戻ってきた日常と客人たち
閉塞感のある朝がやってきた。
……あー、そりゃそうよね。うん。
ライアが納得とともにゴロンと寝返りを打つ。
窓の外の鳥のさえずりがものすごく遠く聞こえる。
昨日までと同じ部屋なのに、心なしか薄暗くさえ感じる。ぼんやりと靄がかかった感じ。
問題は聴覚だけなのに視覚が受け取る感覚にまで影響があるようだ。
ごそごそと起き上がり、わざと音を立てるように歩いてみたり身支度してみたりするけれど……やっぱりどこか遠くで音がしているような感じがする。
まぁ、全く聞こえない訳じゃないんだからいいか。
なんて変な納得をして自分を宥めるのはもう習慣。
一日の行程もいつも通りだ。
朝食の準備をして、ゆっくり食べて、片付けて。
そろそろお客さんが来てもいい時間かなー、なんて思う頃にドアにかかっているクローズの札をひっくり返そうとして思いとどまる。
裏庭の様子を見に行った方がいいな。今日はこのまま裏庭の作業にかかりっきりになるかもしれないし。
うわ……。
凄いな、この茂りよう……。
これは刈り込みしないともう奥まで歩いていけないわ。
昨夜の宴でかなり歌ってしまったせいかいつになく薬草が茂っている。
ハーブたちはここぞと花を咲かせているし、忍冬もこれ以上咲く場所なんかないだろうっていうくらい花をつけている。
……まずは花を集めておこう。
そんなこんなで小屋の中からカゴを持ってきて花を摘みにかかる。
これは今日一日では終わらないかもしれない、なんて思いつつ。
それでも、没頭できる仕事があるというのはありがたいことなのだ。
しかもこういう何か形あるものを作るという仕事は精神衛生上とてもいい。
大量の忍冬は用途別にカゴに分ける。金銀花酒用のカゴ、生薬用のカゴ。
生薬用のカゴのものは広げて乾かし、その間に酒に漬けるための物を処理する。ひと月もすれば黄金色のお酒になって良い値段の薬として売れるようになる。この花は熱冷ましを始めいろんな薬効があるからいくらあっても重宝する。多分まだどんどん咲くだろうから次は精油を作ろう。
できる範囲で一通り形にしたところで次は庭全体の刈り込み。
摘める薬草は片っぱしから摘んでいって干すものはどんどん干していく。
昨夜レジナルドと一緒に食べたり飲んだりしていたスペースは干されている薬草の類であっという間にいっぱいになった。
「……うん?」
作業に没頭してもうどれくらい経ったのか、ふと周りの植物たちの空気感が変わったのでライアが顔を上げる。
囁くように、くすくすと笑うように優しく注意喚起されている感じ。
そう言えば誰かの声がしたような気がする。
「……ああやっと気付いてくれた」
すぐ近くで声がして振り返ると、薄茶色の瞳が嬉しそうに細められている。
「……レジナルド?」
ライアが目を丸くする。
まさか裏庭まで入ってくる人がいるとは想定外だ。
……いや、一応昨日はここで飲んだ訳だし、その前もハーブを摘むのに一緒にここに来ている。
とはいえ毒性のある植物もあるので普段はここに他人を入れることはなかった。それは師匠の代からずっと守ってきたことで、いきなり自分以外の人が入ってきているということに慣れていない。
「忙しそうだね」
慣れていない状況に表情が固まったライアに、こちらは全く悪意のないキラキラ笑顔だ。なんなら「わーい、会えて嬉しい!」くらいの気持ち全開に見える。
「……えーと……今日は……なに?」
固まった表情からそのまま眉間にシワを寄せたライアが小さく呟く。
「……え、なにって……友達の家に遊びにきちゃいけない?」
レジナルドの声のトーンがちょっと落ちた。
なんなら笑顔の発光度も二割ほど落ちた。
「友達じゃないって言ってるのに……」
ライアが遠くを見るような目でそう呟くと。
「ああ、いや……えーと。昨日薬草茶をもらって帰るの忘れたから出直してきたんだ」
完全に笑顔が消えたレジナルドがライアをじっと見ながらそう答えた。
これだけはちゃんと言っておこう、と絞り出したような声だ。
で、ライアはそれを聞いて「ああそうか」と思い当たる。最初にレジナルドに渡したお茶はほんの数回分。飲み続けてみて効果が正しく出るか分からないので「お試し」で渡したのだ。そして、昨日は結局飲んだり食べたりして……宴がお開きになってそのまま帰らせてしまった。
「……そうだったわね。悪かったわ。用意するから店に回ってくれる?」
そう言いながらライアがとりあえず家の表に回ろうと先に立って歩き出すと。
「……ごめん、忙しいところ邪魔しちゃったみたいで……なんなら手伝う、けど……」
気まずそうにレジナルドが後ろからついて来ながら声をかけてくるのだが。
残念ながら、ライアには何か言ってるのはわかるがなんて言ったのかはもう聞き取れない。
なんせ後ろから距離を置いてだし、声も小さめだ。
なのでライアとしてはもう習慣になっている通りに無難な返事で返してしまう。
「……あー……うん」
いかにも気持ちがこもってません、という返事だ。
で、店の入り口に回ってクローズのプレートをひっくり返してオープンにする。と。
「なんだ、今日は随分遅い店開けだな」
玄関先でまた別の声が上がる。
「え……ああ、オルフェ」
玄関の脇に退いたような格好で長い赤毛をひとまとめにした長身の男がこちらに向かって笑いかけている。肩にかけるようにして袋を持っているところを見ると……仕事で来たのかもしれない。
そう思うと同時にライアは笑顔を貼り付ける。仕事モードの営業用スマイルだ。
取り敢えず、ドアを開けて二人を入れたライアはひとまず二人にテーブルの席を勧める。
「あ、えーと……レジナルド、はちょっと待ってて。今調合してくるから。……で、オルフェは……」
「ああ、俺は後でいい。東の都市に入るのが遅くなりそうだからな、仕入れを調整しようと思って。もしここで買ってもらえるものがあれば先にここで消費したい。で、ここで良い薬草をもう少し仕入れさせて欲しい」
ああやっぱりそういうことか、と思ってライアが小さく頷く。
「ライアの薬草は効果も高いし日持ちもするからね」
オルフェはそう言って青に近い緑の目を片方パチンと閉じてウインクした。
精悍な顔立ちとはいえむさ苦しいわけではなくむしろ爽やかな部類だ。そういう表情はきっと娘たちにはウケが良いのだろう。とはいえ。
……あー、はいはい。こんな所で色気の無駄遣いは不要なんですけどね。
こちらの反応はそんなところだ。
表情を全く変えないままライアは台所の方に引っ込んだ。
「……で、なんだお前。彼女を怒らせるようなことでもしたのか?」
ライアが台所に引っ込んだ所で声を潜めるようにオルフェが向かいの席に座っているレジナルドに声をかけた。
その目はどこかからかうような悪戯っぽい光を宿しており、レジナルドが一気に不機嫌さを増す。
「……知らないよ。べつに何もしてないし」
レジナルドからしたらその言葉に裏も何もあったもんじゃない。彼自身、意味がわからないくらいだ。
昨日の夜、別れ際のライアは機嫌が良かったと記憶している。
なのに今日は声をかけても笑顔のひとつもない。……いや、そういえば彼女はそんなによく笑うような印象もない、か。とも思うが……それにしても表情があまりにも無機質だった。どちらかと言うと怒っているように見えたし……そうでなくても無関心、といったところ。
そのちょっと前の二人のやりとりをオルフェというこの男は察したのだろうか。……見られていないと思うのだが。
そんな思いを込めて眇めた目はいつになく鋭く冷気を帯びているのかもしれない。
オルフェがおどけるように肩をすくめてから、こちらに向かって前屈みになっていた体勢を起こした。
「……じゃなんでそんなに不機嫌そうなんだ?」
「……は?」
言われたことの意味がわからなかった。
今、変な聞き方してこなかったか、この男。
ちょっと間を置いて違和感を探り直す。
うん。「僕が」不機嫌である事を尋ねたよね。「彼女を怒らせた」という前提で。怒っているのが彼女なら「なんで彼女はあんなに不機嫌そうなんだ?」と尋ねる筈のところだ。
「……誰が?」
一応、言葉のアヤ的な何かかと思って聞き返してみる。
「だからお前が」
至極当然、とでも言いたげに眉間にシワまで寄せて返される。
「……ライアじゃなくて?」
もう思わずさらに聞き返してしまう。
「あいつか? あいつは普通だろ。いつもあんな感じだ。……なんだお前、あいつのことよく知ってる間柄とかじゃないのか? 朝帰りしたくせに」
「……」
からかうような口調に戻ったオルフェにレジナルドは苦虫を噛み潰したような顔になった。
……お前こそ、旧知の仲みたいな風を装っていたくせに知らないのか? と、返してやりたいところだ。
先日、一緒に夕食を作った時や、昨夜の様子からして今日の彼女の雰囲気の方がどことなく違和感があるという僕の直感は間違ってない筈だ。
常にピリピリした屋敷で生活してきた身としては人が纏う緊張感や苛つきみたいな空気には人一倍敏感な自信がある。
ということは……。
そこまで考えたところで、レジナルドの口元ににやりと笑みが浮かんだ。
「……おい、なんだその余裕の表情は。なんでそこで勝ち誇ったように笑うんだ?」
思いっきり、オルフェが引いた。
「お待たせー」
親しみのこもった口調とかでは決してなく、完全に平坦な棒読みの台詞とともにライアが台所から出て来る。
手には大きめのトレイ。トレイにはお茶の用意が乗っている。
で、滑らかな手つきでレジナルドの前には大きめのカップに作ったほうじ茶のミルクティー、オルフェの前には空のカップをまず置いてティーポットから美しい水色の白茶を注ぐ。
「お、今日も安定の味だな」
早速口に含んだオルフェが賛辞を送り、それを見届けてからライアがトレイの上に残っていた包みをレジナルドの前に出す。
例の薬茶だ。中身が分かるような包みではないので人前で出したところで客の個人情報が漏れるということはない。
まだちょっと訝しげな視線をライアに向けているレジナルドがその包みに手を伸ばしたところで。
コンコンコン。
玄関のドアがノックされた。
ああ、今日は客が立て込むなぁ……。
なんて思いつつライアが玄関に向かい、ドアを開けると。
「ああ、良かった。今日は開いてましたね。昨日の夕方に来たらもう閉まっていて明かりもついていなかったから泣く泣く引き返したんですよ」
大袈裟に肩をすくめて見せる、金髪の男。
……あー……名前、忘れたな。
ライアの表情が一瞬険しくなった。
「今日は何か?」
まさか薬を買いに来たとも思えないみるからに健康そうな男は、先日招待状を持ってきた師匠の親族代表その一。
ライアは客以外の名前を覚える気がどうにも湧かなくて、何度か名前を聞く機会があったにも関わらずまだ覚えられていないのだ。
「つれないですねぇ。……こないだのパーティー、せっかく来てもらったのに気がついたら貴女がお帰りになった後で、貴女に挨拶したいと待っていた方々がとても残念そうにしていたんですよ。なので、今日はそのご挨拶に」
ばさり。と。
手に持っていた物をライアの目の前に出される。
で、おもむろにライアが眉を顰める。
目の前に差し出されたのは、花束だ。
……よりによって赤い薔薇の花束。いや花に罪はないけれど。
目の前に出されたものに対しての反射的な動きとしてつい受け取ってしまいながら視線を花から目の前の金髪男に移すと。
「……少し話でもしませんか?」
ぞわっ。
あからさまな「甘い微笑み」と共に発せられた言葉にライアの背筋に寒気が走った。
「……今、忙しいのでまたにしてもらえませんか」
忙しい、というところを思いっきり強調しながら返した言葉はもう刺々しさが隠せない口調だった。
そんなライアの肩越しに男は家の中をチラリと確認するように視線を滑らせ、その後わざとらしく肩をすくめると「じゃあ仕方ないですね」と踵を返した。
「大層な花束だな」
ライアがため息を吐きながらドアを閉めるとオルフェが声をかけてくる。
「欲しかったらあげるけど」
ライアがそっけなく答えるとオルフェが目を丸くした。
「……あげちゃって良いの?」
ぼそっとレジナルドが尋ねてくるのだが、いかんせん声が小さい。
「……半分ずつ持って帰る?」
ライアの答えはやっぱり無難なものになる。
そして有無を言わさず花束を半分に分ける作業に突入。
包んであった紙を丁寧に剥がしてさらに半分に切り分けて、それぞれの紙に上に同程度の本数ずつ薔薇の花を乗せ、包み直す。
特になんの感情も乗せずにした作業ではあるが……もしかしたら普通の切り花より長持ちするようになるかもしれない。
大人になってからは「性格が悪い」なんて言われている花屋の花とも相性が良くなった。
相性、というより……花の方が一方的に敬意を持ってこちらに接してくる。
だから花を相手に嫌な思いをすることは無くなったが……いかんせん赤い薔薇だけは、思い出してしまうものに強烈な感情が伴うので……あまり好意をもって扱えない。
……そもそも、赤い薔薇を飾るにはハーブの多いこの部屋は似合わないしね。
なんて思いながら出来上がった小さな花束二つを強制的にテーブルの二人の前に押し出した。
「で、オルフェ。仕事」
空いている椅子に腰掛けながらライアが短く告げるとオルフェが「ああそうだったな」と、袋の口を開ける。
出てきたのはいくつかの瓶や木箱だ。
「これって……」
箱の一つを開けながらライアが呟く。
木箱の中には紙で包まれた物体。いくつか開けてみると一見同じようなものだ。乾燥した塊。一様に黒っぽくて、形は様々。
「ここは植物以外は受け付けない?」
困ったように笑うオルフェに。
「うーん……貴重な品なのは分かるけど……私の手に負えるかどうか」
「なにそれ?」
隣のレジナルドがひょいと手を出して木箱を一つ取り上げた。
「ああ、そっちは鹿の生殖器だ」
「うげ……っ!」
にやりと笑ったオルフェが間髪入れずに答えるとレジナルドが手にした箱を投げ出した。
「うわ! ちょっと! なんて事すんのよ、これいくらすると思ってるの……」
ライアが慌ててその箱が落下する前に捕まえる。
だいたいオルフェの説明も雑すぎる。……分かりやすいけど。
つまり、ここに並べられているのは動物由来の生薬と呼ばれるものの類。しかも結構貴重なものばかりだ。
ライアは植物とやたらと相性がいいのでここは植物由来の薬の調合専門だ。でも師匠の代の頃は多少は動物由来のものも扱っていた。
なのでライアにも知識と多少の技術はあるのだが……なにしろ植物達が成長の面でも効果の面でも有り得ないほどの力を発揮してくれちゃうので……高価な動物由来の原料を仕入れる必要がなくなっている。
でも……まぁ、たまには扱ってみたい気持ちも……無くはない。
そう思って幾つかの品物を手に取ってみると、品物の質も悪くない。むしろ、これ、結構高品質なものばかりだ。
「……これ、いくらふっかける気?」
思わずじとっとした目でオルフェを眺めると。
「ああ、もちろんオマケはするって。ここの品物つけてもらえれば半値でいい」
「……半値」
それは破格だ。
さっき山ほど忍冬を収穫したことが頭をよぎる。
つまりあれがあるから、今あるストックは金銀花酒もろとも差し出しても大丈夫なくらいで。
他にもこの後の収穫を考えたら売りに出せそうなものは結構ある。
なので幾つかの箱を自分の方に引き寄せてからゆっくり立ち上がり、後ろの棚から袋を出してきて中身を数枚テーブルに乗せる。
「これと、薬草数種類出せるわ。あとは金銀花酒をつけてもいい」
「……え、おい。金貨?」
テーブルに乗せられた硬貨を見たオルフェが目を丸くした。
枚数は少ないから額としては適正だが、こういう場所でお目にかかるようなものではない。
「支払いのいい客がついたの」
チラリとライアがオルフェの向かいを見やると視線を受けたレジナルドが得意げににやりと笑い……オルフェが「なるほどね」と視線を天井に投げた。




