二人の時間
「無理に帰らせなくても良かったのに……」
ライアが裏庭に戻るなり呟くと。
「あいつが自分から『帰る』って言い出したんだからいいじゃない、別に」
どこか決まり悪そうに視線を逸らしながらレジナルドが答える。で、小声で「あいつ、すっごい空気読んだと思うけど」と付け足すので。
「……なんの空気よ」
聞き逃さなかったライアが眉を顰めながら元いた席に腰を下ろした。
まぁ、レジナルドがものすごい勢いで赤面した上、慌てふためいていたのは……さすがに読まざるを得ない「空気」だったのかも知れないけど。
と、ライアが先ほどの出来事を思い返していると。
「だって……ライアが……」
「はい?」
なんとなくおどおどしながらこちらに向けられる視線に微妙な感情が乗っているように見えるのは気のせいだろうか、と思いながらライアが聞き返す。
そもそも、私じゃなくてレジナルドの醸し出す「空気」を読んでオルフェは退席したんだと思うんだけど?
「呼んでくれたよね、僕のこと……その……愛称で……」
「……っ!」
そっちか!
私か! 私が先にやらかしたのか!
そういえば「レジー」って呼んだ!
しかもサラッと声に出した記憶がある!
気づいたライアの方が今度は目を見開いたまま発火する勢いで赤面した。
オルフェの前でそんなふうに彼を呼んだことなんかなかったから……その……いろいろ察してくれたということか……それで自らを邪魔者認定したということか……!
ライアは気づいた途端、顔が熱くなるのを自覚したが、それはもう止めることもできない。なんなら耳も熱いし首も熱い。嫌な汗をかいているような気さえする!
と。
「ね。もう一回呼んで?」
テーブルに肘をついてこちらに前屈みになったレジナルドがうっとりとした目を向けてきながらそう囁く。
「え……」
やだなもう、何言っちゃってんだかこの白ウサギはっ!
という視線を向けながらも顔の熱が引かないので、ついでに涙目になりながらライアが言葉に詰まる。と。
「呼んで欲しいなって言ってるんだけど」
うっとり細められていたはずの瞳がどことなく意地悪なそれになっている。
「……う……あ……え、と……」
ちょ、ちょっと待って。そんな風に改まって呼んで欲しいとか言われて素直に呼ぶのってものすごく……困難極まりない。
「ふーん、そっか……じゃあさ」
何を思ったのかレジナルドが不意に腰を上げて席を立つ。
ライアがその動きを見つめている前でテーブルをくるりと回ってきたレジナルドがライアの隣に腰を下ろした。
「……っ!」
ライアが一瞬で固まる。
ライアが腰掛けていたのは長椅子型のベンチ。軽く三人くらい座れるもの。
ちなみに作業台のテーブルはちょっと大きめで、並べているメニューが多いので三人は間隔をあけて座っていた。
ライアと角を挟んで右隣にいたのはオルフェ。向かい側にレジナルド。この二人は一人掛けの椅子を使っていた。
で、そのレジナルドが椅子を立ってライアのすぐ隣に移動してきたわけで。
ち、近い近い近い!
ライアが完全に硬直しながら心の中で絶叫する。
「ね、これなら呼んでくれる?」
空いていたライアの右隣にピッタリ寄り添うように腰を下ろして、さらに腰に腕を回してきながらそう囁くレジナルドは、もうわざととしか思えないくらい雰囲気たっぷりだ。
ちょ、ちょっと待て!
距離感と豹変ぶり!
ライアの頭の中がぐるぐると……限界を超えた。
「……あ、あれ?」
おーい、なんて言いながらライアの目の前でひらひらと手を振るレジナルドはライアの限界超えを楽しんでいるとしか思えない。
「……ライアって……面白い……」
ぶくく、というレジナルドの笑いは恐らくこらえようという意識が働いたものと評価したい。
隣にピッタリ寄り添ってくるレジナルドの雰囲気に呑まれたライアはもはや挙動不審の極みに陥り、そろそろと視線をまずテーブルの上に逃して、その後、目に留まったカップに手を伸ばし、おもむろに中身を呷った。で、一気に空になったカップを不安定な手つきでテーブルに置いた後、それを見守るレジナルドの目が見開かれているのをチラリと横目で見てしまったせいでびくりと肩を震わせて、宙に浮かせた手で再び酒瓶を取り、カップに継ぎ足し、再びそれを口に運ぶ。
右側にレジナルドがいるせいで右半身が硬直し切った状態であるため、左手でそんな事をしているライアの挙動は不審過ぎる。
「……あ、ちょっと待って」
挙動が不審なまま勢いよく三杯目を注ぎ始めてそれを口元に持っていくライアをさすがにレジナルドもやんわりと止める。
「……っあー……」
左手から取り上げられたカップを目で追うライアはすでにとろんとした目つきになっている。
果物をつけた酒、とはいっても酒自体は蒸留酒。ストレートで、しかもそんな飲み方をすれば……まぁ、酔いが回るのも至極当然。
只今、ライアは緊張が多少和らぐ程度にはふわふわしている。
「飲み過ぎだから。そもそも何も食べないでそんなに飲んだら後が大変でしょ。……分かったよ、もう変なおねだりはしないからさ、もうちょっとゆっくり飲もう?」
くすくす笑いながらレジナルドが自分から遠ざけるカップをライアが名残惜しそうに見つめてしまうのは仕方ないのかもしれない。
……なんかよくわからないけど、もうちょっと飲んでしまいたかったのに。
ライアがぼんやりとレジナルドの手の動きを目で追っていると、長い指の綺麗な手が、水が入ったジャーから新しいカップに水を注いで強制的に自分の手に持たせてくる。
で、「はい、ライアはまずそれ飲んでね」なんて言いながら取り上げたカップの酒はレジナルドが飲んでしまった。
「あー……飲んじゃった……私の分……」
もはや言ってることも支離滅裂。
なんなら瓶にまだたくさん残っているのに、まるでとっておいた最後の一杯を飲まれてしまったくらいの気分だ。
「いいからいいから。ほら、ライアはまずそれ飲んで」
水を飲むように促されて、促されるままにそれを口に運ぶ。
……うん、もうこうなったら水だって飲み干してやる。
と、変に勢いづいてさえいる。
「……オルフェとのダンス、楽しかった?」
不意にレジナルドが尋ねてきた。
「……へ? ダンス……? ああ、そうね……」
聞かれることの真意とか、こう答えたら彼はこう思うんじゃないかとか、普段ならそこそこ考えるけれど。
この度はなんだかその全てが面倒。
……まぁ酒のせいよね。
とは分かっているけど。
「んー……楽しかったわよ?
オルフェってダンス上手なのよね。しかもあの見た目だからいい意味で目立つし、あの人も楽しかったんじゃないかな。……こう、ふわっとリフトしちゃったりなんかして気持ちよかったわよ?」
えへへー。
なんて笑ってしまうのはもう思い出し笑いだ。
確かにあれは楽しかった。
「ふーん……そっか。……オルフェにさ、告白とか……された?」
「はい?」
思い出し笑いのまま表情が緩みきっていたところに妙な事を聞かれたような気がしてライアがくるん、とレジナルドの方を向く。
と。
意外に真面目そうな目がこちらを見つめており。
「……え、されないわよ、そんなの。お互いそんなんじゃなく……えーと……そんなの抜きでダンスだけ楽しんだんだもん」
ライアの緩んでいた表情が一転して、じとっとした目つきになってレジナルドを見つめる。
「……そうなの?」
レジナルドの方はどこか疑い深そうな視線を返してくる。
ので。
「だって、オルフェは私の気持ちを知ってるからね。そもそもそんなこと言ってこないと思うわよ? 私はレジーのこと信じてるって言っちゃったし」
なんだか途中から子供に言い聞かせるような口調になってきたなと頭のどこかで思いつつもライアの言葉が止まらなくなってきた。
「……え?」
と息を飲むように目を見張ったレジナルドを見据えながら。
「だってさ。レジーってばテスラート家であーんな氷みたいな表情でいるんだもん。あんなの本当のレジーじゃないって思ったし。それに、パトリシアさんにしれっと『ありがとう』なんて言ったわよね?
あれ、本気の感謝じゃないから言えたんでしょ?
心から出る感謝の言葉なんかそうそう口にできないくせにあんなこと言ってたからね、私にはぜーんぶお見通しなんですよーっだ」
うひひ、と最後に笑って見せるとレジナルドが右手で口元を覆って視線を遠くに飛ばしながら「うわ……」と小さく呻いた。
なのでライアもちょっと調子に乗ってきた。
「それにねー? ゼアドル家で言ったことを何回も言わせるな、みたいなこと言ったでしょ? あれって『信じて欲しい』って言ったやつのことよね?
だからさ、私もレジーが私と一緒にいた時のあれこれは嘘偽りのない本当の姿だったはず、って信じることにしたのよね」
えへへー
なんて笑ってしまうのは、もう本人に自覚はないだろうが、酔った勢い。
そもそもライアはこの言葉によるレジナルドの変化に気づいていないようだ。
なにしろ先ほどから愛称を連呼されているだけでもその度に小さく反応しているレジナルドが、ことここに至って、赤面の上限を超えた。
首まで真っ赤になったウサギはもはや「白」ウサギではない。しかも思っていた以上の言葉が返ってきたせいで目にはうっすら涙さえ浮かんでいる。
そんなわけで。
……ぎゅう。
「……ぐえ」
ガバッと抱きつかれてそのまま抱きしめられたライアが変な声をあげる。
ライアが変な声を上げているにも関わらず、抱き締める腕の力は弱まることはないようで。
「……うう……レジー……ちょっと……苦しい……」
ギブギブ! と言わんばかりに自由になる左手でレジナルドの腕をパシパシと叩いてみるも、どうやら通じない様子。
「……ね、ライア……僕のこと好き?」
どこか、すがるような声が……した。
ぼんやりしながらもライアの耳はその切ない響きを聞き分けている。
これは「好き」って言わなきゃ。
なんてすぐわかる。
彼は私に真っ直ぐ気持ちを伝えてくる。いつもいつも。
そんなためらうことない真っ直ぐな気持ちを、今まで向けられた経験なんかないから……慎重にならなければ、とずっと思っていた。
で、出た言葉は。
「んー……いわないもーん……」
「……え?」
抱きしめられて求められた声はとても雰囲気たっぷりだった。がしかし。
ただいま、ライアの思考回路には普段より多めのアルコールが多大なる影響を及ぼしている。
言いたいこと、言わなきゃいけないことが整理できない状態だ。
「わたしはねー、そーかんたんにそーゆーことはいわないのー」
あ。抱きしめられたまま力抜いたら体が楽になった。
とばかりに、ぐてん、とレジナルドの方に寄りかかる。
で、そのまま無計画に言葉を紡ぐ。
「わたしのすきはねー……レジーのありがとうなんだからー」
「うん? 何言ってんの? てゆーかライア、大丈夫?」
いきなり体の力が抜けたライアに気付いてレジナルドが若干慌てる。
そしてふと、テーブルの上に目をやって、食べ物に手をつけた形跡がない事を再確認。
つまり……先ほどオルフェがいた時から三人とも酒は飲んでいたが食べ物の類は一切食べていないということだ。
オルフェがハイピッチで飲んでいたのは知っているが……彼の酒の対する免疫の程は分からないし、しっかりした足取りで帰っていったからそれは大丈夫なのだろうがライアは。
ふと、レジナルドは今までに宴と称してここで飲み食いしていた時のライアの様子を思い出してみて。
……彼女、酒に弱いというほどのことはなさそうだったけど、何も食べずに酒ばっかりカパカパ飲むようなことはしたことがなかったはず。
ということは、これ……。
「ライア? 相当、酔ってる?」
「……」
「え、ライア?」
「……」
レジナルドが心配そうに腕の中でくったりしているライアの顔を覗き込んで「あ」と小さく声を上げた。
お約束通り寝落ちして寝息を立てているライアはどことなく幸せそうな顔をしているようにも見えた。




