痛み
「いやぁ、春ねぇ……」
「面白がってるよね、シズカ……」
「だって面白いし」
居間のテーブルでお茶を飲みながらニマニマとしているシズカを恨めしそうに見ながらライアが自分のカップを持ち上げ……いつの間にか空になっていることに気づいて、手持ち無沙汰でそのカップを両手で包み込みながら中を眺める。
さっきから気を沈めようと……飲み過ぎた。
なにしろ、レジナルドの爆弾発言のせいで仕事が手につかない。
せっかく来た客のための調合が上手くいかず棚の薬草を相当量無駄にしてしまったところで慌ててドアのプレートをクローズにして。
……なんなら昨夜は一睡もしていない。
朝起きてうっすら目の下にクマができているような気がして……わーこれはハーブオイルのマッサージ試してみなきゃ、なんて完全に他人事のように思いついたけど、あれはもう現実逃避の始まりだったのかもしれない。
午後になって「お茶を飲みに来た」シズカが挙動不審なライアに気づいて……ただいま、洗いざらい白状したところ。
とはいえさすがにシズカも植物との宴にまつわるあれこれは知らないのでそこは伏せて。
「その子って最近たまに来るっていう育ちの良さそうな雰囲気の子でしょ? 誰だったかがこの店に入ってくのを見たってはしゃいでたけど」
「……多分それだわ」
シズカがうーん、と考え込みながら言うのでライアが肯定する。
さすが田舎。情報が早い。
本当に余所者が来るとあっという間に情報が広がるらしい。それは良いところでもあるんだけど。
「何してる子なの?」
「遊んでる……」
「甲斐性なしじゃん」
「その通り」
ものすごく単純なやり取りでライアが気が滅入ったようにシズカを見やる。
確かに、甲斐性は、ないね。
お金持ちっぽいことを言っていたし支払いはいいけど、自分で働いているわけじゃない場合……ライアのような人間からしたら生活力という面に関してはかなりの不安要素しかない。
……いや、この際ぶっちゃけますけどね。
三十路を過ぎた女に「遊びで付き合う」とかいう選択肢はないですよ。一応、結婚は考えてしまうわけで。
「……で、好みのタイプなの?」
「……さあ……?」
ライアの答えにシズカがぶぶっと吹き出す。
「あ、いや……えーと……可愛い、わよ? なんかこうウサギちゃんみたいで。あー、だからウサギを一匹飼うんだと思えば……無くはないのかな……」
「……ウサギ……」
シズカが目を丸くした。
うん、だってね。
甲斐性とかってそもそも、必要かなって思ってしまうし。だってあのレジナルド、でしょ。
で、私、多分男の子一人くらいなら食べさせていけるとは思うのよね。
なんて考えているところで。
「ライアって本当に恋愛体質じゃないのね……なんかこう、ときめくとかそういうのはないの?」
「……え……」
呆れたように頬杖をつきながら視線を送ってくるシズカにライアがふと我に返る。
「うーん……まぁいいわ……いわゆる女子トークを期待した私が愚かだったということで」
何を聞いても淡々と返してくるライアにシズカはついに興醒めした、といったところらしい。
カップに残っていたお茶をクイっと飲み干して「まぁ、頑張って」なんて言い残すと手を振って帰っていってしまった。
「……本当にお茶しに来ただけだったのね……」
ライアが閉まったドアを眺めながらぼそっと呟く。
ドアにはそもそもクローズ表示のプレートが掛かっているのだから客として来られても困るのだけど。
ああそれか……シズカのことだ、本当は何か作って欲しくて来たところで私がこんなだから心配して話を聞いてくれたとかかな……。
ふとそんな事を思いながらシズカが帰っていった方向にある窓に目をやる。
結構話し込んだ割にまだ夕刻には程遠い明るさの窓の外に目をやりながらライアがテーブルの上のお茶の名残りを片付けていると。
「……?」
何かドアの方で音がしたような気がした。
誰か来た?
聴覚が鈍っている時期ではあるとはいえさすがにノックの音は聞こえるはず。
ああいう音は大抵奥にいる人にも聞こえるように、という意図を持って鳴らされるのでそこそこ大きい音だ。
なんとなく、ノックのような音が聞こえた気がしたが、ちゃんと聞こえたわけではない以上空耳かなんかだろうと思い直して片付けを再開して……一旦台所に入ってから再び居間に戻ってきたところで。
やはり、なんとなく、気になってドアに向かう。
で、そっと開けて外を伺うように顔を出し。
「っ!」
「……あ、ごめん……」
ついさっきまで話題になっていたその人がそこにいたのでライアが思いっきり息を飲んだところで、その様子を目の当たりにしたレジナルドが申し訳なさそうに視線を下げた。
頬が引き攣るのはもはや止めようがなく、それを隠すようにライアがドアを大きく開けて中に入るように促す。
「あの……どうしても気になって……でも昨日の今日だし声をかけるのはやめようかと思ったんだけど、店閉まってるみたいだったからちょっと心配になって……」
レジナルドがいいわけでもするかのように言葉を続けながら中に入ってくるので。
「あ……うん、ちょっと薬の調合の調子が悪いから今日はお休みにしただけ。……お茶、淹れる?」
なるべく目を合わせないようにしながらライアがテーブルの椅子を指し示すと「うん」と小さく返事をしたレジナルドがいつもの席に座ってちょっと深めのため息をついた。
……うん、なんか、いたたまれない。間がもたない。
これはこの際、二人が共に抱いている思いだろう。
ライアは「お茶を淹れる」という大義名分ができたところで台所に引っ込んだ。
で。
「はああああああああっ」
胸のあたりを押さえ込みながら大きなため息。
なんか、ものすごく緊張する。ドキドキする。
これが、恋ってやつ?
……いや、違うね。多分違う。これは単に気まず過ぎて緊張してるだけ。
自主的に自分の考えにツッコミを入れながら深呼吸して茶器を取り出す。
なんか落ち着くようなお茶にしよう。
さっきシズカと薄荷のお茶を飲んだし……私は一人で相当量飲んだから今度はミルクを使ったお茶を一杯とかで良いかな……あ、ほうじ茶のミルクティー。
なんとなく考えながら揃えたカップと小鍋と茶葉が、レジナルドのいつものメニューになりつつあるのに気づいた途端手が止まった。
止まると同時にかぁっと顔が熱くなる。
なんだろ、このお茶のセット見ただけで……なんだかやけに気恥ずかしい!
そう思いつつも、一度止めてしまった手を無理やり動かし始める。
こういうことは意識しちゃうからいけないのよ! 平常心で、無心でやれば大したことないはず!
少量の湯を沸かして茶葉を入れさらにミルクを入れて煮出すなんていう工程はそう難しいものではない。
あ。ちょっと茶葉の量がいつもより多かったかな……いや、いつもそんなに几帳面に計ってないからこのくらいの誤差は許容範囲のはず。いやそれより水の量、大丈夫かな……。
なんだか普段の作業がもう自然にできなくなっていることに気づき……手間取り始めると、今度は居間の方のレジナルドを必要以上に待たせてしまっていないだろうかとかいうことまで気になり出して訳がわからなくなってくる。
で。
がっちゃん!
「うわ!」
おおぅ、やってしまった……。
鍋ごと床に落とした。
えーと……こうなると……どうしたもんだろう……えーと、片付けるのが先? 新しく作り直すのが先?
「大丈夫っ? 今なんか結構な音がしたけど!」
台所のドアが勢いよく開いてレジナルドが飛び込んできた。
「え? ああ、うん、平気! ちょっと手が滑っただけ!」
慌てて顔を上げたライアは焦り過ぎたまま鍋を拾い上げようとして。
「熱っ!」
「え、ライア何やってんの!」
思いっきり熱くなっているはずの鍋を素手で掴むなんていう行動に出て、それを見たレジナルドがその手を掴んだ。
「え? え?」
もう何が何だか分からなくなりかけているライアは若干涙目でされるがまま。
レジナルドは掴んだライアの手を水道まで引っ張っていって水をかける。
「ほら、ちゃんと冷やして! 薬師が手に怪我なんかしたら駄目だろ」
そう言うレジナルドの目はものすごく真剣だ。
「……あ、はい……」
大した怪我ではないので大丈夫だろうとは思うが、思いの外真剣な表情のレジナルドにドキドキして言われるままに流れる水を手にかけ続け。
ふと気づくと、レジナルドの手が自分の手首を掴んだままでさらに緊張してくる。
「あ……っ! ごめん、つい……」
ちょっと眺めていたらレジナルドも気づいたようでようやくその手を離してくれた。
「えっ……と、君はそれちゃんと冷やしてて。片付けは僕がやるから」
そう言うなり顔を背けて床に落ちた鍋を拾い、散らばった茶葉ごと片付けに入る。
近くに雑巾があることまで把握済みで……意外に手際がいい。
そして一切こちらに顔を向けないけれど、耳が真っ赤だ。
そんな様子に見入ってしまったライアがすっかり冷え切った自分の手の方に意識を戻して様子を見ると、多少赤くはなっているが特に痛みもなく大事には至らずといったところなので。そっと布巾で手を拭いていると。
「薬あるの? ちゃんと手当てしないと後でなんかあったら大変だろ?」
と、心配そうなレジナルドに覗き込まれる。
「いや……このくらいなら放っておいてもそのうち治るから大丈夫よ。それにこんな場所に薬つけたりしたらなんにもできなくなっちゃう」
なにしろ手のひらと指先だ。右手の。
家事の一切合切が不自由になる。そもそもこれからお茶を淹れようとしていたのだし。
「いいよ、僕が手伝うから」
「ええ!」
えーと、本当に大丈夫だと思うんだけどな……あ、でも冷やしていた間はなんともなかった手に熱が戻ってきたらちょっと痛み出してきた。
なんてぐずぐずと考えながら手のひらを見つめていると。
「ほら、いいからそこに座って。薬ってその辺にあるの? 教えてくれれば出すよ」
なんて急かされる。
「う……ん……。えと、そこに軟膏がある」
薬草の棚の下にある引き出しに幾つかの薬が入っている。それを教えるとその辺の引き出しを幾つか手際よく開けて教えた軟膏と包帯を見つけたレジナルドは、作業台に引き寄せた椅子に座らせたライアのところに戻ってきて、強制的に右手を取る。
で、そこに軟膏をゆっくり塗り……丁寧に包帯まで巻いてくれる。
「……この感じだと痛いだろ。夜には痛みは引くだろうけど……下手したら明日水ぶくれになってるかもしれない」
レジナルドが眉を顰める。
「……なんか、やけに詳しくない?」
自分の火傷とはいえライア自身の所見もそんなところだった。
明日水ぶくれになってなければいいな、くらいに思ったところだったのだ。あれは後々始末に悪い。
でもたかが手のひらのちょっとした火傷だ。子供がその辺ですっ転んで膝を擦りむくような程度の怪我。そんなにつらそうな顔をされるほどのことでもないと思うのでつい薄茶色の瞳を覗き込むように尋ねてしまった。
「……昔、祖父がさ、使用人に辛く当たるのを何回か見たからね。あの人達もこんな感じの火傷をするのって日常茶飯事だったんだ。で、申し訳なくてさ、祖父がいなくなるのを見計らって手当てするのを手伝ったことがある」
「……え……」
ライアが言葉を失った。
「あの人、使用人を人として見てなかったからね。いつでも替えのきく道具かなんかだと思ってたんじゃないかな。まぁ、うちは給金が良かったらしいから本当にいくらでも替えはきいたみたいだけど」
「なんか……本当に大変だったのね……」
確かにちょっと理不尽な人らしいことは聞いていたがそこまでだとは思わなかった。
と、ライアも眉間にシワが寄る。
「まぁ、どんな些細なことでも自分の思い通りにならないのは許せないって人だからね」
目を伏せたままそう言ってから手当てに使っていたものを今度は手際良く片付け始めるレジナルドは……やはりどことなく寂しそうで……辛そうだ。
こういうのを見てしまうと、どうして良いか分からなくなるから困る。
と、ライアはつい思ってしまう。
昔からそうだ。
自分が親から拒絶された経験があるせいか、どうしても他人との距離の取り方が分からない。
大好き、と思った人が急に自分から距離を置く瞬間の恐ろしさが何度も思い出されるので……たとえ誰かに優しい気持ちを抱いたとしてもそれが表現できないのだ。
多分、こういう時は何か優しい言葉をかけてあげたり撫でてあげたりするものなのかも知れない。でも具体的に言ってあげられる言葉もタイミングも……分からない。
そんな自分が嫌で……誰とも深く関わらずにここまできた。
師匠はそんな私でも理解してくれていたのか、何も言われなかったのでここは居心地が良かったのだ。
だから居着いてしまった。
「で、お茶淹れるけどやり方教えてくれる?」
ちょっと考え込んでいたライアの思考をぶった斬ったのはレジナルドの笑顔だった。
あ。
うわ。
つい自分の事に思考が飛んでいたけど。
……なんて顔してるんだこの子!
レジナルドの、その笑顔は。
……あまりに痛い。
決して素直な明るい笑顔ではなく。
例えば、飲み込むだけで咽が傷つくような硬い物を噛み砕くこともせずに無理やり飲み下した後のようなそんな目をして笑っている。
そう思った。
こんな顔、させてはいけない、と強く思う。
なのに今は……。
「……え、ああ。お茶ね……こないだのほうじ茶のミルクティーでいいかな」
なんて答えながら。
……見て見ぬ振りなんかしてしまう自分に幻滅する。




