空っぽな自分、虚しさの中
「……お前、バカだろ」
報告書を前に、安居が相変わらずの咥えタバコで、椅子ごと身体を回して梶井を見る。
さすがに対象者に「バカにすんなっ‼︎」と言われたことは記入していない。
が、対象者を怒らせて面談を何度も断られている経緯から、どうやらその様子はバレているようだった。
「すみません」
一応、仕事上のミスとして認めざるを得ない。そう思いながら、梶井は頭を下げた。
「すみませんじゃねえよ。お前さあ、何のためのイケメンだ。こういう時に使わねえで、いつ使うんだよ。あーあ、彼女できねえはずだな。ほんと、シツボウしたわ」
(もー次から次へと……タチ悪いったらありゃしねえ)
梶井は頭を掻いた。
「あーあ蓬莱ちゃんに頼むんだったなあ」
うぜえと思いつつ、梶井は安居が机の上に放り投げた報告書を、さっと取り上げた。
「ちゃんと、やりますからっ。ちょっと時間くださいよ」
「ちゃんとって、何? お前、なめてんの? 俺のこと、なめてんの?」
「なめてませんて‼︎」
さっさと部屋から出て、後手にバタンとドアを閉める。
(……でも確かに怒らせちまったのは、マズかったなあ)
そして、そのままセンターを出る。いつもの帰り道とは反対の方向へと、向かった。
「はあ、余計な出費だぜ」
華月庵の暖簾を片手で掻き分けながら、店外へ出る。
「ありがとうございました~」
梶井は手にした紙袋を、目の前に掲げてみた。
「これで、機嫌が直りゃ良いけどな……そんな雰囲気じゃねえかも」
川瀬 町子の、歪んだ顔しか見ていない。バカにするなと言われた時、その瞳が潤んでいたのを思い出して、さらに気が重くなった。
「あーあ俺、マジでやっちまったなあ。女心は難しー」
水無のラボで見た、デボラの張本人、川瀬 環を見た時。
純粋に。美人だと思った。
彼女たち双子にも、純日本人の血が流れているという。そのDNAの所為なのかもしれない。
眠り姫の寝顔は、とても美しい。
オレンジ色の白熱灯に照らされて、泡立つように色づいた肌が、滑らかな陶器のように見えた。
そして、初めてその姉の川瀬 町子に会った時。
心臓が。
どくんと鳴った。
眠り姫と同じ肌。艶のある黒髪。危うく手を伸ばしかけそうになる、自分を抑えた。
(すげえ似てるって思ったんだ。双子って……すげえな……)
双子の片割れは生命維持装置によって「生かされ」、もう一方の片割れは自らの力で「生きる」という皮肉。
看護師、川瀬 町子に初めて会った時、彼女たちの運命の重さを肌で実感したのだ。
ぼんやりと、そんなことを思いながら、梶井は川瀬の家へと向かっていた。
家に着くと、チャイムを躊躇なく押す。
ガチャリガチャリとカギを開ける音がするたびに、梶井の心臓は跳ね上がる。
「はい」
ドアが開くなり、先手必勝とばかりに梶井がまくし立てた。
「この前は、本当にすみませんでした。あんたをバカにしたわけじゃなくて……そういうわけじゃなくてですね。……あ、えっと、これどうぞ」
最後にはもごもごと口籠りながらも、紙袋をずいっと差し出す。
相手に対して自分が思っていることを言えないタイプではない。
ただ直情に任せて口に出してしまうので、適切な言葉をその場で選ぶのが苦手だった。
だから、自然と口も悪くなってしまう。
川瀬 町子は俯いたまま、差し出された紙袋にそっと手を伸ばして受け取った。
「こちらこそ……すみませんでした」
お互いが。先日の大人気なかった自分の態度に、どうやら気がついているらしい。
梶井は紙袋から離した手を握り込んだ。
川瀬をちらと見て、再度思う。
(……やっぱ、綺麗だなあ。マジで、……美人だ)
「どうぞ」
川瀬が手をかけていたドアから、中へと入る。
「お、お邪魔します」
ぎこちない会話に、ぎこちない動作。
けれど、梶井は見つけてしまっていた。
川瀬の腫れて赤くなった目。
「あの、それって俺のせい?」
川瀬の目のあたりを曖昧な感じで指差す。
「え、あ、違うの。患者さんが、さっき亡くなって」
くるりと踵を返して、部屋の中を横切り、キッチンのシンクに向かう。
「患者さんが亡くなる度に、泣いてるんですか?」
取り上げたインスタントコーヒーの蓋を開ける手が、一瞬止まる。
「……そういうわけじゃ、」
「赤の他人でしょ」
「そ、そうだけど、」
「じゃあ、何で?」
ポットに水を入れて、スイッチをオンにする。
その水が、ごぼごぼと沸騰し始めるまで、川瀬は何も言わなかった。
そしてコーヒーが入ったマグカップを、ダイニングテーブルへと移動させてから、ようやく口を開いた。
「……多分、悲しくて泣いてるんじゃないんです」
勧められてもいないダイニングテーブルのイスを勝手に引いて座る。
梶井が顔だけでコーヒーの礼を言って、川瀬を見た。
川瀬は梶井の前のイスを引き、そのままゆっくりとした動作で座る。
「虚しくて……たぶん虚しくて泣けてくるんだと思います」
「助けられなくてってこと?」
ううん、とすぐに首を横に振った。あごのラインで揃えられた黒髪が左右に散る。
頬が、ほんのりと朱色に滲んだ。
その頬。
川瀬の肌。
眠り姫と同じマイセンの磁器のように滑らかで、艶やかなものだ。
指でそっと撫でたら、どんななのだろう?
「そうじゃない、助けるなんてできないでしょう」
梶井ははっとして川瀬を見つめた。
「……まあね」
梶井は自分の仕事のことに思いを馳せた。
そうなのだ。
人を助けているなんて。
思ったことは一度もない。
だから、安居は自分を選んだのかもしれない。
梶井にはそう思えて仕方がなかった。
「他人がとか、そういうんじゃないです。自分がただ虚しいだけ。空っぽの自分過ぎて……空っぽなんです」
言葉が出なかった。
梶井は性格上、『生き時計』のオペレーターか、『デボラシステム』のパフォーマーの経験しかない。
対象者への事後ケアはもっぱら蓬莱 要か、戸松 小夜梨に任せられているからだ。
口下手でコミュ障な黒石 連や梶井、ちゃらんぽらんなルーイー=リャンは、シフトから故意に外されている。
一度、ルーイーが安居に噛みついたことがある。
「安居サーン、ワタシにも事後ケア、ヤラセテヨ」
「はあ? なに言っちゃってんのお前ぇ。管理栄養士とか睡眠管理士、メンタルケア類の資格持ってんの? 持ってたら出してみろや、コノヤロー」
「ハオー格闘技の師範じゃダメ?」
「……なめてんのかコノヤロー」
そう言われて首根っこを掴まれて部屋から追い出されていた。
ルーイーの件はそれで即終了ではあったが、安居はやはり人をよく見てその場の適任者を選んでいる。
「梶井さん、いただいたプリンで恐縮ですけど、一緒に食べませんか」
真っ赤に充血した瞳を向けられると、断りにくい。
小さなテーブルにはもうプリンが出してあった。
梶井は素直に、はいと答えると、コーヒーとプリンを並べて置き、スプーンが用意されるのを待った。