日常の中の非日常
バタンと勢いよく開けた窓から埃が舞っていくのが見える。
「あー……やっぱりたまには掃除しなきゃいけないわよねぇ……」
大きめの布巾を三角に折って鼻と口を覆うように頭の後ろで結んだライアが小さくごちる。
自分の部屋は昨夜のうちにとっとと片付けた。
元々物が少ない部屋だし定期的に掃除もしているので、ひっくり返されたところでそう大変な事にはならない。一応向こうも「荒らす」つもりでやっているわけではないらしいので取り返しのつかないような散らかり方もしていないのだ。ただ、探した後元通りにし損ねている、というレベル。
師匠の部屋と使っていない客室もそうだった。
師匠亡き後、部屋のものを勝手にいじることは躊躇われるので手をつけてはいなかったが、こちらも物が少ない部屋。
さらに客室に至っては本当に何もない。必要最低限の物はあるけれど実質的には空っぽの部屋。たまにライアが大きめベッドで昼寝をするくらい。
そしてライアは定期的に掃除だけはしていた。
で、問題は。
物置きと化している部屋だ。
ライアの部屋も小さい部屋だが同じ程度の小さな部屋には使わなくなった薬草学の本が積み上げられている。そしてその隙間には薬草を保存するために過去に使っていた瓶や袋の類。なんとなく中身が入っていそうなものもあるが……大抵は保存できるように乾燥させているはずだし、使い物にならないくらい古くなっているとしても腐るとかそういう物ではない。
でも、埃はつくわけで。
さらに、いつまでも積んだままになっている書物には紙を餌にする虫がつくから……それ系の埃が結構すごい。
「一回まとめて処分しないとダメだなこりゃ……ってゆーかあの人たちよくこんな部屋に入ったわね……」
こんなすごい状態の部屋に踏み入るのは家人だって躊躇うのに、見たところ積んであったと思われる本の山は一度ひっくり返したようになっていて一番上の本には埃がついていなかったりするし、その辺の瓶や袋も動かされた形跡がある。床に積もった埃の上にも足跡がたくさん。
そんなこんなで一度捨てようと思ったものはまとめて外に運び出す作業を始める。
「ふぅ……こんなもんか……焼却はもうこれからじゃ無理ね。……夕方になってからだな」
額に浮いた汗を袖で拭いながらライアが空を見上げる。
早朝から始めた作業ではあったが気づけば日はすっかり高くなっている。
燃やすことのできるゴミは家の裏にある小さな焼却炉で燃やしているのだが、煙が出るので風向きによっては村の人たちの迷惑になるから朝から使うことはない。
一応村はずれにある家ではあるがそれでもやっぱり気を使う。
洗濯物が煙臭くなったりしたらそれこそトラブルになる。特にライアの家は薬草を扱っているのでそういうものを燃やして村人たちからしたら「得体の知れない」煙を吐き出しているとか思われてしまう可能性もある。
……まぁ、そんなことは実際にはないんだけどね。
以前、師匠から教えてもらったことの一つだ。
『人が嫌いで関わりたくないというなら結構。それはあたしだって同じさ。でも敢えて問題を起こす必要はない』
誤解を与えかねない行動は慎めとよく言われた。
白いエプロンについた埃をパタパタと叩いて落としながらライアがエプロンの下のスカートに目をやる。
初めのうちはもう少しいろんな色の服を着ていた。
それこそ若い女の子が好んで着るような。
でも、弟子入りを決めてから服も変わった。
明るい色の服や露出度の高い服は客ともなる保守的な村人から誤解されることがある。
薬師というのは基本的に地味な仕事だ。
そして様々な種類の薬草を扱う都合上、植物に由来する汚れがつきもの。それを目立たなくするためにもこういう色味の服になるのだとか。
「ま、服の色にこだわりなんかなかったからいいんだけどね」
弟子入りして最初の頃の服は見事にシミだらけになっていた。なんならエプロンは客であり患者である人の前でそれを隠すためのものだった。
すっかり作業に慣れてしまってからはもう簡単には汚すこともなくなり最近は薄い色の服にもなっている。
あんまり濃い灰色の服を着ていると今度は魔女か何かと思われるらしいということが分かったので。
「こんにちは。あれ? 大掃除?」
裏庭から戻ってきたライアに声がかけられた。
長めの赤毛を首の後ろあたりで束ねて旅人のようなマントを羽織った男だ。
精悍なイメージさえある顔立ちに切長の青みがかった緑の瞳の持ち主だが、目を細めた笑顔にはどことなく人懐っこい面影が残っていて村の娘たちにも人気があるんだろうなとついため息が出る。
「あ、うん。ちょっとね。要らないものを処分しようと思って」
ライアはまだ家の前に残っているガラクタを軽く指さした。
それらに目をやった男は「ふーん」と軽く頷いてからそちらに歩み寄る。
「それ、捨てるんならもらってもいい?」
「ああ、どうぞ」
彼の目当ては薬草が入っていた瓶だろう、なんてことに察しがついたのでライアが頷いてみせる。
彼は旅商人なのだ。扱う商品の中には薬草の類もある。
大抵の薬草はライアが自分で育てるか摘んでくるかしている。
東の森はそういう意味では恰好の場所だし、なんならこの家の裏庭はそういうための場所だ。
でも遠い土地にしか自生しないものや生息地が限られた動物由来の物となると入手経路の確保が必要になる。
師匠はそういう材料を見極める目も確かだったので、信頼できる腕と目を持つ旅商人との繋がりは大事にしていた。
彼とはその時代からの付き合いだ。最も師匠が取引を始めた頃は彼は見習いの少年だったが。
「……お茶、何にします?」
いつものように家の居間に招じ入れてライアが声をかけると。
「……」
青みがかった緑の瞳がわずかに眇められていることに気づく。
「……オルフェ」
しばらく二人して沈黙した後男が自分の方を指差してそう言うと困ったような笑みを浮かべた。
「あ。……ああ、そうだったわね……え、いや、覚えてますよ?」
ライアがつい決まり悪そうにぎこちない笑顔を作る。
会ってから家に入ってもらうまでの間に微妙に不自然な間があったせいか勘付かれたらしい。
ライアは人の名前を覚えるのが苦手だ。
特に耳の聞こえない時期に知り合う人の場合はうまく聞き取れないこともあって覚えることを放棄してしまう。自分にとって繋がりに意味のある人の顔は覚えているから差し障りないかと諦めてしまうのだが。
「ここまで名前を呼ばれないとさすがに確信に変わるけど……ライアって俺のこと嫌い?」
まるで捨て犬のような目になったオルフェがじっとこちらを見つめてくるので。
「いやまさか! 大事な伝手を嫌いになんかなるわけがないですよ?」
お茶を淹れに台所に下がるのもなんとなくにじにじと後ずさるような格好になりながらライアが言い放つ。
「……そう? ならいいんだけど……あ、これ。お土産のお茶。これ淹れてもらおうかな」
オルフェがそう言ってまだ半信半疑といった目を向けながらテーブルに包みを乗せるので。
台所のドア付近まで後ずさってしまった都合上もう一度テーブルに歩み寄りながらライアがそろそろとそれに手を伸ばして受け取ると、そのまま微妙な表情のまま台所へ。
台所で沸かした湯で茶器を温めながら受け取った包みをそっと開けてみる。
何重にもなって紙に包まれたそれは白っぽい茶葉だった。
「うわ。……めっずらし……」
つい小さく声が漏れた。
縦に丸まったような茶葉には細かい産毛が生えていて色といい香りといい特徴的だ。
発酵の過程を微調整して出来る白茶だろう。
これは確か沸かしたてじゃなくて少し冷ました湯を使うんだよね……。
この辺りでよく飲まれているのは緑茶やハーブティーだ。
もう少し南の方に行けば紅茶がメジャーな茶葉らしいがこの辺では茶葉を発酵させるという発想がない。紅茶自体は手に入らなくもないが家庭用というより町の喫茶店で飲む物といった感じ。
だからこういう発酵そのものを微調整して作られる白茶だとか黄茶、青茶なんかまずお目にかからない。それなりに効用はあるから薬として扱うことも可能だが貴重すぎるから常用できないしそれなら別の薬草で間に合う。
ライアにしたって薬学の知識のついでで師匠から学んで知っているという程度だ。
なんとなく緊張気味にトレイにお茶のセットを乗せて居間に戻るとオルフェがパッと顔を上げて笑顔になった。
歳はおそらくライアより五つは上だろうと思われるのだがこういう表情を見るとちょっと幼くも見える。
「……一年ぶり、くらいかな。ちょっと見ない間にいい女になったね」
「そういう事を言う段階でそちらはすっかりおじさんになりましたね」
ティーカップをそっとオルフェの前に出しながらもついボソリと口答えしてしまった。
「……やっぱり俺のこと嫌いだよね?」
「……違います」
向かいの席にすとんと腰を下ろしても悪戯っぽく笑みを浮かべているのであろう緑の瞳を見る気になれず目の前のオレンジ色の水色のお茶に目は釘付けだ。
「……ああやっぱり美味いな。こういうのはやっぱりライアに淹れてもらうのが正解だな」
早速カップを口に運んだオルフェが息を吐き出しながらしんみりと呟いた。
「……うん、本当に美味しい……」
同じタイミングでカップから口を離したライアも思わずつぶやく。
爽やかな香りといい、ほんのわずかな渋みといいバランスが最高にいい。
これで薬効があるなら良薬口に苦しなんて誰も言わない。確かこれは免疫を上げるとかの効果があったはずだ。
「そうか……ライアはこういう土産が好き?」
「……は?」
珍しいお茶を堪能しているとわずかに笑みを含んだような声がしてライアが顔を上げる。
「あ……いや、前より会話が噛み合うなと思って」
にっこりと、人懐っこい笑みを浮かべたオルフェを前にライアはああそういうことか、と思いつつも面倒くさいので「今日は耳が聞こえるんです」なんていう説明はやめておく事にして。
「まぁ、こういうの好きですよ? 滅多に口に入る物じゃないですし、何より美味しいですもん」
「そうか。じゃ、覚えておくよ」
ライアの笑顔付きの返事に満足したようにオルフェもキラキラした笑顔になった。
……うん。相変わらずの女ったらしだね。
確か彼、村の女の子たちの好みを結構知り尽くしてるんじゃなかったかな。
毎回宿泊する宿屋の娘さんには小さな翡翠のアクセサリーをあげているって聞いてた。それは彼女の色の好みを把握してるからで。シズカが言うには各地を巡ってきて持ち運びしやすい女性向けのお土産は小さな石類なんだそうで彼が村に来ると大体女の子たちはそういう綺麗な石のアクセサリーを貰うんだそう。かくいうシズカも去年は珊瑚とかいう綺麗な赤いペンダントを貰ったと言っていた。既婚者にも配るとは……筋金入りだね。
他にも珍しい果物やお菓子を毎回持ってきてくれるとか、隣の町を経由して来るから小さな花束をお土産に持ってきてくれるなんて話も聞く。
一応彼は村では人気の旅商人なのだ。
女性陣に土産を配って歩くからといって男性陣の恨みを買うこともないようだし、上手くやっているのだろう。
女の子を本気で口説くわけではないから皆んな楽しんでいるのだ。
まぁ、珍しいお茶が年に一度手に入るならそれはそれでいいか、なんて思ってみたりして。
ゆっくりお茶を堪能した後、オルフェは今回の仕入れを見せてくれたので必要なものを幾つか買い付け、ここで作っている薬草を幾らか買い取ってもらって、他所の町や都市を行き来するオルフェから幾つかの書簡を受け取る、なんていういつもの用事を済ませたライアは外に転がしてある瓶も持っていってもらうことにして本日の商談は成立した。
夕方。
村では早い家ならもう夕飯も食べ終わって一家団欒と言ったような時間帯。
ライアは裏庭の小さな焼却炉で不用品を処分して今日の一仕事を終えたところだ。
で。
ついでに庭で育てている薬草の類をざっと見回る。
師匠は無駄が嫌いな人だったから裏庭は無駄なくきっちり薬草の宝庫だ。なんなら使わない植物は一切生えていない。
そんないってみれば薬草畑の隅には結構な大木が一本生えている。
これはどうやら元々ここに自生していたものらしく相当古い木だ。その木にはこれまた古い別の植物の蔓が絡んでいてもはや木の幹は目視できなくなっている。
そしてその足元にはやはり薬草が所狭しと茂っている。
「老木殿。今日もお変わりなく」
ライアが少し姿勢を正して蔓に埋もれている木の方へと話しかける。
サワサワと葉が揺れるのはささやかな風によるのか……それとも。
『……ああ、もう月の満ちる頃か……久しいな……』
男とも女とも取れない微かな声がした。
それはしわがれた老人のような声にも聞こえるし、無機質な音がたまたま人の声に聞こえただけとも思える。
揺れる木の葉の音でかき消えるくらいに小さな音。
それでもライアにはこの「声」はなぜかいつでも聞き取れる。耳に響くというより頭に直接流れ込む、といった感じなのだ。
「いい夜になりそうですよ。今夜も歌いましょうか」
『……聞きたいね』
ライアの問いに木が嬉しそうに葉を揺らしたように見える。
周りに人の気配はない。そもそもこんな時間にこんな村はずれまで出てくる者はいないのだ。
薬師の店なんて言っても急患なら村には医師がいるので。
だから心置きなくライアはすうっと息を吸い込む。
頭の中を大好きな風景で満たして、心を暖かい色に染め上げる。
西の空に沈んでいく太陽の情景に少しイメージが重なる。
藍色の空と赤い空の境界のなんと壮大で美しいことか。
そんな情景に胸が高鳴る。
それは郷愁、なのだろうか。
そんな思いがふとよぎり、そんな思いもついでに織り込んでみる。
ライアの唇からは小さなハミングがゆっくり滑り出す。
詩のない歌。
音程のみの優しい歌だ。
柔らかく切なさをも含んだ音程は緩く穏やかに流れ、裏庭の一角をこのひと時だけ、まるで別世界に切り分けてでもいるかのようだ。
小さな歌声を何者も邪魔しないかのようにあらゆる音が途切れる。風すらも止む。
なのに空気は優しさに満ちて柔らかい。
『……ああ、生き返るようだ。ありがとう……』
ライアの声が途切れて数瞬の後、穏やかな声がして区切られていたかのような世界が再び和合する。
ライアはふふ、と小さく笑うと軽く頭を下げた。
「まだ五日くらいは時間があります。月が完全に満ちるまで後二日。そしたらまた歌いますね!」
満面の笑みのライアに。
『おやおや。この歌姫は我をどこまで若返らせるつもりか……その力は取っておけばよい。大丈夫、お前はずっと我らが守る。安心して行きなさい』
くすくすと品のいい笑みを含んだような言葉が返ってきてライアが「えー」と口を尖らせる。
「別に交換条件で歌ってるわけじゃないですよ? 喜んでもらえるのが嬉しくて歌ってるだけなのにー」
気持ちの良い風が吹いてきたせいか目の前の葉が「もう帰りなさい」とでもいうかのように揺れた。