その後のゼアドル家の人々
「なるほど……で、その女の子の名前は?」
東屋に移ってからライアはここに来た理由を話した。
話を黙って聞いていたヘレンは最後に軽く身を乗り出す。ので。
「あ……えっと……パトリシアさんといったと思います……家名は……なんだったっけ……?」
うわ。しまった。人の名前を覚えるの苦手とはいえここは覚えてなきゃいけないところだった!
とばかりにライアが慌てる、と。
「パトリシア……んー、どっかで聞いた名前ねぇ……」
ヘレンが右手の人差し指で顎をなぞりながら視線を宙に上げて考え込む仕草。
「テスラート家の末っ子がそんな名前じゃなかったかしらねぇ……年齢的にもそのくらいだと思うけど……」
「あ! 多分、そんな名前だった……と、思います」
ヘレンの呟きにライアが反応すると。
「ふうん……なるほど。そういうことね……」
ヘレンの目がすっと細められる。
……あれ?
ライアがそのヘレンの表情の変化に目を眇めると。
「ああ、ごめんなさいね。……んー、あなたを私たちの仕事事情なんかに巻き込むのはどうかと思うけど……まぁ、情報を流すだけなら良いかな」
ヘレンの小さく首を傾げる仕草は可愛らしいが、その視線はちょっと鋭さを持っている。
ライアは思わずこくりと喉を鳴らしてしまった。
と、ヘレンがくすりと笑って。
「あ、そんなにかしこまらなくて良いのよ。あなたを巻き込むっていうのは言葉のあや。内情を知っていた方があなたにとっても動きやすいと思うから教えておくわね」
そんな前置きをしてヘレンが話すことによれば。
テスラート家というのは割と大きな商売をしている家であるらしいのだが、そのやり方があまりよろしくなくてグランホスタやゼアドルの家ではあまり表立って関わらないようにしているような商家なのだそう。
それでも何代か前からの付き合いでグランホスタ商会の傘下で商売をしている家なのだそうだが最近ゼアドル家にも出入りするようになっているらしくて。
どうやらテスラート家の現当主はグランホスタ商会を介して得た利益をゼアドル家に流すという条件でさらに商売の手を広げたいと言ってきているのだとか。
そういう行為自体の良し悪し以前に、テスラート家の元々の商売のやり方の評判が悪いので、ゼアドル家の影の当主とも言われているヘレンとしてはその申し出を断る気満々なのだが、何しろ。
「私、こっちに戻ってきちゃったでしょ? 一応夫の顔を立ててあげようなんて思って仕事の権利を放棄しちゃってるからあの人に決定権があるのよねー……しかも」
腕を組んで、うーん、と唸りながら。
「間の悪いことに今、リアムに仕事を引き継ごうとなんかしてるから……これって多分あの子の最初の大仕事になるんじゃないかしらねぇ……」
「……え……それって……」
ライアの方は頭がついていかなくなっている。
えーと、別に商会の仕事に関わる気なんかないから、テスラート家がどことくっつこうと全く構わないんだけど。
……うん? 構った方がいいっていうことなんだろうか?
「ふふ。意味が分からないって顔してるわねぇ」
ヘレンがゆったりと微笑んで。
「あのね、もしテスラート家にレジナルドが婿入りでもして仕事をするようになったらあの家にとっては大儲けのチャンスって意味よ」
「……え? はい? 婿入り……?」
ライアが目を瞬くとヘレンが笑いを噛み殺すような微妙な顔になった。
「そうそう、そういうこと。レジナルドって、グランホスタ商会の影の実力者だったんだけどね、それだけの凄腕の人材が今、フリーになってるわけでしょ? そんな彼を取り込んだらテスラート家は成功間違いなしだし、そんな利益が見込めるなら多分うちの男どもは首を縦に振るでしょうね。……ちなみにリアムはレジナルドのことをよく思ってないだろうから自分の下に置けるっていうのは……喜んじゃいそうよ……?」
「えええ!」
ライアは次の句を失った。
いやでも。
そんな事、レジナルドがするだろうか。
レジナルドにとっての利益が……あれ? ある、のかな?
はた、と。
ライアの思考の焦点が合う。
そうだ。
レジナルドにとってグランホスタ家は形ばかりの生家で愛着も何もない。むしろ抱く感情は良いものではないはず。
で、そこと縁を切って、さらにその家に復讐なんかできるとしたら……それは彼にとって「いい話」かもしれない。
どこまでのめり込むつもりかは分からないけれど、少なくとも一矢報いるくらいのことはできてしまう。
でも。
その後のことなんか考えているだろうか。
ヘレンは「婿養子」と言った。
つまりあのパトリシアという子と結婚するということだ。もちろんこの際、恋愛とかは一旦置いといて。もし復讐のためにその立場を利用するということならばそれは都合のいい話なのかもしれない。
だってリアムがそうだった。
立場と利益のために恋愛とかは度外視して私を妻にするつもりだったのだ。そして本当に好きな人は愛人としてそばに置くとかいうことも平然と考えていた。
彼はそこまで考えているだろうか。
さらには、その後リアムの下で働くも同然ということもちゃんと考えているだろうか。
そういうところが若さゆえの浅はかさ、だったりして。
……いやもしかしたら、適当に復讐した後テスラート家から出るとかいう計画かもしれないけど……そんなの、そう簡単にうまくいくとは思えない。
グランホスタ家とゼアドル家の両家と好ましくない関わり方をするというのは……絶対に良くないと思う!
「……止めなくちゃ」
ライアの手が膝の上でぎゅっと握られる。
「テスラート家に乗り込む?」
ヘレンがライアの言葉に合わせるように僅かに身を乗り出した。
「場所、教えていただけますか?」
「なんならうちの馬車で送るわよ。それに私が一緒に行った方が話がつけやすいかもしれないわ。ああ、それと……ああいう家に乗り込むなら着替えた方がいいわよ。それじゃ門前払いになっちゃう」
顔を上げたライアにヘレンは値踏みするような視線を向けている。
そういえばライアは普段着、つまり店でいつも着ている作業着を兼ねた格好のままだ。
これではお屋敷に来た御用聞きに見えるかもしれない。
ライアが以前使っていた部屋はまだそのままだったのでそこで簡単に身支度を整える。
「またお目にかかれて良かったです!」
嬉しそうにライアの髪を梳くのはカエデ。
「そんなに凝った髪型にする必要はないから自分でできるのに……カエデにも仕事があるでしょうに」
ライアが鏡越しに恐縮してしまうのはもう仕方ない。
カエデはライアが出て行ってから入れ替わりで来たヘレン付きの侍女になったとのことで、ヘレンに呼びつけられて楽しそうにライアの世話を焼いているのだ。
「大丈夫です! 奥様からの指令ですからね!」
軽くハーフアップにすれば済むだけだったのにそこに簡単なアレンジを加えられてちょっと華やかな雰囲気に仕上がっていく自分を鏡の中に見るのはなんだか照れくさくてつい視線を作業しているカエデの方に向けてしまう。
「……でもカエデがクビにならなくて良かった」
ライアがついこぼしてしまうのは、以前コキアという侍女がやらかした事件をどうしても思い出してしまうからだ。
そんな言葉に一瞬手が止まったカエデが小さくため息をついた。
「もう……ライア様はそんなこと気になさらなくていいんですよ。と、言いますか……」
変に言葉を濁されてライアがカエデの顔を鏡越しに凝視すると。
「……? え、何? どうしたの?」
ライアには意味が分からないのだが、カエデの表情はどことなく不自然。言ってみれば笑いを堪えているというか……。
「いえ……それが、ですね。一応私もお役御免は覚悟しておりましたのでライア様が出ていかれた後それっぽい挨拶をしたんですけど……ゼアドル家は使用人一人満足に雇えないような家じゃないって笑い飛ばされまして。しかも、なんだか私、仕事を評価していただいていたみたいで奥様がすぐに気に入ってくださったんです」
そう話すカエデは朗らかでとても嬉しそうだ。
「わ! そうだったのね、良かった!」
嬉しい報告にライアもつい声のトーンが上がる。
それにしても、さっきの表情はちょっと意味深だったな、なんてライアが思っていると。
「いえ、それが、ですね……」
カエデの表情が一旦改まって悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「?」と返すライアに向かって鏡の中で目くばせをするような視線を向けてから。
「奥様って本当に見る目がおありで。あのコキアの悪い癖を片っ端から本人に指摘するから結構清々しかったんです。それで、ですね……コキア、最終的に怒ってここを辞めちゃったんですよ」
「はいっ?」
ライアはつい目を丸くする。
あの子を矯正できるとはなんて心強い。……そうか仕事でいろんな人を見ているとそういう能力にも長けてくるのかもしれない。なんて変に納得したところだったけど、コキアの方が怒って辞めちゃった?
「凄かったですよー……『自分はこういうお屋敷のご主人様たちに気に入られて出世していくはずの人間なのになんなのあの出戻り奥様は!』とか大騒ぎして。最終的にものすごい剣幕で旦那様の所に直談判しに行って、他所で働くための紹介状を書かせてすっぱりいなくなりました」
「……そんな状態でよく紹介状なんか書いてもらえたわね……」
呆然としたライアにカエデも遠い目をしながら。
「そりゃもう、大変な騒ぎようでしたもの。旦那様の部屋に数日泣きながら入り浸って自分がいかに傷ついたかを訴えてましたからね。……旦那様も手がつけられなかったんだと思いますよ」
そんなこんなで近況報告を聞いている間にライアの支度はすっかり整った。
白いブラウスは胸元にリボンが結ばれるデザインでスカートと同色のジャケットは品の良いラベンダー色だ。少々改まった印象の服装なのでこれなら相手に失礼はないだろう。
髪に結んだ細いリボンはブルーグレーで落ち着いた品の良さがある。
支度ができて外に出るとそこで待っているのはヘレンともう一人。
「ライアさん!」
「わ、エリーゼさん……」
いきなり抱きつかれてライアの方が面食らった。
「ああ良かった! もう会えないんじゃないかって思っていたの!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら耳元の声が微かに震えているのに気づいてライアがそっとその背中を撫でる。
ライアとしては自分をこんな風に迎え入れてくれるとは思っていなかったので言葉に詰まった。
そもそも、この屋敷の人たちはライアの力を目の当たりにした人ばかりのはずなのだ。
庭がとんでもない有様になったのを見て、それでもこんな風に自分に触れてくれる人がいるとは思っていなかった。
せいぜいが、事情を知っているディラン。彼くらいなら以前と変わらずにいてくれるかもしれないと心のどこかで思ってはいたが、彼だって自分がその能力を色濃く受け継いでいるわけではないのだから頭で理解しても生理的に受け付けない、というような反応もおかしくないくらいだった。
なのに、この人たちは、こんなにも温かい。
ヘレンも、カエデも、エリーゼも。
自分に注がれる視線が柔らかく、温かく、どこにも非難めいたものや恐怖心のかけらもないことに驚かされるのだ。
「ね! ライアさん、庭の様子が変わったのってもう見た?」
ひとしきりぎゅうぎゅうと締め上げた腕を緩めてその体を離したエリーゼがライアの目を覗き込む。
「え……あ……庭?」
今しがた月夜の晩の変貌した庭が脳裏をよぎったのでライアの体が一瞬こわばった。
「ふふ。エリーゼ、今私と一緒に外で話をしていたのよ。もうほとんど見てもらったようなものだわ」
微笑みを浮かべながらヘレンが口を挟むと。
「えー! そうだったの? ずるいわおばさま。私が案内したかったのに!」
エリーゼがぷっと可愛らしく膨れてみせる。
それはまるでお茶をしに来た友達を迎えてもてなそうとしているお嬢様そのものだ。
「……あ、あの……」
あの日の変貌を知らないわけではないだろうと思うからライアの方からおずおずと声をかけてしまうのだが、まるでその様子を気にする様子もなくエリーゼが僅かに目尻の上がった榛の瞳をこちらに向ける、ので。
「私、庭をあんなことにしてしまって……本当にごめんなさい……」
ディランは庭を再建できて良かった、みたいなことを言ってはいたが……これはそういう結果論を引き出すための言葉ではない。
あの庭の変わり様を見たのよね? 私がとんでもない力を持っていることを知っているんだよね? という確認だ。
「あらやだ! そんな事!」
なのにエリーゼは動じる様子はなく目を見開いてヘレンの方に意味ありげな視線を送った。
「ちょっと、おばさま! ライアさんに庭が以前のように素敵に戻せて良かったって話、してないんですか?」
「あら、ごめんなさい。てっきりもう植物たちの様子を見て理解してると思ったものだからきちんとお礼は言ってなかったわね」
慌てるようにヘレンがライアの肩に手を置いてライアの顔を覗き込む。
ので。
「あ……えーと……いえ、そういう事じゃなくて……あんなことにしてしまったから……あの……私のこと気持ち悪く、ない?」
ライアの言葉はもはや辿々しくなる一方だ。
と。
「は……? やだ、もう! 何言ってんの! そんなことあるわけないじゃない!」
エリーゼが素っ頓狂な声を上げた。そして。
「そりゃ、あんなの見たらびっくりしないわけないけれど。でもおばさまとディランに緑の歌い手の話を聞いたの。素敵じゃない。植物と話ができるんでしょう? 私、そんな友達がいて誇らしいったらないわ。……あ、でもこういう力って秘密だったりするのよねきっと。私、秘密を守るの得意だから安心してね」
「エリーゼ様のそれは、おとぎ話の読みすぎです」
真顔でライアに迫ってくるエリーゼの後ろから半ばあきれた様子のカエデがここぞとばかりに口を挟んでくる。
「さあさあ、そろそろ行きますよ。エリーゼ、ライアさんを解放してあげて。今度またゆっくりお茶でもすればいいでしょう?」
ヘレンが介入してエリーゼもようやくライアとの距離を改めた。
そしてライアの方も、本来の目的を思い出す。
ああ何だか。
この人たちの醸し出す空気の心地よさに酔ってしまいそうだ。
こんな雰囲気に慣れてしまっては、この後やろうとしている事が疎かになってしまいそう。
そう思ってライアも表情を改める。
「ライアさん、これをつけるのはどうかしら」
ライアの表情の変化に気づいたのか、気遣わしげな口調でヘレンが手にしていたものをライアの方に差し出す。
彼女の手にあったのは小さなラベンダーのブーケだ。
季節外れではあるが、庭師の腕とこの辺りの気候を考えたらここの庭でならまだ咲いているのだろう。
小さな束は生花を服に留めつける専用の小瓶に入っている。硝子の小さな瓶には少しだけ水が入っており、植物が長持ちするように出来ている。瓶の硝子細工が美しくそれだけでも身に付ける装飾品として魅力的。瓶の口の部分はとても小さいのでピッタリ収まるように花を挿せば水はこぼれず、裏側についたピンで服に留めつけられるようになっているものだ。その瓶の口にはライアの髪に結んだのと同じブルーグレーの細いリボンが結んであってなかなか品よく纏まっている。
ライアの目がパッと輝くのを確認するように眺めた後、ヘレンがそれをライアのジャケットの襟に留めつけた。
途端に香る花の香りにライアの心がホッと緩む。
「ええ? 凄いわね。つけた途端こんなに香るなんて」
ヘレンが楽しそうに目を細め、それを聞いたエリーゼが興味津々と言った風にこちらに顔を近づけてくるのをカエデがたしなめた。




