頭の中の言霊
梶井がこの『健康維持管理局』の仕事に就く前は、中堅の製薬会社で営業を担当する、ごく普通のサラリーマンだった。
出社はそう早くはないが、退社はその日を軽くまたぐ。
激務。
精神的にも肉体的にもギリギリの場所を綱渡り。
「はああ、今日もキツかったな。食欲もねえし……風呂にも入りたくねえ」
帰宅後、直ぐに布団へと倒れ込む日々。
αウォッチが、身体から発せられている『悲鳴』を、淡々と表示し続けているのも、わかってはいた。
心拍数が乱れて波を打ち、血圧も不安定。
頭痛が続くが、仕事が滞ることを考えると、休めない。市販の頭痛薬で抑え込んで、出勤を繰り返した。
自分でも自覚のある不健康さが続く。
「このまま眠った方がいいな。……このまま、……」
すると不思議なことが起きた。
毎晩、眠る直前のことだ。
今は亡き両親との思い出や中学や高校の友人らとのバカ騒ぎが、次々と脳裏に浮かんでくるようになったのだ。
幸せだった頃の思い出を引っ張り出してくれば、仕事の苦痛から解放されて気も楽になった。
「加藤のヤツ、まだ野球やってんのかなあ」
「風邪で寝込んだ時、母さんがたまご粥作ってくれたっけ」
「父さんが使ってた釣り道具って、あれ、売っちまったんだっけ?」
気がつけば朝を迎え、重い身体を奮い立たせて、また会社へ出勤する。
そんなある日、いつまで経っても眠れない夜があった。
ゴロゴロと転がっていると、今まで思い出せなかったような細々とした思い出が次々と頭の中に湧き出てきて、さらに眠れなくなった。
今まで生きてきた人生のうち、何が一番楽しかっただろう?
「色々とあったよなあ」
すると、次に物哀しさや虚しさが募るようになった。それでも懐古するのを止められない。
自動車事故で呆気なく死んでしまった父と母が用意してくれた、10歳の時の誕生パーティー。大きな丸いケーキに興奮したっけ。
あれは高校生だったか。悪友たちと、近所の大学のキャンパスに忍び込んで、女子大生の品定めをしに行ったっけ。
「……あの頃に戻りてえ」
思いも寄らず、涙が頬を伝った。
「はああ。このまま眠っていられたならな……」
なにもかもが嫌になる。
なぜ、人間はこんな苦しい思いまでして、生きなきゃいけない?
永遠に眠っていたい。
このまま。
このまま。
永遠に。
その時。
頭の中に違和感を感じた。
それは「頭」ではなく、「脳」を直接両手で掴まれてゆさゆさと振られるような感覚。
最初。寝不足からくる、目眩のようなものだと思った。
そんな感覚がしばらく続いてから、今度は声のような音のような、どちらか判別できないようなものが聞こえてきたのだ。
頭へと、脳へと直接、響く。
それは女性のもののようであり、少年のもののようでもあった。いや、機械音だったのかもしれない。
『過去を 振り返っても 現在は 生きられ ない』
眼を開いたり、閉じたりしてみたが、それは関係ないようだ。夢ではないということか?
『未来は 輝いて いる』
『前を 向こう 未来に 向かって』
耳をすますようにして集中してみると、はっきりとした言葉が聞こえてきた。
(なんだこの安っぽい言葉は……人生相談かっての)
声に出して抗議したい気持ちになった。けれど、これが現実の世界のものではないと分かっていたので、頭の中で叫んでみたのだ。
『おいっ‼︎ うるせえぞ‼︎ どう生きようが俺の勝手だろっ‼︎』
途端に声が止んだ。脳を揺すられる感覚も次第に引いていく。
梶井はこの出来事が、浅い眠りで見た夢うつつのものだと思い込んでいた。
けれどそれが二、三回続いたある日の夜、梶井は唐突に気が付いたのだ。
これはもう、蹂躙だと。
『誰なのかは知らねえけど、俺の頭の中に勝手に入ってくるなっ‼︎』
そう告げると、声はぷっつりと途絶えた。
そして次の朝、普段通りに出社すると。
社長室に呼ばれてクビを言い渡された。
理由もなく、突然解雇されたのだ。
(そんで今はここで雇われている、公僕ってわけだ)
この経緯を思い出す度、途端に胸に息苦しさを感じてしまう。
「え、俺が自殺?」
呆気にとられてしまった。二の句が告げられない。
「はい。このままではあなたは自死の道を選んでいたでしょう。それを阻止するためにここに来ました」
クビとなり呆然として家に帰ったその日。
梶井の現在の上司であり課長である安居 保栄が(この時はまだ『健康維持管理局』の一兵卒であった)自宅へと訪ねてきて、そう言った。
「じ、自殺……」
梶井はその言葉に動揺を隠せなかった。
「ただ……あなたの場合は少々レアなケースなんですよ」
自宅のテーブルの上に置いてあった名刺を、いつの間にかぐちゃぐちゃに握り締めていた。