デボラシステムの歪み
「俺が自殺?」
「はい、あのまま放っておいたら、遅かれ早かれそうなっていたでしょう……ちょっと失礼」
安居が、握り締められぐちゃぐちゃになった名刺を横目で見ながら、正座を崩して胡座をかいた。
「我々は、国民が過去を振り返ったり思い出に浸ることによって、自死やうつ病を選んでしまうといった深刻な事態にならないよう、ストッパーとなる仕事をしています。人は過去を振り返ることで、現実逃避に走ります。その程度が進行すればするほど、うつ病や自死の確率が上がります。もちろん、皆がそうなるとは限りませんが」
安居の話を聞きながら、梶井は名刺を握り締めていた拳に、さらに力を入れた。
「だからって、人の頭の中を勝手にどうこうして良いって訳じゃないだろ」
安居は横に置いてあった自分のカバンから、一冊のファイルを取り出した。
「ここに私たちが今までに行ってきた仕事の実績があります。ご一読ください」
そう言って、安居は帰っていった。
不服な気持ちを持ちながらも、直ぐにファイルに目を通してみる。
何万人という人数を救ったとされる、輝かしい記録。自死者となるはずだった人々が死を思いとどまっただろう過程が細かくデータ化され、円グラフ棒グラフできれいにまとめてある。
表紙には、政府の重要書類の印と、部外秘の赤文字。
「こんなもん、よく躊躇なく置いてったな」
けれど、納得できない怪しい部分もある。実際ここに記載のある数々の対象者を、この『健康維持管理局』が救ったと言えるのかどうかは、はなはだ疑問が残る。
例えば、彼らがそのまま処置をせず、放置した場合。
実際、その対象者がうつ病を発症したり自死に至ったのかどうかは、実証されていないからだ。
「クソ怪しいじゃねえか」
梶井はファイルを投げ出すと、ごろんと身体を畳の上へと投げ出した。
腕を頭の下で組む。
梶井自身もこのファイルの仲間入りをするはずだった、と安居は言っていた。
(本当なのか)
それに関しては、安居から驚くような説明があった。
「実はですね、梶井さん。あなたが普通の人間であるならば、この声は言葉としては聞こえないはずなのです」
対象者の脳へと届ける言葉、いわゆる『前向きな言霊』は、脳波の一種に変換されて届けられている。
よって脳と共鳴はするが、対象者本人には「言葉」として伝わることはないという。
しかしながら、その『前向きな言霊』の持つ、強制力。
それは本人には自覚がないうちに、確実に脳へと刷り込まれていく。
未来へと進むように。もしくは良い方向に考えるように。
つまり、対象者の脳へ直接語りかけることによって、対象者の考え方や感じ方を『ポジティブシンキング』へと導くのだ。
先手を打って、うつ病や自死を防ぐという方法。
だが。
ここが重要だ。
『届けられる声(脳波の一種)は、政府によって手首に装着することを義務付けられた、αウォッチを介して、脳へと直接流し込まれる』
『この秘密裏のシステム、国民は誰ひとりとして、そのことを知ってはいない』
梶井はその点に、憤りを感じざるを得なかった。
「頭ん中の操作だぞ。クソッタレだな」
一週間後。
再度、安居が訪ねてきた。
「君は本当に、珍種だな」
一週間前の態度とはうって変わって、最初から咥えタバコで胡座。
梶井は苦く思った。
「まさか、このシステムに気がつくヤツがいるとは、俺も驚いたよ。もちろん君の気のせいだろってスルーしても良かったんだけど、そのステキな能力を買いたいと思ってね。うちで働いてくれないか? それに……」
安居がタバコを空になったコーヒー缶の中へとねじ込んだ。
「一緒に働いてくれりゃ、口封じも楽だしな」
脅しとも取れる言葉に一瞬、怯む。
「な、口封じ……って」
「公務員だからボーナスも出る。待遇は良いよお」
「……そんで会社クビになるように仕向けたんだな」
「退路を絶ったんだよ。胸くそ悪りい思いをさせてすまなかったな」
「勝手に人の頭ん中入ったことに対しての謝罪は?」
「それが仕事だからねえ」
「だったら、もっと有意義な言葉を用意しろよ。笑っちまったぜ、未来に向かって生きようだのなんだの。だせえっつーの」
「では君ならどう声を掛ける?」
はっきりと疑問形で聞かれて、梶井は安居の顔を見据えた。
安居はタバコを咥えた唇の、片方の口角を持ち上げて、ニヤニヤと憎らしい顔を作っている。
梶井はその癪に触る顔を睨みつけると、前回安居に渡されて握り潰した名刺を、ころっと机の上に転がして言った。
「今日を生きろ、だよ」
決めゼリフでそう言うと、笑いがこみ上げてきて、ぶはっと吹き出す。
そして笑いながら安居を見ると、安居も腹を抱えて笑いこけていた。
ひと通り笑ったところで、安居が言った。
「じゃあ共に今日を生きようぜ。こうやって面と向かってなら、オッケーだろ?」
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「今日を生きろ、ってなあ」
ガラス張りの向こう、メインルームを背にして、咥えタバコを器用に口元でフリフリしながら、安居が目を細める。
そして、梶井は手にしていた書類を、いつものようにデスクに放った。
「安居さん、今回の件、超過勤務ってことで。これ報告書」
報告書の中には、対象者『16歳 女性』。
彼女の『生き時計』がどのようにして過去と未来の二つの時間に分かれていったのか、そしてその二つに分かれた数字が、どのようにして本来の一つの数字に戻っていったかの経緯が書かれている。
『リワインドパターン Rタイプ。デボラシステムにより、改善。ランクは現在、Lightを維持』
まだ要観察、要注意ランクではあるが、とりあえず緊急事態となる可能性が低いところまでは、引っ張ってこれた。
データ上では、うつ病もしくは自死の一歩手前で思い止まらせたはず、だ。
今後は、実際に対象者に会ってその危険性が無いかを確認するのだが、それは事後ケア担当の仕事となる。
「超過勤務だあ? 細かいこと言いやがって」
「あとルーイーにお灸をすえてやってください。あいつ、トイレとか言って、いっつも彼氏とイチャ電してんですよ」
「勤務中にそんなことやってんの? けしからんヤツだ‼︎ 減給だな、減給ー」
「対象者の事後ケアは誰が?」
「サヨリちゃん」
自分と同じハーフであるのに、外見も内面も完全な日本人である戸松 小夜梨を思い浮かべる。
彼女の外見で外国人の要素と言えるものは瞳の色が薄っすら茶色という一点だけで、あとは黒髪で背も低く、顔もあっさり顔、到底ハーフにはみえない。
もちろん、英語も喋れない。
まあ俺も喋れねえけどなと苦笑すると、梶井は部屋から出て行こうと踵を返した。そこへ珍しく声が掛かる。
「なあ梶井ぃ。今晩ちょっとあいてるか?」
「何ですか」
「一杯飲むのに付き合えよ」
咥えていたタバコを取り、灰皿にグリグリと潰す。
「珍し」
「まぁね」
何かを話したそうだな、そう感じると、梶井は了承の返事を投げた。
この時はまだ、どうせ仕事の愚痴か何かだろうと思っていた。
いや、思わされていたのだった。
♦︎戸松 小夜梨 : 落ち着いた穏やかな性格により事後ケア担当にされている。対象者からの信頼はおおむね良好。日本とロシアのハーフだが、外見は日本人そのもの。黒髪ショート、小柄。