プロローグ
※最初に自死を匂わす描写があります。ご注意ください。
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ドクン
ドクン
ドクン
心臓の音。少しずつ大きくなっていく。
大きく骨ばった手のひら。
その手のひらが、首に回される。
ヒヤリと冷えた指先が、喉仏の辺りに触れた途端、背中に悪寒が走った。
握りしめていた、荷造り用の紐。
自分の首にかける。一周巻いて、そしてその紐の両端をゆっくり握り直した。
荷造り用の丈夫な紐だから、どれだけの怪力で引っ張ろうが、途中で切れることはない。
「もう……どうなってもいい。……もうなにもかもを、終わらせたい……」
次第に小さくなっていく声に反して、手には徐々に力が込められる。
頸動脈がドクンドクンと脈打つ振動が、紐を通して伝わってくるような気がした。
ふと、
時間が気になった。
右の手首にはめているデジタル表記の腕時計に目をやる。
今から死ぬのだというのに、まだ腕時計を外していなかったことに、失笑がこぼれた。
だが、この腕時計は生まれて間もない頃から肌身離さずはめていて、買い替えや修理などで何代もの年月を経ているものなのだ。すでに身体の一部と化しているから、腕時計を外すという概念がなかった。
夕方、少し前。
死のうと決めてから、なにを物思いにふけっていたのか、思ったより時間が経っていることに驚く。
しかしこの時間なら、家に訪ねてくる者もいないから、邪魔が入ることもないだろう。
自分の人生を終わらせる。
この手で。
自分の意思で成し遂げるのだというのに、それをいったい誰が止められるというのか?
誰もいない部屋。ぽつんと独り。生涯にわたって独りなのだという事実が追い打ちをかけ、今さら情けなくも鼻の奥がつんと痛んだ。
「……もう、どうでもいい……」
紐を握る手に、さらに力を入れる。
喉がぐうっと小さく鳴った。
心拍数が、早馬のように駆け上がる。
血走る目。見開かれ。今にもその目の玉が飛び出すのではないかと、そんな錯覚さえ覚える。
そうこうしているうちに、全身の血液が遡ってきて、顔面を赤く染め上げていくだろう。
苦しくなってくる。喉に痛みがある。
そうだ。死ぬのは簡単じゃない。壮絶な苦しみや痛みが伴うのだ。
わかっている。けれど、もう終わりにしたい。
『死』と向き合う。
そして一層の力を込めようとした、その時。
ガガガと雑音のような何かが聞こえたような気がした。
瞬間。
(命を大切に)
それは、一瞬で横切っていった。
まるで青空をすうっと飛んでいく雲雀の飛行のような、素早い音の往来。
言霊?
右耳。それから左耳へと。そっと囁くような声が、左右のタイムラグによってか、脳内でうわんうわんと小さなこだまを繰り返す。
「だ、誰だっ」
紐から手を離し、小さくけほけほと咳き込みながら、辺りを振り返って見る。
ひとりぼっちのしんとした部屋。聴こえてくる壁掛けの時計の音。
カチ
コチ
カチ
コチ
刻む時計、秒針の音。その機械音にのせて、さらに重なり合う声。それとも何かの音?
(きみ は ひとり じゃ ない)
(希望 を 捨て ない で)
(明るい 未来 が ある から)
虚ろな目で、キッチンの奥まで見回すが、やはり誰もいない。
幻聴か? 夢でも見ているのか?
今しがた、自分の首を締めていた両の手のひらを見る。
少しの震え。
首に沿った頸動脈がまだ、大きく脈を打っているような錯覚を起こす。
ドクン
ドクン
──さあ、生きろ。
声だろうか? 音だろうか?
──生きろ。
幻聴なのか?
──生きるんだ。
どこから、それは訴えかけてくる?
強く強く、そして昂ってきて。
「「今日を生きろ」」
漲ってくるように。
力強い意志のように。
リワインド
『……しかし、これは本当にすごいことですよっ』
興奮冷めやらぬアナウンサーの声が、早朝のリビングに響き渡る。
『ここ数年は目に見えて右肩下がり、まあ悪いことでもなんでもないんで、そんな風には表現はしないかも知れないですけどね』
『いや、いいんじゃないでしょうか。実際にここ数年では、目に見えて自死の数が減ってきている。景気が少しずつ良くなっているのも影響してるんでしょうが……』
『もちろん。もちろんそうです』
ニュース番組の雇われコメンテーターたちが、我先にと早口でまくし立てている。
その画面のこちら側。
「右肩下がりだと。 違和感しかねえ」
ひとりごちる男。
呆れながらテレビのリモコンを取り上げ、「ああ、朝からうるせえ。ちょっと黙れよ」言いつつ音量を落として、ソファへと投げつけた。
ワイシャツの襟を立て、梶井=ルイ=レイモンドは、手にしていたネクタイを、不器用に首に引っ掛けて結んでいく。
『それにですよ。政府もいじめ問題の根絶に本腰を入れていることですし、まあ、色んな要素が相まって国民の幸福度指数を押し上げているっていうことなんでしょうがね。これで、もう少し我々の給料が上がれば、……万々歳なんですがねえ、』
『特別ボーナスとかね。そうとなれば夜の街でもどこでも、堂々タクシーで繰り出せますよ』
「おい」
梶井のツッコミと同時に、テレビの中のアナウンサーが顔をしかめた。隣に立っている女子アナも、嫌そうな表情を浮かべている。
「やっぱワイドショーなんか見るんじゃなかったなあ。もうそういう時代じゃねえっての。このセクハラオヤジめ」
こんがらがるネクタイと格闘する。
「自殺と景気の関係性だと? そんな当たり前のこと、ちょこちょこっと話すだけで、給料貰えんのか。羨ましーなおい。……それにしてもだ、もうちょっとマシなこと言ってくれれば、明日も観てやったのによ」
ようやくネクタイを結び終え、テーブルの上に放置してあった冷めたトーストを、口に突っ込む。咀嚼し、コーヒーで流し込んでから、梶井はスーツの上着を羽織った。
「……自殺者が減ったっつー本当のカラクリもわかってねえくせに。知らぬが仏とはこのことだ、……くそっ、どうせ会社で作業着に着替えるんだから、スーツ出勤なんて意味ねえってのに」
梶井は曲がってしまったネクタイを力づくで真っ直ぐに伸ばすと、テレビのリモコンを掴んだ。
『……続きまして、今日のお天気、斉藤さ~ん』
「やべえ、遅刻するっ」
テレビのスイッチを乱暴に切る。カバンを肩に引っ掛けながら玄関を出て、慌てて鍵を回した。
♦︎梶井=ルイ=レイモンド : 政府管理下の組織、『健康維持管理局』『生き時計管理課』所属の生き時計管理オペレーター。彼女いない歴2年。好物はカップラーメンと唐揚げ。イギリスと日本のハーフだが、英語は喋れない。言葉づかいが非常に悪い。