契約書
「というわけで」
一通り表面的とはいえあれこれ挨拶のようなやり取りを終えたあと、ナギが懐から筒を取り出した。
丁寧な仕草でその中から丸めた紙を出してテーブルの上に広げる。
「あ……これ……」
ライアが小さく声を上げた。
なんとなく察しがついた。
契約書だ。
書式は多少違うが、店の権利書と雰囲気が似ているのが一見して分かる。
それは多分発行元と内容が違うから。
縁取るように入っている透かし模様や押してある印は西の都市のものだ。
「アルが先に手紙を出してますよね。ライアの薬の研究に対して権利を買い取る契約書です。もちろん承諾するかはライア次第なので内容をよく読んでからサインするかどうか決めてくださいね」
完全に仕事モードに入ったナギは穏やかだが真剣そのもの。
そういうところが信頼できる、とライアは思っている。
ので、目の前に広げられた契約書をまず身を乗り出してざっと眺めて、そのあと手に取って読み込み始める。
で。
「え……これって……」
ライアが眉を顰めて契約書の後半を凝視しながら固まった。
そんなライアの反応を見てレジナルドもライアの手元を覗き込む。
レジナルドが心配そうな顔でこちらの手元を覗き込んでいることに気づいたライアが若干慌てて。
「これ、私にかなり有利に書いてありますけど大丈夫なんですか?」
と問題の箇所を指差して向かいに座っているナギの方に契約書を向け直す。
かなりというより完全にライアに有利な契約内容になっている。
つまり、書いてある内容を簡単にまとめると。
ライアが作ろうとしている薬品の生成に必要な研究結果を提出して、さらに生成に使用できる器材を提供してくれれば、それにまつわる全ての使用に関してはライアの指示の下に適正に取り行うというもの。
つまり薬品生成も薬品の販売も全てライアの指示がなければ勝手なことはしないということだ。
しかもその研究結果と器材の提供そのものに対しても報酬を受けられることになっておりそれは結構な額だ。
「あ、いいんですよそれで。元々うちの診療所って特にお金に困ってるってこともないんです。それに研究バカの集まりでもあるしね。だからライアの研究の価値を評価しているアルが、ここまでくるとライア一人じゃ背負いきれなくなってそうだからうちの方で引き継ぎましょうか、っていうのが本音なんだ」
柔らかい笑みを浮かべながらナギが頷く。
そしてライアの方をまっすぐに見つめて。
「あれは知識と技術がない人間に扱える薬草じゃないし、生成過程にも危険が伴うからね。でも研究を進めたいと考えている医学生はたくさんいるんだよ。そこにもってきてライアが生成過程を理論上だけでも確立してくれているということだからうちの診療所の医学生たちが色めき立っててね」
そんな説明を聞いてレジナルドの方は安心したように肩の力を抜いた。
そしてライアの方は。
「……いいんですか?」
まだ信じられないという思いの方が先立っていて現実味がない思いだ。
そんなライアを見つめるナギの視線はとても優しく落ち着いている。
「もちろん。それがアルが都市の司殿と話し合って決めた最終決定だからこちらはなんの問題もないよ」
「そういうことなら……」
ライアはどこか夢心地で頷いた。
この薬は完成すれば、そして量産出来るようになればいざという時に多くの命を救うことができるはずの物だ。
それを特定の個人が独占販売とかして儲けの道具にするようなことがあったら……と思うと胸が痛んだ。人の命に値段をつけるようなことだけはしてはならないと思うのだ。
アルフォンスという人はそういう人じゃない。
そこは知っていたけど、都市の名前が出た段階でちょっと不安はあったのだ。
リアムのようにこれを儲けの手段にしようというようなことを考えていないとは限らない、と。
でも違ったらしい。
あの都市は……本当にすごいな。なんて思ってしまう。
「ちなみにその研究の指揮を取るの、シンなんだけどね」
「え!」
意外な一言にライアが思わず声を上げる。
「言ったでしょ? 彼、天才だから。そういうの彼の専門分野なんだ」
悪戯っぽく目を細めるナギにライアのサインする手が止まった。
「……あ、サインするの嫌になっちゃった?」
小さく首を傾げてみせるナギは……もはやあざとい!
「……いやもう、いいですよ。シンが天才なのはなんとなくわかりましたから」
ライアは一度止めた手を無理やり動かしてサインを終えた。
「そういえばライア、聴覚が安定したって?」
契約書を筒に戻して、ライアが持ってきた設計図と研究結果を書きためたものを眺めながらナギが声をかけてくる。
「え……ああ、そうなんです」
へへ、と照れたように笑いながらライアが答え、ちらりと隣のレジナルドの方に視線を送る。
「あ、ごめんライア! つい……話しちゃった……」
ちょっと焦ったようにレジナルドがライアに返すのだが。
「ううん、全然大丈夫よ。レジナルドがナギと仲良くなるのってなんか嬉しいし」
つい本音が出てナギが眉を上げた。
「だってレジナルド、友達少ないでしょ?」
じとっとした目でレジナルドの方を見やりながら付け足すとナギが吹き出し、レジナルドが一瞬固まった。
「……仲良いねぇ。いや、僕としてはライアも友達少なそうで心配してたんだよ?」
くすくすと笑いながらナギがライアを見つめるので。
「あー……まぁ、そうですね。あはは」
「いや、ライアはみんなから好かれてるよ? 自覚してないだけで!」
レジナルドが妙なフォローを入れるのでライアは更に気恥ずかしくなる。
「ああ、そうだね。それも分かる。……いやね、なんていうか……仕事に対する姿勢がね、うちの診療所でも時々見かけるタイプなんだよねライアって。人の痛みや苦しみにはまっすぐ向き合うけど人そのものと向き合うまでは気が回らないっていうか……余裕がないっていうか……」
ナギがテーブルの上で両手を軽く組んで前かがみになりながらライアを見つめて諭すように話し出した。
この話し方が好きだ。
と、ライアが常々思っていた話し方。
ナギはとても人懐っこくて、雰囲気が柔らかくて、第一印象で信頼できる人、と思えるような人だ。
そして、話すことも自分の思い込みや憶測で話すのではなくきちんとした裏付けがあって確立された知識に基づいているし、調査の結果だったり観察の結果とも照らし合わせたものでいい加減な話であった事がない。
人の話を聞くことにやぶさかではなく、自分の中だけで結論まで進めてしまう前にきちんと相手の話を聞くので、たまに自分の言い分にちょっとした間違いがあることもあるが、すぐに謝って訂正する柔軟さもあるからますます信頼できると感じている。
だからこの人に言われることは、まっすぐに受け入れてしまえるのだ。
師匠はいつも言葉は少なめで話す時は理詰めだったのに対して彼はもっと柔らかい感じがしている。
「だからさ、レジナルドみたいな存在が君のそばにいてくれるようになっていたのは正直驚いたよ。でもすごく嬉しいね」
嬉しそうに目を細めるナギは本当に素直に喜んでくれているようで。
「え、あ……そう……デシタカ……」
ライアは頰が熱くなるのを感じながら俯いた。
なんだこれ。
親族に結婚のお知らせでもするような感覚というのだろうか。
……まだなにも言ってないのにね。
あ、いや、レジナルド、そこまで話したのかしら。
「ということで本当に合ってるんだね?」
くすくすと笑い声がしてライアがそろりと視線を上げるとナギが榛色の瞳を悪戯っぽく細めている。
……あれ?
「いやだって、ライアの店にこんなカッコいい男の子がいてさ、しかも慣れた様子で台所使うなんて、そういう間柄としか考えられないだろ? 一応世話好きなおじさんとしてはカマかけたつもりなんだけど……ほら僕、こういうの専門分野だから勘が働くんだよねぇ……そしてその反応……見事に大当たりってとこなんだろうね。結婚の届けはこれから?」
ライアが目を丸くして目の前の中年男を凝視するのと、どうやら固まっていたらしいレジナルドが脱力して頭を抱えるのはほぼ同時だった。
「それと……気になってたんだけど一つ確認してもいいかな?」
ナギが改まったようにライアを真剣な目で見つめるのでライアも自然と背筋が伸びる。
「君って……緑の歌唄い、だったりする?」
「え……」
ライアの目がゆっくり見開かれた。
あれ?
そんなことまでお見通し?
「あ、ごめんね。実は前から気になってはいたんだけど。アルが手紙に書いたと思うけど『風の噂』ってやつでね、もしかしてって思ったの。うちの都市にも南方の出身で昔『獣使い』って言われていた能力の持ち主がいるんだよ。そういう文献も図書館に保存されててね。だから知識としては知ってるんだけど」
あ、そういうことなんだ。
ゼアドル家で植物を暴走させた話。あんなものを『風の噂』で聞いたとして普通の人ならまず間に受けることはないだろうが、それなりの知識がある人なら。
と、ライアの思考が回り始める。
それにしても『獣使い』までいるなんて、西の都市って……そもそもあの都市には伝説と言われている竜族もいるっていう噂なのに。
「でね、もし君がそういう力を持っているが故に例の薬の研究が進められたということであれば、うちの診療所でその先の研究を進めるにあたってうちの医学生には幾つか注意喚起しないといけないからね。だから確認」
「あ、そうか……でも一応設計図の通りに器材が完成すればほとんど危険はなく薬の生成はできると思うんですけど」
ここまでくるとライアは私情とは関係なく仕事モードに突入しておりナギの手元に広げたままになっている設計図に視線を送る。
設計図はそもそも「普通の」人が扱うことを前提に設計した。そのために実現不可能だろうというくらいの無理を詰め込んだのだ。
「うん……そうだね……この設計ならかなり関わる人間は守られると思うよ……いい出来だ。これをちゃんと商品化したってんだからゼアドル家の財力と人脈はすごいと思うよ。……って、ああそっちじゃなくてさ」
ライアの視線をたどって手元の設計図を改めて眺めながら大きく頷いていたナギが顔を上げた。
「原料の方だよ。あれって自生してる場所を探すのも大変でしょ? 東の森を隈なく探せばある程度は見つかると思うけどそこから栽培できるように移植するのは多分普通の人には不可能だと思うし……万が一それができたとしても栽培自体、相当覚悟しないとできないと思うんだよね」
「あ……そうか……」
うちは裏庭に老木殿がいるけど、それだって頼み込んで「お引っ越し」を承諾してくれたからいるわけで。
「うん、まぁ……そういうわけでライアが緑の歌唄いだからここまでできたっていうんならそれはそれでいいんだ。うちの者たちが『医学生でもない女の子にそんな事ができたなら自分にできないはずがない』とか無茶苦茶な考え方して暴走しないように止めなきゃいけないから聞いておきたかっただけ」
納得すると同時に神妙な顔になってしまったライアにナギがそう付け足すと、ふっと笑った。
「よくここまで作り上げたよね。大したもんだ。本当に」
その笑顔は相手を認める、肯定の笑み。
この笑顔を前にすると、自分のあらゆる努力が一気に認められた気がするのだ。今までやった事が何一つ無駄ではなかったと自覚できる、そんな笑み。
ナギが医師として患者から尊敬され慕われるのだとしたら、きっとこういう表情や口調、それに態度のせいもあるのではないかと思えてならない。
そんなことをつい思ってしまいながらライアが肩の力を抜いた。
「じゃあレジナルド。君はしっかりライアを捕まえておかないとね。緑の歌唄いなんてそうあちこちにいるもんじゃないんだからね」
ナギはレジナルドの方に視線を移した。
「え、ああ。はい勿論です。でも僕はライアが何者だったとしても好きですけどね」
「お、いいねぇ。それは模範解答だね。でもね、僕が言いたいのはそこじゃなくてね」
平然と恥ずかしいことを言ってのけるレジナルドにライアは視線が向けられなくなったところで、ナギがニヤリと人の悪い笑みを返した。
「うちのアルがさ。そういう特殊能力持ってる人間には目がないんだ。もう彼も歳だからこんなところまでライアを迎えに来たりはしないと思うけど、今後西の都市へのお誘いの手紙がひっきりなしに来ると思うよ。来てくれたらみんな大歓迎するけど……来たら最後帰れなくなる可能性もあるから気をつけてね」
人の悪い笑みのまま告げられる言葉はなんだか冗談ではないような気がしてならない。ライアの表情がまず固まって。
「な……! 冗談じゃない! 駄目ですよ。絶対ライアは渡しませんからね」
レジナルドの視線が一気に鋭くなった。
「ほうほう、なるほど。好きな女の子にキスもまともにできないようなひよっこがいきがるねぇ……」
途端にナギがあからさまに意地悪そうに目を細めてレジナルドを眺めるので。
「……っ?」
ライアは話の展開についていけなくなって目を見張る。
で、レジナルドは。
「そっ、それとこれとは話が別だっ! そもそもそれは、こっちがしたくてもライアに全く隙がないからそこまで辿り着けないだけであって! ……あ……!」
なにやら勢い付いたレジナルドがナギに言い返しながら、途中ではたと、隣にいるライアの存在を思い出したとでも言うかのように口をつぐむ。
「ははは……若いねぇ……!」
……どうでもいいけどレジナルド。ナギと仲良くなりすぎだから!
ライアは心の中で絶叫した。




