために、母親に認めてもらうために覚えたステップはライアにとって辛い思い出だった。

 でもダンス自体は人が楽しむべきものであるはず、と自分に言い聞かせ……穏やかな気分でいる時にあえてステップを踏んでみて、さらに歌で感情を優しいものに上書きして心の痛みを忘れようとしてきたのだ。

 ちょっと前にレジナルドの家でダンスをしたのも楽しかった。

 高揚感に包まれたフロアでのダンスも良かったけれど、ここで穏やかに誰かとダンスできるようになったらきっと幸せなんだろうな、と漠然と思っていたのだ。


「ライアはダンスって……嫌いじゃないの?」

 一曲歌いながらのダンスを終えてレジナルドが急に真面目な顔になって尋ねてきた。

「う……ん、嫌いではないわよ。今はね」

「克服したとかそういうこと?」

 ライアが考えながら答えるとレジナルドがたたみかけるように再び聞いてくる、ので。

「え……と……」

 ライアはついに口籠もった。

 こうも食い気味に聞かれるとは思っていなかったので。

 と、レジナルドが一瞬「しまった」という顔になってから小さくため息をついて……ダンスの時のままライアの腰に回っている腕に力を入れて自分の方に引き寄せて。

「ライアは自分のこと、なかなか自分からは話さないから……聞ける時に聞いておきたくて。言いたくないことだったら無理に話さなくていいけど」

 ああそういうことか、とライアが肩の力を抜く。

 腰を引き寄せられているので体の力を抜くとその腕にもたれているような、ちょっと楽な姿勢になった。

「別に言いたくないことじゃないわ。十歳くらいまでは先生がいてちゃんと教えてもらってたのよ。結構厳しくてね。……母親に認めてもらいたくて頑張ったけど……そういう結果にはならなかったから……全部無駄だったって思いたくなかったの」

 ちょっと俯いて視線を横に逸らしたままライアが眉間にシワを寄せる。

 そう。

 全部無駄な努力だったと思いたくなかったのだ。

「孤児院に連れて行かれた時にね、ああ、あんなに色々頑張ったのにこの人は私を好きになってくれなかったんだ、って思ったら全部無駄だったみたいで生きていくのが嫌になったのよ。でも、どうせだったら全部何かの役に立つように先を見たらどうだって……老木殿に言われたのよね」

 レジナルドは黙ってライアの話を聞いてくれている。

 それが心地よくてライアは少し間を開けてからまだ言葉が足りなかったかと再び口を開いた。

「ダンスっていうものは人が楽しい時にするものだろうって、言ってくれたの。だからせっかく覚えたのならいつか楽しい気分になった時にダンスができるようになれたらいいんじゃないかなって、思ったのよね。……誰か好きな人と一緒に踊れるならその日のための……準備だったって……思えるかな、って……あ」

 おう、しまった。

 今私、何言った?

 はっとしてライアが顔を上げると、薄茶色の瞳が見開かれている。

「……えっと……じゃあ、これは……その準備、か」

 レジナルドが辿々しく尋ねてくる。

 自虐的な笑みを張り付けているのがちょっといたたまれない。

「あ……えーと……」

 本番です。

 と、言おうとした時にふと、柳の木の気配の変化にライアは気付く。


「あれ?」

 こういう時にこういう気配の変化って。

 思わずライアが声を上げて、周りを見回すとレジナルドが「え、なに?」とその視線をたどる。


「こんにちは」

 少し離れたところから、こちらにまっすぐ歩いてくるスラリとした背格好の男が片手を上げて慣れたような挨拶をしてくる。

「……げ、金髪男」

 レジナルドから身を離したライアが小さく呟き、その声を拾ったらしいレジナルドがギョッとしたような目をライアに向けた。

「探したんですよ。美しい歌声が聞こえたのでやっと見つけられました」

 レジナルドの方にちらりと一瞬厳しい視線を向けながらも、きっとキレイと括られる筈の笑顔をライアに向けつつ歩み寄ってくるのはリアムだ。

 右手には包帯が巻かれていて状態はよく分からないが多分手首から先はあまり動かないのではないかと思われる。

 そんな観察をライアがしている間に、レジナルドがすいと動いてライアの前に立つ。ちょうど近付いてくるリアムからライアを背中でかばうような立ち位置。

「ここはライアのお気に入りの場所なんですか? 綺麗な場所ですね」

 そう言いながらもリアムの視線は風景を楽しんでいるようには全く見えない。

「ええ……まぁ」

 ライアが面倒くそうにおざなりな返事をすると。

「怪我の方はどうですか、とか訊いてくれないんですか?」

 にやりと笑いながらそんな言葉が投げかけられ、レジナルドが一歩踏み出しそうになった。

 ライアは何となくその空気を察してレジナルドの袖を引き、そっと留めて。

「ああそうでしたね。怪我の具合はどうなんですか?」

 なんのアレンジもなく言われたままに言葉を返すとリアムがわざとらしく眉を下げた。

「もう痛みがひどくてね。診療所にも行きましたが……残念ながら指はもう動かせないだろうと言われました。ペンを持つにも食事をするにも不自由ですね……ライアがうちに来てわたしの身の回りを手伝ってくれると助かります」

「いい加減にしろよ」

 暗に嫁に来いとも取れそうな言い方にライアの背筋がゾクリとしたところで、レジナルドが低い声を放って今度こそ一歩前に出た。

「だいたいお前が勝手にやったことの報いだろうが。それじゃライアが責任取らなきゃいけない、みたいな言いようじゃないか」

 いまにも掴みかかっていきそうなレジナルドはものすごい冷気を放っている。

「……そうよ。私はちゃんと忠告したんだから。悪いけどこれ以上してあげられることは何もないですから」

 そう言うとライアは目の前のレジナルドのシャツの袖をぎゅっと握りしめる。

 広い背中は隠れるのにちょうどよくて……とても頼もしい。

 そんなライアの様子を顔だけで振り返って眺めたレジナルドの目が嬉しそうに細められた。

「……まぁいいでしょう。ライアにはあとで色々話したいことがありますが……その出来損ない後継者がいない時にした方がいいんでしょうね」

 リアムが「出来損ない」というところをやけに強調しながらそう言って不敵な笑みを向けてくるので。

「失礼な人! レジナルドは私にとっては大切な人なんですからね! 行こうレジナルド」

 ライアがレジナルドの袖を引っ張ってリアムから離れるように促す。


 レジナルドはなぜか強張った表情でライアに引っ張られるままリアムを一瞬睨みつけてからその腕をライアの肩に回して歩き出した。

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