友達の存在
柔らかい日差しの中で澄んだ水をたたえる池のほとりに佇む柳の木が優しく揺れる。
揺れ方が優しいと感じるのは……ライアの気のせいだけではないかもしれない。
『お嬢、今日は何があった?』
くすくすと笑っているような気がするがそれは決して悪意のある笑みではなく、愛おしい者に向ける笑みだ。
「……ごめん。なんか、こんな時ばっかりここに来てるみたい……」
ライアが木の根元にうずくまったまま小さな声で謝った。
『構わんて。誰かに何か言われたか。毛虫でも投げられたか』
「……もう。私いつまでも子供じゃないわよ……」
……そういえばここに来たばかりの頃、村の悪ガキに耳が聞こえないのをバカにされて意地悪されたな、なんて思い出してつい笑ってしまう。
そうやってちょっと笑ったら、周りの柳の枝がキラキラと揺れているのが目に入り……ああ慰めてくれているんだ。いつもそうだった。なんて思い出す。
「厄介者って……言われたわ」
ふっとため息を吐く。
と、大きな木がやはりふうっとため息を吐く気配がした。
『お嬢は厄介者などではなかろうに。我らの姫だ。……人にとっては薬師の役目がある』
どこか切なそうな響きが含まれたその言葉には、そう呼ばれた時の痛みを共に感じていることが伝わってくる。
「ああ、ごめんなさい。違うの、私じゃない。……大切な友達がそう言われたの」
『……ほう』
まるで目を細めて話の先を促すような雰囲気で相槌が打たれる。
「なんだか……自分が言われたみたいで……」
こうやってただ話を聞いてくれる存在はありがたい。
昨夜は結局イライラしたままよく眠れなかった。
朝が来て、ああそうだそろそろ歌いに行こうと思っていたんだっけ、なんてぼんやり思ったものの到底歌う気分にもなれず。
それでも昼過ぎにはここに来てしまった。
……こうやって聞いてくれるのを知っているからだ。
この柳はまるで師匠を思わせる、そんな存在だ。三年前に師匠が亡くなった時以来、すっかりここが落ち込んだ時の逃げ場になった。
『でもお嬢にとっては厄介者ではないのだろう』
「当たり前よ。彼が笑ってるのを見ると……何だかこっちも嬉しくなる」
『……信じることができるというのは、人の子の美しさよの』
笑みを残すように深い息が吐かれた。
何か深い喜びを噛み締めるような雰囲気だ。
ライアはこういう雰囲気が好きだ、と思う。
結局はこうやって肯定も否定もされないうちに自分の中で結論が出るのだ。
そうか、信じてあげられれば良いんだった。他の誰かに何を言われても……私が信じられるのならそれで良いじゃないか、と思う。それを「美しい」と見てくれる存在がいるというのがありがたい。
「……いつもありがとね」
『うん?』
ポツリと呟いたライアの言葉に緩く聞き返される。
「なんだか……困ったことがあるたびにいつも頼ってばっかりだわ……こんなんじゃ全然成長できないし強くなれない気がする……」
こつん、と後頭部を幹に当てながらライアが呟くと、ふふ、と柔らかく笑みが溢れる気配がした。
『お嬢は強かろうて。……我はただ寄り添うことしかできぬゆえ。それでも……嬉しいことよ。時には寄り掛からねば折れてしまうぞ』
結局。
今日は歌わなくても良い。次の満月までに心から笑えるようになってまたおいで、と言われてライアは柳の木を後にした。
……しようとした。
「……レジナルド?」
ちょっと離れた木の下にある低木の茂み。その影に見慣れた薄い金色の髪が見えてライアが足を止める。
茂みの方に歩み寄って屈み込むと、そこに隠れるようにしゃがみ込んでいたのはやはりレジナルドだった。
ライアが声をかけた途端その肩がビクッと跳ねた。
……あれ、もしかして隠れてるつもりだったのだろうか。
そうは思ったが、もう声はかけてしまったしそちらに歩み寄ってしまった。
「……何、してるの?」
仕方がないのでそのまま話しかけるとチラリと気まずそうに視線が向けられて。
「……隠れてた……けど、見つかった」
「はい?」
まぁ、そうなんだろうけど。いや、そういうことを聞いたんじゃないんだけど。
苦笑を浮かべつつライアが視線を合わせるべくレジナルドの向かいにしゃがみ込むと。
「……だって……店に行ったら閉まってて裏庭にもいなかったから、こんな時期だしこっちで歌ってるのかなと思って来てみたんだけど」
「ああ、そういうこと」
そういえば、レジナルドってここで私が歌ってるの聞いたことがあったんだっけ。なんて思い出す。
……なんだか、全ての行動パターンを読まれているみたいで気恥ずかしいな。
「あ、でも今日は歌うのやめたの。柳の木がね、今度でいいって言ってくれたから」
くすりと笑みをこぼしながら付け加える。
それにレジナルドが聞きたいっていうならうちの裏庭でもいいだろうと思うし。庭の木はレジナルドにちょっと好意的だ。
「あの柳の木と話してたの?」
レジナルドがすっと視線を後方に向けた。
池の端に佇んでいる柳の木の方だ。
なのでライアが頷いて見せる。あの木と喋っていたとしても木の声は他の人には聞こえない。裏庭の古木が先月やったことの方が特例中の特例だ。
「うん。あの木ね、昔からの友達なの。何かあるたびにここによく来てたから……」
柳の木の方に視線を滑らせてライアが目を細める。
何かあるたび、の「何か」自体はいい思い出ではないがここで得た安らぎは大切な思い出だし自分の成長の糧だ。
「大切な友達……か」
レジナルドがポツリと呟くのでライアの視線がレジナルドに戻った。
「ライアは大切な友達が沢山いるんだね」
どこか遠くを見るようにして呟かれる言葉にライアは、ああそういえば庭の古木や薬草たちもそういう意味では友達だなぁ、なんて思いつつ、つい視線を逸らして笑みをもらす。
「……何かあった時に頼るのは……木だけなの?」
急な問いに目を上げると薄茶色の瞳が真っ直ぐこちらを見ていて、ライアは笑みを浮かべていた口元を反射的に引き締めた。
「……誰かに何か言われたって……言ってた?」
あ。
レジナルドが真っ直ぐこちらを見たまま眉をしかめたその仕草とその言葉で、ライアの察しが付いた。
そうか、柳の木に話していたの、聞かれたんだ。それも私の言葉の方だけ。
……あれ、私何をどこまで言ったっけ?
ちょっと混乱している間に沈黙をどう捉えたのかレジナルドが少し間を詰めてくる。
「ライアが友達のことで傷ついたなんて知らなかった。でも、そんな事があったんなら僕だって相談くらい乗るのに。昨日だって一緒にいたんだし……ああでもそうか。僕ばっかり喋ってて……そういう話を切り出せるような雰囲気じゃなかったか……そうか……僕が悪いのか……」
「え? え? ちょっと待って。違うから。そういうんじゃないから」
あ、なんか話がこじれてる。
「いいんだ。大切な友達って男なんだろ。『彼』って言ってたもんな。……僕なんかには話せない相手だよな、きっと。そいつってさ、いずれライアの『特別』になるんじゃないの?」
わざとらしく口を尖らせて横を向く仕草は……もう途中から「わざと拗ねてますよ」っていう雰囲気になってるけど……内容的には盛大にこじれたな。
でも、だからって「それはあなたのことです」と言うわけにもいかないし。なにしろ「厄介者」のくだりを聞かれてそうだもんね。
「あー、もー……取り敢えず、家に帰ろう! ほら、店も閉めたままだし。早く帰って開けないと!」
もう話を逸らすしかない。
なんなら自分の顔が意思に反して赤くなってきているのも自覚している。
ライアが笑顔を顔に貼り付けて、レジナルドの腕を引っ張る。
「えー」なんてわざとらしく駄々をこねるような態度のレジナルドには「今夜は裏庭で飲もうと思うけど付き合わない?」なんて言って見事に釣り上げた。
家に帰って、午後の分の店開けをして、いつも通りレジナルドが客を和める。
なんていう工程を経て。
夕方には酒のつまみを幾つか用意して裏庭に二人で回ると。
「あれ?」
テーブルの上に見慣れない瓶と包みが置いてある。
「あ、そうだ。忘れてた」
レジナルドが台所から持ってきた皿をテーブルに置いてその手で瓶を取り上げる。
「これ、昼にこっちに来た時に持ってきたんだ。差し入れ。街で人気のある酒なんだけど」
透明の瓶に入った琥珀色の液体は……おそらく高価な蒸留酒。
差し出されて受け取ったライアは目を丸くして瓶とレジナルドを見比べてしまう。
「それ、いい匂いだよ。嗅いでみて」
そう言われてつい瓶の蓋に手をかけると。
「わ……ほんとだ……」
確かこのタイプの蒸留酒って木製の樽で熟成させるから木の匂いがするんだと思ったんだけど……これは甘い香りがする。
「ライアってこないだの感じだと結構どんなお酒でもイケるんでしょ? 折角だからこういうのどうかなと思って」
にっこり笑うレジナルドに素直にありがとう、と言いそうになったところで。
「え、でもこれ……結構な値段するよね?」
なんてつい訝しげな目を向けてしまう。
だってこの子、本当に金銭感覚おかしいんじゃないかという気がするし。
「あ、大丈夫……それね、ちょっと懇意にしている店の店主から貰ったものなんだ」
「……懇意に?」
それは家の関係だろうか。それってなおのことここに持ってきて大丈夫なんだろうか。
ライアが胡散臭そうな顔をしているせいかレジナルドは一旦口元を歪めてため息をついてみせてから。
「一応、仕事の関係で、懇意にしてるんだ。僕の個人的な関係だから家は関係ないし僕の自由にできるものだよ」
「え? 仕事ぉ?」
ライアがさらに目を眇めた。
「……ライア……僕のこと何だと思ってんのさ」
レジナルドが今度はじとっとした目を向けてくる。
「遊び人。家業を継がない意思表示に遊んで暮らしてる穀潰し」
「……ひどい……」
「まぁ、家業は継がないって言ったしね。……それは単に祖父への当て付けだから。でもそんな当て付けのために自分の人生を棒に振るのも勿体無いだろ。だからそれ以外のことはやってるよ。そうしないとあの祖父さん縁を切ってくれないだろうしね。だいたいあのクソジジイ、僕に裏切られたら後がないからって、こんなにやりたい放題にやってるのに『出て行け』とか言えないんだからさ……ほんと嫌になる」
なんて言いながらグラスに琥珀色の液体を注いでライアの方によこすレジナルドはなんだか知らない人のような目をしている。
それでも。少なくとも。
ちゃんと地に足のついた生き方はしていたということなんだ……と、ライアは微妙な心持ちでグラスを受け取った。
口に含むといい香りがふわっと広がって……これはけっこう強いお酒だな、と苦笑も漏れたりして。
そんなライアの様子を見ていたレジナルドが隣に置きっぱなしだった包みを開けて中に入っていたものを皿の上にコロコロっと出した。
「これも差し入れ。チョコレート。こっちも街で人気のお菓子。その酒に合うんだよ」
勧められるままに一つ手に取って口に入れるとほろ苦くて、甘い。
ああ本当だ。これはもっと飲みたくなる味。
そして飲んでいるうちに、ちょっと興味が出てきたレジナルドがやっているという仕事については……聞くタイミングを逃し、レジナルドの方も特に詳しく話す気はなかったようで目の前の料理の出来栄えや酒の味についての話でひとしきり盛り上がる事となる。




