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代償

 

 青藍の月夜。


 それはごく稀に、訪れる満月のこと。

 通常はひと月に一度の満月だが、ごくごく稀にひと月に二回満月になる夜が存在する。

 それを珍しい色に例えて「青藍の月」と呼ぶことがある。

 月に秘められた力がひと月のうちに二回も注がれるとなるとそういう力に敏感な植物たちは人知れずその力を蓄え……何かしらやらかすことがあるらしい。

 森のように古い樹木の多い場所にこういう時期に迷い込んだ人間がそんな現象を目撃して物語が生まれることもある。

 ライアはそんな話を聞いたことがあった。


『本来、緑の唄歌いとは我らと意志を通わせる代償に、感覚の一部を持たぬ者が多いものよ』


 昔を懐かしむような声がやんわりと響く。


『音を聞くことのない姫、お前も代償を払っているわけだが……光を見る事の出来ぬ者もおった。……皆一様に、植物を従わせる代償としてそれらを生まれながらに差し出した者たちでな』

 深いため息のような間があってライアは語られる言葉を頭の中で反芻する。


 自分の力について深く考えたことはない。

 そういうものだと思って受け入れてきた。

 ……あの庭師の話を聞くまでは。

 彼の話を聞いてこれは「能力」なのだと自覚した。

 でもまさか、その代償がこの聴覚だったとは……考えたことがなかった。

 では、ディランは。

 彼も何かの感覚を生まれながらにして失った人だったのだろうか。この話からすると、視覚か聴覚。

 自分のことを考えたら、全く聞こえないとか全く見えないとかいうわけではないのかも知れないけれど……そして彼はそこまではっきり植物の声を聞く者ではなかったような気がするから……日常生活に差し障りがあるほどのものではないのかも知れないけれど……。


 そして老木殿は「従える代償」と言った。

 私は、植物たちを従えるつもりなどなかったけれど……植物たちからしたら、私はそういう存在なのだろうか。

 そう思うと胸の奥がずきりと痛んだ。

 共に生きる者、という目線ではいてくれなかったということなのだろうか。


『姫よ……お前が心を痛めることはない。だから贈り物をしようというのだ』

 相変わらずどことなく愉しそうな声が響く。

「老木殿……でも、ごめんなさい。私……みんなを従えるつもりなんかないの……ただ……友達になって欲しかった……だけ……」

 言いかけながらふと気付く。


 いや、違う。

 数週間前に一度、やってしまったのではなかったか。

 彼らの意図も意思も全くかえりみずに自分の感情のままに歌って……彼らを暴走させた。

 あれを……「従える」というのではないだろうか。


『姫よ』

 相変わらず優しく柔らかい声はこの度は含み笑いのような音を失った。

『お前の心は手に取るようにわかる。……可愛いものよの。我らがお前の心を見失うわけがなかろうて。いつも我らに寄り添い、敬意を抱き、共に泣き、共に笑う姫を誰よりも我らがよく知っておる。だからこそ、我らがお前を解放せんとこの力を使うことにしたのだ』


「……?」

 言葉の意味がわからずライアが眉を顰める。


『お前は代償を払うべき者ではない。我らに愛された存在ということだ。……支払ってきたその代償をもう返してやろうという我らからのささやかな贈り物というわけなのだが……受け取ってもらえるかの?』


 代償を……返す。


 そんな言葉の意味を理解できないはずがない。疑う事もできない。

 この話の流れの中で。

 そしてここ数週間たしかに戻っている聴覚を自覚したところで。


 でも。

「代償」と、言ったのだ。

 つまりそれと引き換えに与えられていたものがある。

「代償」を返されてしまったらその先は……。


 そんなところにまで考えが達するのに時間はいらない。

 ライアはまずそれだけを思い描いた。


 聴覚が戻ってきたら、植物たちと心を通わせることができなくなる。

 代償を払わずしてこんな素敵な能力を自然界が与えるはずがない。

 これまで自分を支えてくれた小さな草花の微笑み。囁き。

 慰めてくれた樹木の諭し。

 包み込んでくれた彼らの温もりを、過去のものにしなければいけないという事なのだろう。


 ……それは、嫌だ。

 代償に何をくれると言われても、それは失いたくないと思ってしまう。

 私にとってそれはかけがえのない、私を形作る大切なもの。

 これは、素直に「いりません」と拒否していいのだろうか。

 それとも、こんな事を言い出すくらいだから植物たちはもう私との繋がりに愛想を尽かした後だという事なのだろうか。


 目を見開いたまま動けなくなっているライアは無意識のうちに両手を握りしめて……その手がかすかに震えている。

 そんなライアの右の手を、そっと温かいものが包み込んだ。


「老木殿。あなたは僕を友と呼んでくださった。では、友の言葉に耳を貸してはいただけませんか?」

 ライアの右手を左手で包み込むように繋いだレジナルドがゆっくり話し出す。

『ふむ、聞こうか』

 そんな答えを待ってからレジナルドは真っ直ぐに目の前の古い蔓を見据える。

「彼女の心を知っていると、見失うことはないと、あなたは仰った。であればその申し出に彼女が何を思うかご存知でしょう? これまで心の支えとなったものを彼女がどれほど大切に思っているかあなたは知っているはずだ。それを彼女から取り上げるおつもりですか」

 呆然としたままだったライアは、その呆然としたままレジナルドの声を聞いていた。


 ああ、私の心にあることをそのまま言葉にしてくれる人がここにいる。


 そんなことをぼんやりと思う。


 今までこんな風に自分の気持ちを誰かが代弁してくれることなんかなかったから、本来ならここは感動すべきところだ。

 でも。

 どういうわけか今はそういう方向に心が動かない。

「代償を返そう」という申し出の背後にある真意に気がとられ過ぎてもう何も考えられなくなっている。


『ふむ……なるほど。お前がそれを言うのか……』

 相変わらず笑みを含む声は……いつのまにか物事を愉しむ優しい老人のそれとは微妙に雰囲気が変わり、どこか企み事でもしているような不穏な雰囲気を纏うようになっている。

「……?」

 そんな空気感の変化にレジナルドが眉を寄せ、ライアがぞくりと背筋に寒気を感じた。

『今までは我らが姫を支えてきた。しかしな……人の娘というものはそれだけでは哀れであろう。折角お前のような者が姫の隣に現れたのだ、我らの役目をお前に譲り、我らは再び次の緑の唄歌いが現れるまでなりを潜めようというのも姫とお前への(はなむけ)になるかと考えたのだが……違うか?』


「……そんな……」

 息を飲んで言葉を一瞬控えたレジナルドに代わって小さく声を漏らしたのはライアだ。

 でもその先の言葉は、出ない。


 レジナルドがいるから、私にはもう植物たちはいらない。

 そういう事なのか。

 彼らはもう、私に寄り添ってくれることはない、という事なのか。


『友よ、姫をお前に託すのは時期尚早か。お前は一人で姫を支える自信はないか?』

 その言葉はまるで自立しようとしている者を試す親の言葉のようにも聞こえる。

 温かみはあるが、決して妥協しない毅然とした問い。

 そんな問いにレジナルドが息を飲んだ。

 ライアの右手がぎゅっと握り込まれる。

「……自信はあります。僕は絶対に、彼女に寂しい思いなんかさせないし悲しい思いをさせないとも誓える……でも彼女の心にはあなた方も必要だ」


『ほう……つまりお前は一人で彼女の幸福を背負う自信がないと言っているということになるな』

「違う!」

 揶揄するような口調にレジナルドが間髪入れずに答えた。

「彼女に選ばせるなって言ってるんです。彼女の意思で、あなた方を切り捨てるようなことをさせないでください。……自然の成り行きで、避けることができない流れで、あなた方との交流を失うのならそれは仕方のないことです。そんな痛みなら僕が癒すと誓う。一生かけてでも癒やして彼女を満たしてやれる。でも」

 レジナルドの口調には徐々に熱がこもっていく。

「でも、彼女があなた方を切り捨てるような選択をした結果そうなったというなら……彼女がその後その選択をどれほど悔やむか、あなた方は知っているはずだ。自分が幸せになることさえ諦めてしまうであろうことに……どうして気づかない?」


『ふむ……なるほど……』


 そう言うと状況を愉しんでいたような声はぱたりと止んだ。


 さわさわと草木が揺れるのは風のせいではない。

 見慣れたはずの裏庭は、深い森のように植物の背丈が伸びて、昼間だというのにその茂った葉が作る影は薄暗くもある。

 たまにその隙間から木漏れ日が差すので辛うじてまだ昼であるということを思い出すほど。

 二人の男女を包む一種異様な光景ともいえなくはないが……不思議とそこに漂うのは嫌な空気感ではない。

 のどかで優しく、穏やかな空気が流れている。


 そんな空気感と相容れない老木の言葉にライアはずっと気持ちが不安定だ。

 それはまるで楽しいはずの場における不穏な空気。もしくは賑やかな場における訃報。

 そんな感情の定まらない不安定さとずっと闘っている。

 肌で感じるのは和やかな植物たちの空気なのに、頭に響く言葉には背筋に悪寒が走る。

 何かがずれている。歪んでいる。と、本能的に感じるのにそれを見極められない。


「……老木殿?」

 しばらくの静けさの後、レジナルドが訝しげに声をかけた。

 ライアがその声を聞いて思わずレジナルドの方に視線を上げ、急いで周りの植物たちに視線を向ける。

 どうにも不安げなレジナルドの声に、不安が煽られた。


 もしかして。

 今この時に、彼らとの繋がりが切れたのかも知れない。

 そんな気がして。


 見上げた先でレジナルドも同様の不安を感じているのか目の前でさわさわと揺れる葉を凝視している。


 と。

『……くくくく』

 まるで今までの相容れなかったものが一瞬で調和したような笑い声が響いた。

『ああ、なんと愉快なことよ。姫よ……我が悪かった……ほんの出来心というものだ、許せ』

 まるで息も絶え絶えに笑ってでもいるかのように言葉が続く。


 あまりの変わりように今度はライアとレジナルドが目を丸くして言葉を失った。

『あまりにも真摯に食いついてくるゆえ、揶揄(からか)っただけだ。友よ悪かった。我らが姫の悲しみを増やすなどあろうはずがない』

「……はい?」

 愉しげな声にレジナルドが目を眇めて聞き返した。

『折角のこの機会、姫の前でお前の心を言葉にさせたかったというのもある。……姫よ、良かったな、良い相手に恵まれたと見える』


「……え?」

 今度はライアが聞き返した。

 うん?

 何?

 どういうこと?


「……つまり、彼女に変な選択をさせるつもりはさらさらなかった、と?」

『無論』

 レジナルドの問いに含み笑いの声が即答する。

「彼女との繋がりを断ち切るというのは……」

『誰がそんなことを言った。勝手に邪推したのはお前であろうが』

 自分の問いにたたみかけるように即答されてレジナルドの唇の端がひくっと引き攣った。

「で、僕が彼女をどこまで思ってるか試そうとした、と?」

『あまりに必死に食い下がってくるので面白くてつい、な』

「……この親馬鹿ジジイ……」

『何か言ったか?』

「いえ別に」

 後半は何かずいぶん愉しそうなやりとりに発展したのでライアもこわばっていた身体がふっと軽くなり……目を丸くしながらそのやりとりを見守ってしまう。


 えーと。

 つまり、ですね。

 これって……。

『姫よ。これは贈り物、と言ったはず。贈り物に代償など伴うはずがなかろうて』

 いつも通りの優しい口調。柔らかい笑みを含んだ声。

「え……それじゃ……」

 ライアが目の前の蔓に向けた目を一旦そっと隣に移すと薄茶色の瞳が安心したように細められて小さく頷きかえしてくれる。

『ここしばらくの間、姫が必死だったのでな、少しばかり力を貸すつもりで我の力を貸しておったが……ちょうど今宵は草木たちが力を最も高める時。皆が我に賛同するのでいっそのこと姫には一つ贈り物をしようと話し合ったところだったのだ』

 レジナルドの態度を裏付けるような声にライアが今度こそ言葉を失った。


『……姫?』

「……ライア?」

 二つの声が重なった。


 どうにも返事をしなければいけないらしい。


「……ふぇ……っく……!」

 声を出そうとした途端しゃくり上げてしまってライアが慌てる。

「あーあ、泣かしたー」

 くすりと悪戯っぽい笑みを浮かべてレジナルドが責任をなすりつけるような声を出すと。

『なに。……我のせいか……?』

 珍しくも慌てふためく声に周りの植物たちがさも可笑そうにさわさわと揺れる。


 こんな光景は色んな意味で珍しい。


 もう少し、この情景を味わいたいと思うのは私の我儘だろうか、と、ライアはそっと思ってしまった。


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