プロローグ
月というものは見た目以上にあらゆるものに影響を及ぼすらしい。
潮の満ち引きや季節も然り。
ああ、もう満月が近いのか。
繁った葉の間から青空を見上げながらライアがふと明るい茶色の目を細めた。同時にいつもどことなく緊張している表情が少しだけ和らぐ。
普段ぼんやりとしか聞こえないはずの耳が気付けばすっきりとしている。
質素ではあるがきちんと手入れのしてある淡いブルーグレーのワンピースに白いエプロンはつい先ほどまでしていた仕事用の服だ。ハーフアップにまとめた髪はサラサラと艶やかな栗色で毎日の手入れで使っている香油の効果を発揮しており……「こんな場所」にいなければ午後の風を受けて軽やかになびいているはずだ。
そんなささやかな風が木の葉を揺らす音がクリアに聞こえる。
……これなら声を出すことも躊躇わなくて済む。
いつもどこかに閉じ込められてでもいるかのように思える感覚が研ぎ澄まされて開放的になっていることに少し気持ちが軽くなって、普段から気を張り詰めているせいか無表情な顔立ちに小さなぎこちない微笑みが浮かんだ。
そして。
その艶やかな唇から小さなハミングが溢れ出す。
その音程は小さいながらもしっかりと滑らかに滑り出し……。
「……おい、いたか?」
「……いや……いませんね。さっきまで店にいたらしいからそう遠くに行っているとも思えないんですが」
「まぁ……いないならいないで……構わないでおくか……」
「そうですね……いたところで何かと面倒でしょう?」
小高い丘の外れ辺りから始まる森の入り口とも呼べそうな場所。
そこにあるちょっとした小道で行き合った二人の男がそんなやり取りをすると、お互いに肩をすくめあって今度は同じ方向に歩き出した。
見たところ親子、といった風情の二人連れだ。
片方は白髪混じりの、かといって弱々しい感じは全くない姿勢も体格もいい男だ。仕立てのいい服に身を包んだ様子はこの小さな村の住人とは思えない。さしずめ近くの町からの客人といったところ。
隣を歩く息子とおぼしき年齢差の男も同じような服装に短く整えた髪は濃い金色。こぎれいな出立ちに整った風貌は町の娘たちにも人気があるだろう。
会話の内容はさておき、仕草にも声の調子にもどことなく品がある。
「……なんだ、今の……」
ほんの少し息抜きのつもりで……言ってみれば人目をしのぶような形で手近な木に登って息を潜めていた男が眉をしかめてぼそっと呟いた。
午後のひと時、気持ちの良い風を受けながら木の上で気持ちよく微睡んでいたところでどこからともなく小さな歌声が聞こえてきていた。
夢ではないかと思えるくらい薄く今にも途切れそうな歌声は、身じろぎして辺りを窺ったりなんかするだけで消えてしまうのではないかと思えるような声で……目を閉じたまま聞き入ってしまっていた。
ふと、音が途切れたと思って寄りかかっていた木の幹から体を離して下を覗き込んでいると男が二人ボソボソと話しながら通り過ぎて……「何かあったのだろうか?」なんて思っていたところで。
がさり、とさらに音がした。
自分が登っている木の根元あたりには茂みがあった。
こんな茂みを乗り越えてこの木に登る者もいないだろうと思ったくらいの結構な茂みだ。
そこから栗色の髪の女があたりを窺うようにしながら這い出して行ったのだ。
見たところ自分よりは年上なんじゃないかと思える女。
自分の周りに群がる同年代の女たちはもっとこう、軽い感じできゃあきゃあ騒いでいる……鬱陶しい存在。
でもたった今茂みから這い出していった女は。
その、四つん這いで這い出す様子はまるで子供の仕草のようにも見えた。でも、ゆっくり立ち上がって薄い灰色の服の裾をパタパタと叩いて整える仕草と周りをくるっと見回してから、肩を軽く反らせてやれやれとでも言うかのように小さくため息をついた様子はやけに落ち着いて見えた。
そして何事もなかったかのように彼女は歩き去っていったのだ。
「……ま、かんけーないか……」
そう呟いた男は再び木の上でゆっくり目を閉じた。
午後の風は気持ちよく、春の空気は香りもいい。
町から離れたこの村には町の喧騒から逃れたい者が主に住んでいる。
その村からも少し離れたこの森は「東の森」と呼ばれており、相当な広さだ。森の中を通る道路がいくつかあるとはいえ端から端まで旅する者はそういない。
昔からこんな鬱蒼とした森に入っていく者はそうそういなかったらしいが人と関わるのが嫌いな身としては逆に有難い場所でもある。
「鬱蒼とした」なんて言っても厳密にはそれは「東の森」の全体的なイメージで。森の奥深くまで入っていくのでもなければ気持ちの良い場所だ。
彼がいる場所も然り。
いかにも木登りがしやすそうな枝振りの大木が程よい間隔で自生しており、その先には湧き水を湛えた池がある。木の間を縫うように出来ている小道は道路と言うほどのものではないが昔誰かが作った道なのだろう。細くてあちこち草に侵食されてはいるが一応石が敷き詰められていて……森の中を通っている主要道路に通じているらしい。
町から商業目的で道路に出たい場合は馬車を使うのでこんな細い道は使わないが……昔の旅人が使っていた名残かもしれない。
ゆっくり目を閉じた男はそのまま微睡みが訪れるのを待ちながらふと、さっきの歌声は本当に現実だったのだろうか、と疑問に思う。
気持ちのいい気候と場所でたまたま見た夢だったのかもしれない。
もし現実だったとしたら……今しがた下の茂みから這い出していった彼女も同じ歌を聞いたのだろうか。
なかなか綺麗な声だった。
……いや、なかなか……なんてもんじゃない。
透き通った声に、緩やかで心地よい旋律。
自分のように夢現に聞いたのでもなければ音の発生源を確かめなければ気が済まないだろう、くらいの。
ああもしかして……彼女はその発生源を探しに行ったのかもしれない。
そんな事を思いながら再びゆっくり眠りに落ちる彼は、久しぶりにゆっくりとまともな眠りに落ちる瞬間を感じられることに小さな感動を覚えていた。