川瀬 町子の揺らぎ
「緊急なんです、ご家族の方もすぐにいらしてください」
電話の向こうの返事を待つ。
が、なかなか返ってこない。
(あ、これ。ムカつくパターンだ)
看護師の川瀬 町子は、イライラとしながらさらに返事を待った。
『それがねえ、今すぐっていうわけにはいかなくて。私にも任されている大事な仕事があるんですよ。お母さん、あとどれくらいもちそうですか?』
同じようなことを何度も聞かれ、そして何度も答えたのにと思う。
胸の中にモヤモヤが溜まっていく。
「それは何ともお答えしかねます。病状に関しては主治医からしかお話しできませんが、その林先生がご家族をお呼びするようにと仰っているんです。そこの所をお察しいただけませんか」
『そうですか。じゃあ林先生に代わっていただけません?』
川瀬は盛大に溜め息を吐きたくなるのをぐっと我慢し、ちょっとお待ちくださいと言ってから、携帯の口を手で覆う。
病室へと入ると、処置を見守る看護師を掻き分け、その携帯を主治医の林にずいっと出した。
林は苦笑しながら、それを受け取って廊下へと出ていった。
大きな声で文句の一つでも言いたいところだった。
けれど、今にも命を終えようとしている患者の前だ。
家族の悪口を言ったり、イライラとして怒りをぶつけたりなどできるはずもない。
看護師という仕事柄。
何度も同じようなジレンマを感じてきた。
そういった種類の感情を毎回押し殺していると、心の一部が麻痺してきてもおかしくないのかも知れない。
心の麻痺。
そう。
今までに何度もそう思う時があった。
目の前の消えゆく命の灯火、ひたりひたりと近付いてくる死の影を、じっと見つめている自分に気づく。
冷ややかな目で。
患者の死を看取るたびに、それは膨張していき、自分の中にどしりと居座り続けるのだ。
廊下から、林の熱のこもった声が聞こえてくる。
(最期くらい家族でお見送りを……)
川瀬は点滴を調整しながら、ちらっと患者の左腕に目を遣った。
その左の手首。
老人の細い腕には、αウォッチが付けられている。
このデジタル時計は、政府から全国民に支給されるもので、この腕時計型の機器とスマホなどのデータを受け取るモバイルとを連動させることによって、心拍数、血圧、体脂肪、体重、血液検査など諸々の健康管理が、個人で管理できるようになっている。
川瀬が勤めているこの如月第一病院でも、数年前からこのαウォッチからデータを受け取り、管理できる機器を設置し、活用している。
よって、今まで必要不可欠だったバイタル関係の機器は、緊急検査用の機器を除いて、一切不要となった。
(先生、まだ話してるんだわ)
川瀬はなかば呆れながら、ベッドの脇に据え付けてある機器に手を伸ばした。
今、この患者の上部に設置されているモニターに映し出されたバイタルサインは、腕に巻いたαウォッチから転送されてきたデータというわけだ。
そして、このαウォッチは国民が税金を納める義務と同等の重みで、それを四六時中必ず付けなければならないという、ほぼ国民の義務と化している。
もちろん防水であるから、風呂の中でも、だ。
そしてやはり、自分の左手首にも、老人と同じデザインのαウォッチが巻かれている。
「……でも」
口にしそうになるのを、心の中で押しとどめる。
(でも実際のところ、αウォッチを拒否する人を、見たことがないのが不思議だわ。みんな、便利だからって、絶対に手放さないもの)
川瀬は機器を触っていた手を、そっと戻した。
このαウォッチは、持ち主の日常生活にも密着している。
時計機能、ヘルス機能はもちろんのこと、スケジュール管理、万歩計、カロリー計算から趣味のジャンルである音楽、動画、カメラあらゆる機能が簡単に操作できるよう造られている。
そのため、相当の捻くれ者か天邪鬼以外の国民のほとんどが、気に入って自ら装着しているという訳だった。
川瀬がぼんやりと患者を見つめていると、そこへようやく患者の家族とのケリをつけてきた林が入ってきて、川瀬に携帯を突っ返す。
「俺、もう知らねえ」
家族への説得が無駄骨に終わり、匙を投げたような林の態度に、今では収まっていた先ほどまでの怒りがふつふつと再燃してくるのを感じる。
川瀬は携帯を受け取ると、すでに自分がやるべきことのない部屋を、音もなく抜け出した。
♦︎ 川瀬 町子 : 看護師。双子の妹を亡くしてから、死についてある種の虚しさを感じている。タイムリープの異能力を持つ。性格はツンデレ。だが好きな人の前ではどうしてもツンの部分しか出せない。真面目で慎重。チャラ男やイケメンには、まずは疑ってかかるようにしている。