救いの言葉を
「お前にはさあ、こんな機会が巡ってきたら一度訊いてみたいと思っていたんだけどな。昔、建前上デボラがお前を救ったってことになってるじゃん。それについて、どう思ってんのかをさ」
館内は禁煙だというのに、咥えタバコの煙をゆらゆらと燻らせている安居と、狭いエレベーターの中で肩を並べている梶井は、白衣のポケットに両手を突っ込んでから、思考を始めた。
6年前の自分を思い出す。
あの時は最初、安居とこのデボラシステムに対して反感しかなかった。
だから安居を前にして、俺は自殺なんてしねえ、余計なことをするなと怒鳴りつけたんだったっけ。
けれど、今は思う。
当時の自分に一種の危うさのようなものを感じていたことを。
両親二人を一度に亡くし、途方に暮れたかった。
それなのに、毎日朝はやってきて、その日一日をちゃんと生きろと強制される。
仕事は激務で、ヘトヘトになって帰ると、ぽっかりと空っぽな部屋が自分を飲み込んでいった。
もう眠りたい、このまま眠りたいと思っているうちに、また朝はやってくるのだ。そして無情にも、無理矢理腕を引っ張って立たされ、会社へ行けと背中をぐいぐい押される。
そんな毎日の中で、よく生きてたなと思う。
安居がタバコを指に挟んで、フゥッと細く煙を吐く。
「火災報知器、鳴りますよ」
「あはは、まあな。何度かやっちゃったもんだから、俺が来ると報知器のスイッチ切るんだってー。だから大丈夫だ。んで? どうなのよ?」
「それ全然大丈夫じゃねえじゃん。で? 安居さんに助けて貰ってどう思ったかってことでしたっけ?」
「まあ、俺が助けたなんて微塵も思っちゃいねえけどな、これはマジで心底な。あー、聞きたいような聞きたくねえような……いや、それ聞くとさ、色々考えちゃうだろうし、決心も鈍るっつーか。聞かねえ方が良いかなって思ってもみたんだけどよ。な、そうだろう。うん、やっぱ止めた。言わんで良し」
そこで、押したボタンの階で、ドアが開く。
『開』を押して、安居に出るように促す。
「うん、やっぱ聞かねえ。それが良いなあ」
梶井が口を開こうとすると、安居が両耳を手で覆った。
「あわわわわ~、何も聞こえない~聞こえない~、あわわわわ~」
子どもか。心で突っ込みながら、梶井は溜め息を吐いた。
「な、梶井。俺は監視されてっから、ここにもあんま長居はできねえ。こっちでの段取りはお前に任せるから」
「……分かりましたよ」
梶井の前を歩く安居の表情は見えない。
「んで気が変わったら、早めに言えよー。俺にも俺なりの段取りっつーもんがあるからよ」
「電話します」
「あ、電話ダメ。多分帰ったら、課長室に盗聴器つけられてっから。メールもだめ、手紙、いや伝書鳩にして」
「伝書鳩⁉︎ それって俺、確実に詰んでんじゃん」
口元で笑いながら、指にはさんでいたタバコをまた咥える。
「まあ、お前はなあ、大丈夫さあ」
「何が大丈夫なんですか」
「いやあ、分かんねえけど」
「根拠は?」
「ねえよ。けど、お前ん中にもそういう根拠みたいなもんって、一つもねえだろ。それがお前の強みだよ」
お互い、ふっと吹き出す。
玄関のドアから外へ出ると、温い風がすいっと頬を撫でていった。
「じゃあなあ」
安居は手を軽く上げると、門に向かって歩いていった。
その背中に向かって、さっき言わせてもらえなかったことを心で言う。
(デボラに助けてもらったなんて1ミリも思ってねえけど。でもあんたの言葉には俺、マジで救われましたよ)
『共に今日を生きよう』
「こうやって面と向かってなら、オッケーだろ?」
安居がウィンクしながら言った。
その言葉に、今も助けられている。
梶井は当分の間、すでに居なくなった安居の後ろ姿を追うように、玄関で佇んでいた。