宴 その1
あと一日くらい。
明日が終わる頃にはまた閉ざされた世界が戻ってきてしまう。
そう思うとライアは今日のうちにやりたいことをやってしまおうかと夕方あたりからそわそわし出した。
日中は途切れ途切れではあっても来客がある。
薬の調合をしたり、客の話を聞いて薬以外で生活の何かを改めた方がいいなんて事を提案したりすることもある。……主には睡眠とか飲酒の量とか食べ物の習慣とかだ。
普段から聴覚に問題があるとしてもこういう話はみんな面と向かって真剣にゆっくり話すものだから聞き取れないことはなかった。そもそもこちらが早急に反応を返してはいけない類のやりとりだ。聞こえにくくて黙っているとしても真剣に聞いて考えてくれていると勝手に思い込んで信頼を勝ち得るなんていう薬師には都合のいい結果になるらしい。
そんな普段と変わらない一日が終盤に差し掛かって、の、夕方。
「……一昨日、森の柳とは約束したもんね」
本当は昨日の夕方にでももう一度顔を出したかった。でも朝から訪ねてきていたオルフェはレジナルドが帰った後もしばらく居座り、何をするでもなくお茶を飲んで……たまにくる客の相手までしていたのでなんだかこちらは気疲れしてしまって森まで出かける気力がなくなっていた。
たまに無性に歌いたくなるのはもう本能的なことなのかもしれない。
そう思いながら簡単に家の片付けを済ませて身支度をする。
せっかくだから頂いた服を着ていこう。
淡い翡翠色のワンピースは森に入っていくのにちょっと背中を押してくれる色だ。植物たちへの敬意を表して。
宿屋の娘さま、本当にありがとう。
なんて心の中でしっかり感謝してみる。うん、感謝大事。
昨日も今日も日中は天気が良かったせいであれほど降った雨でぬかるんでいたはずの外はすっかり乾いているから、白い靴も躊躇いなく履いていけそう。
ああそういえばレジナルドを引きずって運んできたときに森の方からずーっと両足分の二本の線が出来ていたのも雨できれいに消えたんだ……と思うとつい苦笑が出てしまう。
ショールを羽織って颯爽と歩き出す。
夕焼けに空が染まり、風が心地いい。
静かな夕暮れ時を歩くのは、やっぱり気分がいいものだ。
ふんふんと鼻歌を歌いながら歩くせいか森の入り口あたりの木々の葉が楽しそうに揺れる。
うん。今日もみんなご機嫌だね。
そしてたどり着く、池のほとり。
柳の木。
『おや。また来てくれたのかお嬢』
いつのまにかお嬢呼びされるようになっていた。
昔、まだ幼かった頃はくすくすと笑いながら「お姫様」なんて呼ばれることもあった。からかわれているのがわかるので不貞腐れて見せたら「お嬢」になった。
「約束したもの。月がまた欠けてしまう前に歌を聞いてもらわなきゃね!」
『ああ……それはいい……皆も喜ぶ……』
柳の木が嬉しそうに枝を揺らす。
そして周囲の低木や草たちがサワサワと色めき立つのがわかる。
こんな空気が好きだ、とライアがゆっくり微笑む。
聴覚がはっきりしている時でなければ自分が発する声の音量が調整できないので盛大に歌うことなんかできない。
ちょっとした鼻歌にも草たちが反応することを考えたら「歌」なんて大変なことになる。
……まぁ、大きな声で歌うのは流石にこの歳になると恥ずかしいけどね。
子供の頃は、純粋に歌うことが好きでよく大きな声で歌ってしまっていた。
歌には感情が伴う。
喜びも悲しみも怒りも希望も。
そういう感情に植物が反応してしまうのだ。
ある時は勢いよく伸びた木の枝が家にあった温室の壁を突き抜けて破壊した。
ある時は部屋の鉢植えの薔薇が一気に枝を伸ばして脱ぎっぱなしで放置されていた母親の赤いドレスが引き裂かれた。
一夜にして自分のベッドが花瓶から伸びてきた花で埋め尽くされていたときには本当にどうしようかと思った。
だから極力、歌うときには負の感情を抱かないようにする。そして音量に気をつける。
これすごく大事。
『今宵は宴だな』
柳の声が静かに、そして期待を含むように響いて周囲の空気が変わる。
それを合図にしたようにライアが慇懃に礼をする。
「いつも優しいみなさんに感謝を込めて」
柳の木の、枝に囲まれるような中ではなく、敢えて池の水に声が響くように少し遠くまで声が聞こえるように池の方を向いて。
ライアの唇から静かに低い音程が流れ出る。
それは滑らかに滑り出し、小さな音さえも聴き逃さないようにと一瞬で周りが静まり返る。
そして、小さなハミングを引き継ぐように歌声が静かに流れ出す。
流れゆくは悠久の時
薫風に身を委ね 時を経て
焦がれるは過去の情景
水の音に身を委ね 郷を想う
根付きし地にて実りを成し
流れ着くその日を思い
送り出すは息災の言
いつの日にか いつの日にか
『……懐かしい歌よ……』
ライアの歌声が消えてしばらくの静寂の後、柳の声がゆっくりと紡がれた。
ライアはゆっくり声もなく微笑む。
『お嬢が歌うとあの頃とは違う情が湧く……』
柳の木はこの辺ではかなり古い木だ。
昔を懐かしむような声音には周囲の比較的若い木がさわさわと同調するかのように揺らいだ。
この歌は昔、戦人が離れた郷里に二度と戻れないことを嘆きつつ、郷里への思いを歌った歌だ。
戦が抗えない定めであることと、その地に朽ちてゆく身が残す想いの強さを歌った歌は古い鎮魂歌のように歌われてきた。
ライアはその歌に新しい意味を付すように歌うのだ。
本当に鎮魂歌として歌ったら森が悲しみに沈んでしまうので。
森の木々はもともとここで生まれたとは限らない。
どこか遠い地で実った種が川の流れや小動物や小鳥によって運ばれてここに辿り着いたりもする。
その経緯はもはや抗えない定めのようなものだ。
木が故郷を懐かしむという感覚は、人のそれとは違うらしいがあえてそこを被せてみている。
ライアにとって植物の中でも古い樹木は尊敬の対象であるので敬意を込めて歌う。それで伝える印象が変わるのだろう。
『昔この池に身を投げた娘がいたが……その歌をよく口ずさんでいた……』
「ねぇ、昔の出来事はもう忘れたほうがいいものでしょう?」
柳の木からその話は何度か聞いたことがある。
ライアは自分が慰めてもらったお礼に、柳の心を和めたいと思っていたのだ。
昔のことを忘れるようにという慰めは自分がかけてもらった言葉でもある。
『……ああその通り……人の子とは……可愛いものよ……』
ふふ、と柳が笑う。
その笑みは深く静かで、遠い過去から静かに積み重ねてきた記憶と想いがないまぜになって複雑に絡み合ったもので……どんな感情の表れなのかはっきりとは感じ取れない。
そんな笑いを受けてライアが一つ深呼吸をする。
「さあって! まだ夜は長いわ。次はもっと楽しい歌!」
一曲目は敬愛する柳の木のために。
二曲目以降は池のほとりの全ての木と草のために。
これは毎月の決まり事。
ライアの歌は豊穣の歌へと変わり、若者の恋愛の歌へと変わる。
くるくるとスカートの裾を翻しながら踊るように歌うライアを木々が楽しそうに枝を揺らし、草も葉を揺らしながら見守る。
それは月明かりの中に浮かび上がる宴だ。
夜更けに月明かりを頼りに帰宅するライアはかなり上機嫌。
「あー、よく歌ったわー! これ以上歌うと声が枯れるわね」
酒が入っているわけでもないのにフラフラと歩きながら楽しげな独り言が漏れる。
で、玄関のドアに近づきかけて思い直したように裏庭に回る。
サワサワと薬草たちが色めき立つ気配が心地いい。
「たっだいまー!」
上機嫌なまま声をかけると一番手前のハーブたちが香りを振りまきながら意味ありげな雰囲気を作る。
「やあね、飲んでなんかいませんよー。ちょっと森で歌ってきただけ」
なぜこの子たちは私が浮かれていると変な誤解をするのか。
……まぁ、ちょっと自覚はあるけど。
月が満ちて気分の良い夜、家で一人でいることに飽きるとこの裏庭に出てちょっとお酒を飲むことがある。
裏庭には積んだ薬草を乾燥させたり保存に適したサイズにしたりするために屋根のある作業スペースも作ってある。
ライアが気をよくして歌ったりするものだからその柱や屋根には良い感じに蔓草が絡み付いて花を咲かせており仕事のための道具類を出していなければテーブルと椅子があるちょっと洒落た休憩スペースのようにも見える外観になっている。そこで飲むお酒は格別だ。
師匠がいた頃は一緒にいろんな酒を試したものだ。
師匠は量は飲まないが酒好きでいろんな種類の酒を少しずつ飲んではライアの歌を聴いて上機嫌になっていたものだ。
ライアもそれが嬉しくて一緒にどんどん飲んで……潰れたことがある。
植物たちは記憶を蓄える存在だ。
何年も前の出来事でも記憶は蓄積されていく。
一年草のような植物でさえ先代の記憶を受け継いでいく。それは周りの環境にもよるらしく……ライアが関わる場合はそういう元々持っている能力が必要以上に発揮されるらしい。
『その子らはお前の身を案じているのさ……飲み過ぎは根腐れを起こすだろう?』
楽しげな含み笑いと共にしわがれた、男性とも女性ともつかない静かな声が聞こえてくる。
「もう、老木殿まで……! 私は腐ったりしませんよー! まぁ、飲み過ぎは人も体に悪いけどさ」
ライアが口を尖らせるとそこらじゅうの植物たちが楽しそうに揺れる。
……ウケたらしい。
本当に植物の笑いのツボはよくわからない。
『今日は随分歌ってきたようだな……』
「そうなの。もう喉が限界! 明日までまだ歌えるはずだから明日はここで歌うわね。期待してて」
楽しそうな静かな声にライアが答えると手前のハーブたちがやはりサワサワと……まるで歓声を上げているかのようだ。




