ダリアとヘレン
「追いかける……って……」
家に帰ってきたライアが独り言を漏らす。
シズカにそんな言葉を告げられて、挙動不審になっているライアは帰宅しても家の中を無意味にうろうろしている。
だって。
そんなことして大丈夫なのだろうか。
彼が何かやろうとしていて、それに私が邪魔だろうから身をひいた、くらいの認識だったけど……追いかけたりしたら状況を悪くしてしまうのではないだろうか。
大人しくここで待っていた方がいいのではないだろうか。
……あ。待っている……って。
別に待っていて欲しいと言われたわけではない。
そういえば、前にゼアドル家の庭で彼と別れた時は、彼はこれから自分がしようとすることについて「信じていて欲しい」と念を押してくれた。
あの時は意味がわかっていなかったけれど、彼はそういう人だった。
で、この度は何も言わずに出て行った。
ということは……やっぱり、怒っているのかもしれない。
そうか……怒らせてしまったのなら……謝らなければいけない……よね。
たとえ悪気がなかったとしても、相手を傷つけたということが事実なら謝るのが道理だ。
そう思えば、追いかけなきゃいけないような……追いかけて行ってもいいような気が、する。
「よし……」
ぐっと拳を握って決意を固めたライアが次の瞬間、はたと。
「あ、れ……? 追いかけるって……どこにいけばいいんだろ……」
……はぁ……結局来ちゃったよ……。
見慣れてしまった門の前でライアが深呼吸を繰り返す。
……これ以上すると過呼吸にでもなるのではないかというほどだ。
ゼアドル家の門。
なにしろ、レジナルドの居場所がわからない。
最初はグランホスタ家に行ってみようかと思った。で、ふと。
もしそこにいなかった場合、あのお祖父さんに会わなきゃいけない事を考えると気まずくないか?
と背筋が寒くなった。そもそもあのお祖父さんとレジナルドが縁を切ったということを知っている身としてはレジナルドのことを尋ねに行くというのは思いっきりはばかられるし、なんなら新しい後継者となった人に至っては会ったこともない。
で、思い出したのはパトリシアという女の子。
あの子か、もしくはあの話の流れだとあの子の父親に会いに行った可能性が高いのではないかと思い至った。
で、彼女の家なんか知らないことを考えると、少なくとも同業者であるゼアドル家に行けば何か分かるのではないかと思ったのだ。
そして、しばらくそこに滞在していた身。
家の人たちとは使用人を含めて面識がある。
……もちろん当主やリアムとは気まずい間柄ではあるが、それでもまだグランホスタ家に行くよりは敷居が低い。
「……おや、ライア様?」
こういう時に都合がいいのはもう植物の力の恩恵によるのだろう。
しばらくうろうろしているとディランの声がしてライアが顔を上げた。
植物のあふれる庭に面した門の前にいたことで植物たちがディランを呼んでくれたようなものだ。
作業着姿のディランが顔を綻ばせながら近づいてきてくれたのでライアはほっとしながら肩の力を抜いた。
「あの……その後、皆様お元気ですか?」
つい当たり障りのない挨拶が出る。
と、ディランがくしゃりと笑顔を作って。
「ええ。ライア様がここを出られてからエリーゼ様が随分頑張ってリアム様を丸め込んで……いや、ええと……リアム様もだいぶ丸くなられましてね。ああ、それと奥様もお戻りになられましたので屋敷が賑やかになりましたよ」
途中で不穏な発言があったような気がしたのはさりげなくスルーしながらライアは相槌を打つ。
そうか、リアムの母親は帰ってきたのか。
……それなら。
「あの……奥様に会うことってできるかしら?」
意を決して尋ねてみる。
ディランは一瞬目を丸くしたが「ええ勿論。取り継ぎますよ」と答えてライアを中に入るように促す。
まさか自分がここの当主やリアムに会いにきたとは思っていないだろう。
その辺の察しはいいようで、ディランがライアを案内したのは屋敷の玄関ではなく庭の一角にある東屋だった。
「ここならリアム様は来ないので安心ですよ。少し待っていてください。奥様をお呼びしますね」
そう言って立ち去ろうとするディランに。
「あのっ……!」
ライアはつい声をかけた。
肩越しに振り返るディランはなぜ呼び止められたか全くわかっていないようだが。
「……あの……庭をめちゃめちゃにしてしまってごめんなさい。あの後……大変だったでしょう?」
これでもずっと頭の片隅にはあったのだ。
この屋敷を出る直前の庭のありさまは酷かった。
そして今庭に通されて、その光景がまざまざと浮かびそうになって言葉を失ったのだ。
全てが美しく、元通りになっている。
いや、元通り以上の美しさだった。
ほんのひと月程度でここまでとは信じられないくらいの完成度。
それを見ると、ディランがいかに苦労したかが想像できて言葉を失った。
「ああ、いや。良いんですよ。……ライア様、もしかしてずっと気にしておられましたか?」
一度立ち去りかけたディランがもう一度ライアの方に歩み寄って人懐っこい笑みを浮かべた。
「そりゃ、あんなことしちゃったら……申し訳ないし……気にもするけど……」
あまりに彼の笑顔にかげりがないのでライアの口調が辿々しくなる。
と。
「ははは……っ」
ディランが声を上げて笑い出した。
何事かと目を丸くするライアに。
「いやいや、ライア様が気にされる必要なんて全くないんです。お陰で庭を新しくすることができましたから!」
朗らかに笑うディランは至って上機嫌だ。
「え……? お陰で……って……?」
ライアはただただ目を丸くするしかない。
「ああ、そうですね、ライア様はご存じないですよね」
楽しそうな笑いを少しだけ引っ込めたディランがコホン、と小さく咳払いをして。
「この庭は本来、奥様のための庭だったんですよ。その奥様がここを出ていかれたので旦那様が次々に手を加えるようになられて。まぁ、定期的にパーティーだの茶会だのを商談を兼ねてあちこちでするもんだからその都合に合わせるよりなくてね。でも、奥様は本来庭を静かに一人で楽しむのがお好きな方でしたからね」
そう言ってくるりと辺りを見渡すディランにつられてライアも周りをあらためて眺める。
なるほど。
そう言われればライアが以前この屋敷にいた時と庭の造りが違う。
以前はテーマごとに区切られたようなスペースと、パーティー会場になりそうな広いスペースで出来ていた庭が、もっと自然な形で一つの空間になっている。
それに、ライアがいる東屋はその端に位置していて広い庭の中でも屋敷からは死角という完全なプライベートスペースだ。
空間の造り方がとてもうまい。
「こんな庭を奥様が望んでいらしたのにそれを実現できないことの方がわたしには苦痛でしたから。むしろ喜んでいるんですよ。……ああ、良かったらその辺の花でも見ながらお待ちになっていてください。奥様もお喜びになりますよ」
そう言うとディランは改めてライアに軽くを頭を下げてから屋敷の方に向かう。
「そう……なの……」
ふわりと風が吹いて、近くのハーブの香りが届く。
東屋の周りには高低差をつけて美しく花壇が作られており、花壇に入っていないハーブは自然な姿で東屋の周りに茂っている。
こんな所でなら読書も昼寝もお茶も、きっとゆっくり楽しめるだろう。
言われた通り、ライアは周りを少し見て回ることにした。
とはいってもあまり東家から離れると屋敷から見えてしまうのでそこは慎重に。
「あ、でも……」
ふうん、なるほど。
ライアは小さく頷く。
東屋に座って楽しめる景色の範囲内にある花壇は近づいても屋敷からはちゃんと死角になっている。
本当に造り方がうまい。
なので、端から順番に植えられている植物を眺めながら歩く。
季節的にもう植物の最盛期は過ぎているとはいえ随分と手入れがいい。苗は瑞々しくどの株も元気そうだ。
と。
「あ……ダリア……」
ライアの目に留まったのはいつかの青いダリア。
切り戻された小さな株の状態で花壇の主役のような位置に植えられているが、よく見るとまだ蕾がある。花の時期はもう終わりだろうが、おそらく世話が良くて最後の花をつけたといったところだろうか。
あれだけ手塩にかけていた株に花がついたとなれば来年もきっと良い主役になるのだろう。
そう思うとついライアも笑みを浮かべてしまう。
「そういえばそのダリアが咲くのに立ち会ったんですってね、ライアさん」
不意に近くで声がしてライアがびくりと肩を震わせた。
「ああ! ごめんなさい。脅かすつもりはなかったんだけど……あ、いや違うか。あんまり一生懸命見ているからつい脅かしたくなって忍び寄ってしまったわ!」
振り返るとヘレンが楽しそうな笑顔でこちらを眺めている。
綺麗な金髪を結い上げて装飾の控えめな服を着た屋敷の女主人は、こんな晴れた日に見るとやはり美しい。濃い青の瞳は悪戯っぽく細められてその表情は美しいというよりむしろ可愛らしい。
「すみません! 急にお邪魔してしまって!」
相手がこちらに好意を持っていそうなのはその表情で分かるとはいえ立場上、ライアが改まって頭を下げる。
「良いのよ。本当はそろそろこちらから挨拶に伺おうと思っていたの。でも……あんなことがあった後だし、あなたが私たちの顔なんか見たくないと思ってるんじゃないかと思って、ちょっと気が引けていたのよ」
そう言うとヘレンは可愛らしく舌を出して見せるのでライアが目を丸くする。
こんなに気さくに話をする人だったら、もっと早く知り合っておきたかった。
自分がこの屋敷に今日来た理由をすっかり忘れて見入ってしまう表情だ。
こんな人がいれば、きっとエリーゼはここで楽しくやっていけるだろう。
こんな人が母親としてそばにいれば、きっとリアムはもっとまともになるだろう。
なんの根拠もなく、漠然とそう思ってしまう。
「その花。珍しい色だって知ってた?」
ライアの沈黙をどう取ったのか、ヘレンがそっとライアの隣まで歩み寄ってきて花壇の前にしゃがみ込む。
視線の先にはダリア。
「……ええ。青い色って花としても珍しいですよね」
青い花がないわけではないが、青い色素を持たない花は多い。
だから「青」というのは「珍しい」という意味でも使われる言葉でもあるのだ。「青藍の月」のように。
ライアの答えに満足したようにうっとりと目を細めながらヘレンが頷く。
「この花の苗はね。ディランが私にプレゼントしてくれたものなの。私の目と同じ色の花が咲くって言って」
「……え……」
そう、なのか。
ライアは一瞬言葉に詰まった。
いや、確かに、彼女の瞳は濃いブルーだ。でもダリアの花の青はそういう種類の青ではない。色としてはもっと濃いし、瞳の色のような透明感はない。
彼女の瞳と同じような色の花なら他にもっと適切な花がありそうなものなのに、とも思える。
あ……でも、希少価値がある花というところが良いのかな? でもそれなら青い薔薇でも良いような気がするけど……。
なんて変なツッコミが脳内で繰り広げられていると。
「彼ね、特定の色の識別ができないらしいのよ」
まるでため息のようにヘレンがポツリと言葉をこぼす。
「青い色が全部識別できないというわけでもないみたいなんだけど……特に青い花は同じような濃さの他の色と区別がつかないみたいで。でもね、私がここに嫁いで来て屋敷で孤立している時にこの花の苗を取り寄せて私のための居場所を作ってくれたの」
ライアはもう言葉を返すことができずに、目の前でしゃがんだままダリアの株の方に視線を向け続けるヘレンの背中を見つめるしかない。
そんなライアの方に一瞬顔を向けかけたヘレンもまた、視線を交わすことなく再び花壇の方に目を向けて息を吐くと。
「……屋敷の中で居場所がなくても私のための花があるって分かっている庭なら、毎日ここまで出てくる理由があるし、お陰で部屋に引きこもって病気になることもなくいられたのよね」
ああ、それで。
ライアは小さく頷いてみる。
彼女は「一人で庭を楽しむのが好きだった」とディランが言ったのはそういうことだったのか。と思い至って。
「それにね、ディランが『この株の花は青いらしいんですが、どんな青なのか私には分からないので奥様が見定めてください』なんて言うもんだから私もつい、花の時期には毎日庭に通ったものだったわ」
くすり、と笑みが漏れた。
「……ディランって優しいんですね」
ようやくライアの口から出たのはそんな言葉。
この屋敷に流れた時間の中に、居心地の悪い冷たい無機質な時間と暖かくて和やかな時間の両方があったことにその場しのぎの感想は言いたくなくて。
「そう。優しいのよ。……私のこと亡くした娘さんに重ねてくれてたらしくて」
「む、むすめっ……?」
ライアがつい声を上げてしまってから、こほんと咳払いをする。
いや、そんな素っ頓狂な返事をするつもりはなかったけど。
そうか……そうよね。そのくらいの歳の差はあるのかもしれない、な。
なんて気持ちを落ち着けてみて。
「そうよー? あらやだ。私のこといくつだと思ってるの? こう見えて若いんだから! ……って、あーディランも若く見えるのよね。彼はああ見えて結構歳いってるのよ?」
くすくすと笑うヘレンは今度こそライアの方を向き直って立ち上がりながらスカートの裾をパタパタと叩く。
「え……ああ、えっ……と……そうなんですね! あ、じゃなくてヘレンさんはお若いと……オモイマスヨ……」
「なんでカタコトよ」
ライアの咄嗟の返答にヘレンがぷっと片頬を膨らませる。
……そーゆーところです。そーゆーところが若いと思います。てゆーか、可愛いと思います。
ライアがドギマギしながら視線を逸らすと。
「うん、よし。なんかちょっと打ち解けたわね? で、今日は何か大切な用があったんじゃないの? あ、もちろん大切な用とかじゃなくてただ遊びに来てくれたって構わないんだけど!」
ヘレンがそう言いながら東屋の方に促すのでライアは「ああそうだ」と我に返った。




