安居 保栄、更迭
「ごめん、カナちゃん。これ出しておいてくれないかな」
「うそっ‼︎ まっちーこれ本気なの?」
川瀬は、同僚の小堺に封筒を渡した。なんの躊躇も遠慮もなく。
時には自宅の棚の引き出しに、そして時にはカバンの中に、ずっと眠っていた『辞表』。
ふと小堺から目を離すと、少し離れたところから蓬莱が目配せする、その姿が視界に入った。
「ごめん、今は急いでるから‼︎」
「待ってよ、なんで辞めるの? 別に不満なんて言ってなかったじゃない‼︎」
「不満とかじゃないの。とにかく大森さんには、伝えてあるからっ。また落ち着いたら連絡するよ、ごめんねっ」
看護師長には、一足先に電話で辞意を伝えてあった。ありがたいことに何度も考え直してと引き止められた。
「わ、わ、分かった‼︎ あのおじさんと結婚するんでしょっ‼︎ え、まさかまさか、梶井さんとっ? やだあ‼︎」
大声で言葉を投げられる。その飛躍の仕方があまりに笑えて、ふはっと吹き出しながら、川瀬は足早に蓬莱の元へと駆けた。
「お待たせして、すみません」
蓬莱の切迫した表情。川瀬は直ぐにも真顔を取り戻す。
「いえ、こっちこそ急がしちゃって。友達、めっちゃ叫んでるね。すごっ」
「はは、それより安居さんは大丈夫なんですか?」
「更迭されたってだけで、命までは取られないんで大丈夫ですよ。それでも多分、軟禁状態とは思いますけどね」
肩に掛けていたショルダーバックを、頭から入れて斜めがけにする。
病院の中央ホールのエスカレーターを二人で駆け下りた。
そのままエントランスから出ると、駐車場に向かう。
蓬莱が車のキーをキュキュと鳴らすと同時に、川瀬は助手席へと乗り込んだ。
「言っておきますがこのオンボロ、安居のですからね。僕のはもっと乗り心地が良い車ですから」
シートベルトをガチッとはめる。
「それで今からどこへ向かうかってのは、もうモロバレなんで、ちょっとスピード出しますけど良いですか?」
「あ、はい」
川瀬はカバンを抱え直した。
「水無先生の研究所に入っちゃえば、一旦は大丈夫なんで。あそこ、治外法権なんですよ」
「そうなんですか」
「じゃあ、行きますね」
サイドブレーキを解除してから、アクセルを踏む。
ウォンとうなる車は直ぐにも高速道路の入り口へと向かった。
高速道路を滑るように走る。かなりのスピードだが、違反で捕まらないくらいの塩梅。
その緊張感からか、高速道路に入ってからも、沈黙が続いていた。
重苦しい空気をかき分けるようにして、川瀬が話し始める。
「あの、その研究所に梶井さんも?」
「はい、一足先に」
「……そうですか」
沈黙がおりる。
その沈黙の中、川瀬は梶井と軽く諍いがあった日のことを思い出していた。
梶井との最悪な物別れの後、プリンが何個も入った紙袋を、申し訳なさそうに差し出してきた、その姿。
まっちーと呼ばれていることを笑って悪かったと反省しているようだったが、すぐにもずけずけと質問攻めにしてきた辺り、きっと正直なほどに今を生きている人なんだろうと思い直した。
(そうだ、あの時も……)
川瀬はさらに思い浮かべる。
自分に正直に生きるということは、簡単そうに見えて意外と難しい。
人は色々な鎧を使い分け、自分を隠してしまおうとする。
(そう……あの時も、いきなりだったっけ)
頬が熱くなった。流れで余計なことを思い出してしまう。頭を振って思考をストップし、川瀬は蓬莱に話し掛けた。
「梶井さんって、どんな人なんですか?」
「ん? どんなって?」
蓬莱がウィンカーをカチカチと言わせて、ハンドルを右へと回す。
「今回の安居さんの協力者の中に入っているんですよね。私の、……その、能力についても知ってるんですか?」
「まあ、そうですね」
川瀬は前を見た。
高速道路の距離表示板が、次々に後方へと流れていく。
「……梶井は単純なヤツですよ。あんまり深く考えてないんですよね。シンプルっていうのかな。とにかくバカですね」
「ば、バカ?」
「僕が一番バカだと思うのは、あのイケメンを生かしきれてない、残念なところですかねえ」
川瀬が、ふっと吹く。
ここへきてようやく、緊張の糸が切れた。
「そうなんですか?」
「だから、いつまで経っても、彼女ができないんですよ」
そう言って、蓬莱は川瀬を見て、ニヤッと笑った。
川瀬は顔が火照ってくるのを感じると、慌てて窓の外に顔を向けた。