宴 その2
「はいどうぞ」
「うん……ライア、飲んでる?」
「え……ああ、まあね」
グラスが空になるたびにライアが新しい酒を注ぐ。
最初は梅酒、次に米酒、次に葡萄酒……。
……なぜだ。全く酔ってるように見受けられない。
まるでお茶でも飲むかのようにくいくいとグラスを空けるレジナルドにライアの心はめげそうだ。
なんなら、変に思われないようにと少しずつ飲んでいるライアの方がふわふわしてきた。
そして、そんな様子を面白そうに窺っている庭の植物たちの空気感がいたたまれない。
「……ああもう。歌うわよ! みんなしてそうやって面白がってればいいでしょ」
「……へ?」
庭からくるいたたまれない雰囲気についに耐えられなくなったライアが椅子から立ち上がったので目の前のレジナルドがきょとんとこちらを見上げた。
「ああ、レジナルド。今夜は特別だからね。ここで見た事……言いふらしたりしたらタダじゃおかないから」
ちょっとお酒が入っている勢いもあるせいかライアが軽く睨みつけるようにしながら口を尖らせる表情には言ってることと裏腹に何の迫力もなく……むしろちょっと可愛い、と思えてしまってレジナルドが目を丸くした。
で、ライアはそのままふらりとテーブルから離れて庭の方に向きを変え、屋根の外に出るちょうど際の柱の一つ軽く寄りかかる。
レジナルドには背中を向けるような位置でかろうじて横顔が見える。
『今宵は珍しい客人よの。長生きもしてみるものよ……』
「老木殿……絶対面白がってますね……」
『これを楽しまずになんとする……』
「もう……これだから年寄りは……!」
「……だれの声……」
ライアがぽんぽんとやりとりをしていると背後で小さな声が上がった。
「……え?」
ギョッとしてライアが振り返る。
私の言葉ならともかく、木の声は普通は聞こえないはずだ。
「ライア……だれと話してる、の……?」
「なんでレジナルド、聞こえてるの?」
目を見開いたまま固まっているレジナルドはその視線をゆっくりあちこちに向けていてあきらかに「誰か」を探している。
そんな様子にライアは胸の鼓動が跳ね上がり……何かを期待するような感覚にとらわれる。
……私と同じ類の人、だろうか?
そんな期待。
と。
『それは我の酔狂と思え。お前一人が我の声を聞いているようでは宴が台無しになるであろう』
「老木殿……?」
ライアの鼓動が少しずつ、落ち着いていく。
ああそうか。
古木には多少なりとも力がある。
今夜は相当気分がいいらしい。
これは「レジナルドの能力」ではなくてこの古木の力だ。
自分の声を人に届けるという力。
そんなサービス精神旺盛なお茶目な古木には感謝の気持ちが湧き上がる。
ライアが一人で庭の植物たちと会話していて、側から見て「気が触れた」なんて誤解をされないようにレジナルドも聞こえるようにという取り計らいのようだ。
「今喋っているのはあの方よ。この辺で一番古いの」
ライアがレジナルドに庭の奥に佇む大きな古い木の方を指し示す。
レジナルドは無言で息を飲んだ。
『若いの。今宵は宴でな。その歌姫が我らのために歌うことになっている。よければ聞いて行かれよ』
笑みを含んだ声が響き、周りの低木や薬草たちもさわさわと同調するように揺れる。
「……はい……お邪魔します……」
ちょっと改まったように一旦立ち上がったレジナルドは姿勢が良く……あれ、本当に酔っている感じがしない、とライアも思わず目を見張った。
……いや、良かったかも。
ここでへべれけだと私がいたたまれない。
……いや、飲ませたのは私だけど。
「客人を認めていただき感謝します」
ライアは庭の植物たちに頭を下げる。
さあ、はやく、と急かされているような気がしてライアが口元を緩めた。
「では……」
すぅ、と大きく息を吸って、吐く。
少し欠けてきた月を見上げると宴に合いそうな曲が浮かぶ。
ゆったりと微笑んで……それはどこか何かを懐かしむような笑みで。
滑らかに歌い出すのは、古くから歌われる友と酌み交わす酒の歌。
果てしない大地に育まれ
豊かなる蒼き空に守られ
ひと時の生を唄う
流れ落ちた時の先に
いつか集おう
人の授けし勲章の
軽く儚い重さを肴に
幾千の輝きと命
地に落ちた子供たちを抱いて
幾年の生を唄う
流れ着いた時の先で
今宵集いて
美味な酒を酌み交わし
ここに数奇な定めを笑おう
しばらくの静寂の後。
「……凄いな……」
レジナルドが呟いた。
ライアが歌っている間に植物に異変が起きていた。
それは「嬉しそう」に揺れ動き、一緒に歌っているかのようにさえ見えた。
さらに新芽を出すものや新しい花を咲かせるものもあった。
『姫は我らが至宝。困らせるようなことをしたらお前の命が危ういと心得よ』
笑いを含んだ声にレジナルドが背筋を伸ばした。
「もう。そういう大層な呼び方はやめてって言ってるのに」
ライアが頬を膨らませるとさらに笑みを深める気配。
『我らにとっては意志を通わせる人の娘は姫だ。しかも我らの心の喜びを育む歌声は稀なる存在。我らの命をもって守るべき至宝よ』
「もう……! そーんなこと言ったって何にも出ませんよー!」
『歌さえ聴ければばそれで構わんさ。皆の心も同じよ』
そんな二人のやりとりを周りの植物たちも楽しんでいる。
それは空気感でわかった。
裏庭全体を埋め尽くす不思議な空気感だ。
静かであるのに楽しげで、穏やかなのにどこか浮き足立つ、そんな空気感。
レジナルドは初めて感じるそんな雰囲気に心地よく身を委ね、今までになく穏やかな高揚感を感じていた。
「……ねぇ、君さ……一週間くらい前にも東の森の……池の近くで歌ってなかった?」
何曲か歌ってちょっと疲れて椅子に座ったライアに水が入ったグラスを差し出しながらレジナルドが声をかける。
「え……一週間前?」
ライアがグラスを受け取りながら視線をちらりとそちらに向けた。
「うん……僕さ、木の上にいたんだけど……歌声が聞こえたんだよね。でさ、僕がいた木の枝が……新芽を出してた」
「げ……」
なんだか身に覚えがありすぎてライアが固まる。
それを見たレジナルドはぷっと吹き出した。
「……っく! あれ、やっぱり君か! 最初は夢でも見てるのかと思ったんだよね。どうせ昼間に一人でいる時くらいしか眠れないんだし白昼夢ってやつかな、とかさ」
うくくくっ、とテーブルについた手で頭を抱えるようにして笑うレジナルドはなんだかとても楽しそうだ。
……あ。酒が今頃回ってきたんだろうか。
固まりついでにちょっと頭が冷えてしまったライアが半眼で眺める。
「次に見かけた時は全然違う格好してたから別人かと思ったんだよね。最初はさ……森の女神かと思ったんだ」
頭を抱えこむように笑ったあと、そのままの姿勢で呟くような最後の言葉はやけに小さかった。
「め……っ?」
聞こえちゃったけど。
何言った? この白ウサギは。ウサギさんだけにやっぱり童話の中の住人かな。
「ああ、ほら、知らない? 神話でさ、森の乙女とも呼ばれる女神が森に息吹を吹き込むってやつ」
「あー……うん、知ってる、かな」
水の入ったグラスをテーブルに置いてライアが相槌を打つ。
あれよね。
その昔、乙女の歌の力で樹木を集めてできたのが東の森、っていう神話。
人の記憶を集めて記録して、争う心を沈めたとかいう……まぁ、子供に読み聞かせる絵本によくあるお話。
「あれが真っ先に思い浮かんでさ。気になってたんだ。最初見かけた時は、ちらっと見ただけだったからまさかあんな所で歌ってたとは思わなかったけど、次に見かけた時と同じ声だったし……女神って時と場合によっては姿を変えたりするのかなって思ってさ」
「そう……残念だったわね、正体が私なんかで」
確かあのお話ってなんか子供心を惹きつける要素があったよね……森の中で女神と巡り合うと願い事を叶えてもらえる……とかじゃなかったっけ。
……あれ?
「あのー……つかぬことをうかがうんだけど……森でしてた探し物って……」
ライアがふとレジナルドの方に向き直って顔を覗き込む。
確かこの人、木の上で何か探してるとか言ってたんじゃなかったっけ。
「ああ、そうそれ。……女神?」
抱え込んでいた頭をそっと上げて上目遣いでライアの方を見上げながらそっと指さされた。
「……ご愁傷さま。私はなんの願い事も叶えられないからね」
にやりと笑みを浮かべてしまうが……ちょっと気の毒に、思わなくもない。
白ウサギ君は見事に当てが外れた訳だ。
てゆーか何か願い事でもあったんだろうか。
……ああ、いかん。深入りは禁物。
「いいんだもう。ちょっと叶ったようなもんだから」
「……はい?」
緩く微笑んだレジナルドがテーブルに頬杖をついてくたっと体をテーブルにもたれさせるようにしながら答える。
「ライアの薬茶のおかげでだいぶ体が楽になったし」
「え……ああ、そういうこと……」
ずいぶん年寄り臭い願い事だな。不眠症を解決したかったということだろうか。
そう思いながらライアが眉間にシワを寄せる。
「こんな凄い特技のある……友達ができるとは思わなかったし」
くすりと笑われた。
……ん?
「だれが友達よ」
「だって一緒に飲んでるし」
「いや、押しかけてきただけでしょ」
「秘密も共有してるし」
「……バラしたらただじゃおかない」
「じゃ、友達ね」
ライアのツッコミはことごとく突っぱねられる。
……意味がわからない。
だいたい、こういう人智を超える能力って怖いもんじゃないだろうか。
ああ、そうか……今のところお酒が入ってるからかな。
きっと酒の勢いってやつだ。うん。
憮然と目の前の葡萄酒の瓶を手に取ってグラスに注ぐライアに。
「ねぇ、また歌ってよ」
にっこりと、全く悪びれない笑顔で催促される。
「うん。もうちょっと休んでからね」
……今夜は歌い明かすかな。
なんて思いながら庭の植物たちの方に目を向ける。
うん、夕方より花の数が格段に増えたね。なんなら新芽もずいぶん伸びて茂ってきてる。明日は少し刈り込みをしたほうがいいかもしれないな。花がたくさん咲いたなら精油も作れるかもしれない。
「じゃなくて、また二人の時にでも、って意味」
明日の計画を頭の中で立てながら葡萄酒のグラスを傾けるライアに笑顔のままのレジナルドが付け加えた。
「は?」
「植物たちのために歌ってるライアも素敵だけど、その声すごく綺麗だからさ。僕にも歌って欲しいな、と」
「……酔ってるでしょ」
一瞬どきりと胸が高鳴ったが……お酒の力ということに気付いてライアが目を眇めた。
「いや。僕、そう簡単に酔わないから」
意外にもハッキリと言い放つレジナルドに。
「……歌わないわよ」
「なんで?」
なんだか変な方向に話が行きそうな気がしてライアの声のトーンが変わった。
理由を聞かれてつい視線を逸らしてしまう。
「……あのね。見てわかるでしょ。私の歌には力があるの。……そう簡単に歌えない」
ライアの視線の先には咲き誇り、新芽を茂らせる植物たち。
ほんの数刻で起こった変化に気付かないとは言わせない。
「でも……じゃあ、家の中とかなら」
「外に聞こえたら同じだもの」
家の中で歌っていても窓の外の花壇の花がぽんぽん咲いたことがあった。
「凄いな……でも植物が元気になるっていうのは別に悪いことじゃないだろ」
一旦目を丸くしたレジナルドがさらに食い下がる。
「……歌は駄目よ、特に歌詞があるとね。言葉には感情が上乗せされやすいの。その心にみんな同調しちゃうから……セーブするのが難しいのよ」
あとは主に声量。どこまで聞こえているか分からないというのは怖い。
だから大抵はハミングする程度にしか歌わない。それも聴覚が戻っている時限定だ。
今夜や昨夜のようにちゃんと歌うともう「宴」になってしまう。
昨夜も池のほとりには花が咲き狂った。帰り際に季節外れの花まで咲き誇っていてちょっと肩身が狭かったが……まぁ、そんなに人目につく場所ではないのでそのまま放置して帰ってきたのだ。
「そ……っか……案外大変なんだね……」
ライアの説明に納得できたのかレジナルドが苦笑した。
「……なんかね、こんなに気持ちが落ち着くのって多分初めてなんだ」
頬杖をつきながらレジナルドがポツリと呟いた。
目の前のライアではなく庭に茂る植物たちに視線を向けたまま。
ライアの方は飲んでいる葡萄酒のせいか少しぼんやりしたまま特に聞き返すでもなく、先を促すでもなく、遮るでもなく。
「うちさ。ちょっと家業が忙しくて僕は子供の頃からほったらかしにされる、よくある家庭だったんだよね。しかも祖父が結構厳しくて使用人にも厳しいから家の中の人間がころころ変わる家でさ。そんな感じだったから家の中で笑うとか喋るとか……ましてや歌なんかまずあり得ない環境だったよ」
ああ、それは……子供には結構厳しい環境だろうな、とライアは思う。
……別に同情する訳じゃないけどね。
「ほら、こないだちょっと話したけど、パンケーキを作ってくれた使用人ね。僕が祖父のいる食卓では食欲が出ないのを見てお腹をすかせた僕のために作ってくれてたんだけど……僕がやけに懐いちゃったから辞めさせられたんだ。……使用人と仲良くするなんて言語道断、ってね」
「そう、だったの……」
レジナルドの話し方には悲壮感は全くなく、よくある話だけどね、みたいなノリだ。なのでライアも深刻になるでもなく葡萄酒を口に運びながら相槌を打つ。
「僕が屋敷で一人でいることが多かったからさ、結構どの使用人も僕にはよくしてくれるんだけど……そうなるとみんな辞めさせられるんだよね。子供の教育に悪いとかなんとか言われて」
うーん。まぁ、人さまの価値観をとやかく言う気はないけどね。
誰と仲良くしようとその人の自由よねぇ。毎日のこととなるとちょっと大変だったんじゃないかな……。
「で、そのうち母が塞ぎ込むようになって自殺した」
「……え」
「祖父の徹底したこだわりってちょっと異常だったんだと思う。使用人と母が楽しそうに話をしているってだけで身分不相応って言って処分対象だったみたいでね」
ああもう、本当に徹底していたんだね。さっき家の中で笑うことすら許されないって言ってたもんね。
ライアがもう一口葡萄酒を口に含みながら「うーん」と小さく唸る。
「それって……あなたのお父様はどうしてたの? それとか……あなた、兄弟は?」
家族の他の人たちもそのお祖父さんに従わざるを得なかったということだろうか。
なんて思いながらつい口を挟んでしまった。
「いないよ。父親は僕が産まれてすぐ出て行った。家業は祖父が今でも現役。母が祖父の一人娘だったからね。で、兄弟もいないから祖父は僕に家業を継がせることにしか興味がないんだ」
……なんか複雑な家庭っぽい。
それがライアの率直な感想。
そして……出来ることなら深入りしたくないなというのは……直感的な感想。
「でもさ僕、家業に興味なくて。それに祖父にも興味ないし。成人するまでは家業を継がせることしか頭に無かったみたいで物凄く押し付けがましい奴だったけどね、そのあと僕が期待をことごとく裏切ってやって今は目下諦めさせてる真っ最中。お陰で今のところ……僕の存在そのものも、見て見ぬふりの膠着状態」
「……不良息子」
ライアがぼそっと呟くとレジナルドが視線だけをライアに向けてその目を細めた。
「うん。思いっきり遊んでやったね。家業のための勉強は辞めてやったし、自分名義の金は遊びに使うし」
「……あ、ちょっと……今日のお金!」
思わずライアが声を上げる。
結構な額のお金をさっきもらったけど……この話の流れだと、あれはもらっちゃいけないお金じゃないだろうか。と思えて。
「ああ、気にしないで。うち結構お金あるんだ。多分僕は働かなくても一生食べていくのに困らない程度にはね。本当は祖父への当て付けに全部使って遊んじゃおうかと思ったんだけど、多すぎて使えないくらいなんだよ」
くすくすと笑うレジナルドは……これ、絶対笑ってないよね。っていう笑い方。瞳は細められているけれど温度がなくて……見ているだけで胸が痛む。
……酒のせいだろうか。
「……あのさ、レジナルドって今何歳?」
何年くらい遊び暮らしたんだろうか、という興味本位の疑問だった。
「……二十五」
「ふーん」
……男の子は十八で成人するから七年遊び暮らしたということかな……おおぅ、筋金入りじゃん。
そんなことを考えながら軽く驚愕していると。
「ライアは何歳?」
「んー……三十一」
「え?」
聞かれるままに答えたところで思いっきり聞き返されて自分が何を答えたかに気づいた。
あ。ちょっと! 女子にそんな簡単に歳を聞くとかってどうなの! うっかりぽろっと答えちゃったじゃない!
「うそ。せいぜい二十七とか八とかその辺だと思った……」
「フォローになってない!」
「いや、マジで!」
酒の勢いというものだろうか。
その後の会話は噛み合ってるんだかないんだか。
レジナルドの方も言いたいことを言ってさっぱりしたのかちょっと機嫌が良く、ライアは庭の木々にせがまれてその後五曲ほど歌って夜明け前にどうにかお開きとなった。




