デボラの真実
『どおどお? 意外と快適っしょ。って梶井ぃ、俺の話、ちゃんと聞いてんのかあ』
水無教授のラボに来てから、一ヶ月が経とうとしていた。
その間、梶井は一歩もこの施設から出ていない。その必要性が無いからだ。
身の回りの物は研究所内で全て調達できていた。
恋人以外は。
『何だよー、良いじゃん。お前、彼女いねえって言ってたじゃん?』
いつもの安居口調。面と向かわずこうして電話口で聞いてるだけだと、余計にド頭にくるなと、梶井は心の中で愚痴っていた。
「……で、安居さん。俺いつまでこっちにいんの?」
不服な気持ちが声に出る。
ここでの仕事は主に、水無教授の研究データを集計したりまとめたりする助手的なものだ。
正直、自分でなくても……という気持ちが芽生え始めていた。
『ええー? まだ当分そっちだけども』
「はあ?」
『え、イヤなの? なんかイヤことあるの?』
ウザっと思いながら、返す。
「イヤって訳じゃないけど、」
『大賀さん美人だし、水無先生もからかい甲斐があって面白いし。なに? なにが不満なのよ?』
「美人て、男でしょ」
『大賀さんは男でもクールビューティーなの‼︎ 目の保養なの‼︎ ……はああ、俺が行きたいくらいだっつうの。ああもう分かった分かった。じゃあ、明日行くから。明日行ってやるから。水無先生にもそう言っとけよ』
そして、ガチャと切られる。
「じゃあって何だよ、もー……」
自分専用に貰ったデスクに備え付けの電話の受話器を、腹いせに少しだけ高めの位置から落とす。
電話の途中からムラムラ湧いた殺意。それを深呼吸で落ち着かせると、梶井は水無の研究室へと足を運んだ。
ノックをして、返事を貰う。
部屋では水無と大賀が同じパソコンのモニターを覗き込んでいた。
「なにー?」
間延びしたような水無の返事と同時に、二人が振り返って梶井を見る。
「あのですねえ。安居さんが明日、こっちに来るそうです」
水無が「そうですか」と頷く。
大賀はそれを聞くと、直ぐにもモニターの方へ顔を向けてしまった。
「安居さん、華月庵のプリン、また買ってきてくれないかなあ」
水無もモニターを見ながら、独り言のように呟く。
「あーーー。あと『野生動物に注意』の鹿バージョンの立て看板が欲しいなあ」
そして、沈黙。
「……頼んでおきます」
部屋を出る。
「はあああ、なんか疲れる。なんか疲れるんだよ」
掴み所のない水無に、梶井は手を焼いている。
何かを問うと、梶井の許容範囲外から、返してくるからだ。
(変人だもんなー)
思いも寄らぬ返事や逆に楽しそうに切り返されたり、返答やリアクションに困る。
(さっきの鹿バージョンの立て看板だって、どこまでが本心なのかわかんねえ)
その点。大賀は正答を返してくるから対応できている。
他にも数人、職員はいる。いるにはいるが、基本が少数精鋭であるため、下っ端でも頭の切れるスタッフなのだ。
ここのところは、彼らとの会話にかなりの気力を使っている。
「あああ、ルーイーのバカっぷりが懐かしい……。俺にはあれくらいがちょうど良かったんだな」
受話器を上げて、リダイヤルを押す。
『何なの、お前。明日行くから。明日聞いてやるから』
この憎まれ口を、あの課長室で聞きたい。
梶井は、はあっと深く溜息を吐くと、
「華月庵のプリン、ご所望ですよっ。あと『動物注意』の鹿バージョンだそうです。買ってきてくださいね!」
「はあ? なに? なにそれ? 鹿あ? 猿じゃなくて鹿あ?」
くそ‼︎ 言い放って、受話器をガチャンと置いた。
✳︎✳︎✳︎
目の前。信じられない光景。完全に言葉を失っていた。
(何だよ、おい、これ……)
長い沈黙の末、口を開いたのは梶井ではなかった。
「驚いているよね。安居さんが来る前に、事前知識が必要だと思ったものだから」
絶句とはこの事か。梶井は心の底から思った。
今、それを自分が体現している。
言葉が一つとして出てこない。
口からではない、頭から出てこないのだ。
思考停止。
「……実はね、梶井くん。この子が、デボラなんだ」
水無の抑えた声が、研究施設の一室で響く。
立入禁止区域。
失った言葉の代わりに、どうしようもない苛立ちと怒りが沸々と湧いて出るのを、感じていた。