彷徨う心、看護師になった理由
「環さんはお亡くなりになられました」
6歳の幼い頭では理解できなかったのかもしれない。
「たまちゃんは死んじゃったの? 死んじゃうってなに?」
「まあちゃん。環ちゃんはねえ、遠い場所に行くことになったの。寂しいけど、お母さんと二人で頑張ろうね」
涙でぐしゃぐしゃになった母親の顔を見た時。
死がどういうものかが薄っすらとしながらも、足音をたてずに忍び寄ってくる不気味なもののように思った。
白い病室、白い布団カバー、白い枕。
そして。
環の顔に掛けられた白い布。
そんな環のベッドを黒服の大人たちが囲む。環の顔に被せられた白い布が、異様に浮き上がっているように見えた。
「嫌だ嫌だ、たまちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だ」
「まあちゃん、お願い。言うことをきいて……」
「一緒におうちへ帰るの。たまちゃんと一緒じゃなきゃ、イヤああ」
妹のベッドから離れず、散々駄々をこねて、母親や看護師を困らせた。
黒服の大人に催促されて、とうとう母親の怒りが頂点に達しようとした、その時。
優しく接してくれていた看護師が、病院の屋上へと連れ出してくれた。
「マチコちゃん、ほら。夕陽が綺麗だね」
そこから見た夕陽。街並みを照らすオレンジ色の陽の光。
手をずっとつないでくれていた、優しく、少し荒れてガサガサしていた看護師の手の温もり。
どちらもはっきりと覚えている。
✳︎✳︎✳︎
川瀬は、一通の封筒を前にして、固まっていた。
『辞表』
書いたはいいが、カバンに入れることができない。
いつまで経っても、封筒の表書きを見つめるだけだった。
これを病院へ持っていって、まずは看護師長に話し、それから事務局へ行って上司に提出すればいい。
何もかもが終わったら、家に真っ直ぐ帰って、直ぐにベッドに潜り込む。
眠りたい。
ぐっすりと、深く。
そう思っては、毎回手を止める。
手を止めては、環のことを考えた。
乗り越えるとか、忘れるとか、そう単純な話ではない。
双子で産まれ、いつも一緒に笑ったり、泣いたりしてきた。
食べて、寝て、起きて、遊ぶ。そうやって、生きてきた半身のような存在だったのに。
あれは6歳の時。『死』という圧倒的な力によって、呆気なく連れ去られてしまった。
握っていた辞表を引き出しへと仕舞う。
そして病院へ戻り、患者の死を目の当たりにする。
それを繰り返す。
環が亡くなった時、自分が持つ能力に気がついた。
自分は過去に戻ることができるし、時間を遡ることができる。
たまちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だと駄々をこねて、看護師に屋上へと連れ出されたあの日。
環が元気だった頃に戻りたい、環と一緒に暮らした日に帰りたい。
そう思いながら病室へと戻ってみると、環の目が開いていた。
驚いたのだ。何が起こったのか、まるでわからなかった。
「た、たまちゃん‼︎」
ベッドに駆け寄る。
すると環が弱々しい眼差し、弱々しい声で言った。
「まあちゃん? まあちゃんが、やったの?」
「わ、わかんない……」
環は、薄っすら微笑みを浮かべて言った。
「でも時間を戻してもね。またわたし、死んじゃうの」
「イヤだよ、たまちゃん。わたしも一緒がいい」
「うん、……一緒が、いい……たまきもまあちゃんと……」
ゆっくりと閉じていく目。スローモーション。
「たまちゃんっ‼︎」
もう一度、願った。
時間を戻して欲しい、と。
「たまちゃん、嫌だよ。たまちゃん‼︎ 目をあけて‼︎」
けれど、次には戻らなかった。どうやってその時、時間を戻したのか、それすらもわからなかった。
「お願い神さま‼︎ たまちゃんを助けて‼︎ お願いぃ……」
そして。
環は去った。
大勢の黒服の男たちが次々と病室に入ってきて、ストレッチャーに環を乗せて、病院の廊下にガラガラと音を響かせながら、そのまま連れ去っていった。
「たまちゃん‼︎ 待って‼︎ 嫌だあ、待ってえ……」
追いかけて、病院の廊下の真ん中で転ぶ。けれど転んで床に打ちつけた痛みなどは覚えていない。
倒れたまま泣きじゃくり、環の名前を繰り返し叫んでいたことを思い出す。
思い出せば、胸が。そのたびに痛んだ。痛みを力に変えて、看護師になった。
成人式を迎える頃。
過去に戻る力を使いこなせるようになった。
けれど、それは数分、数時間が限界だったため、十数年も前に失った環を取り戻すまでには至らない。絶望感でいっぱいになった。
「……ど、どうして、」
最近のことだ。
人には秘密にしてきたその力をどうやって見つけたのか、政府の役人とやらがやってきて言った。
「我々にご協力をいただきたいのです」
「ど、どうして、私なんかを?」
自分のことをなぜ知っているのか。詳しい話は、まだ聞いていないし、できていない。
「ただ、タイムリープはできるだけ避け、どうしてもの場合は10分以内に留めてください」
最初から最後まで正座を崩さない男。姿勢を正して言った。
「話せる時が来たら必ず、全てを話します」
とうてい公務員とは思えない風貌だったが、真剣な眼差しにほだされてしまった。
「このことはもちろん内密に。それからお願いがあるんですが。……俺と恋人同士になってもらえませんか?」
結婚を申し込むような姿勢から、それを崩して胡座をかいた。真剣だった表情に、薄っすらとした笑い。
「あはは、驚かせちまったな。いやいやもちろん恋人同士のふりってやつな。こんなオッサンで悪りいけど」
川瀬は再度、辞表が入っている引き出しを開けた。
そして、環を思い出す。
けれど、引き出しを閉めてしまえば、また明日から勤務が始まる。
「まあちゃん。ねえねえ、まあちゃんってばあ!」
甘える時、何度も何度もまあちゃんと呼んだ。甘えた声が、今でも胸に響いている。
6歳までの、たった6年間の環との記憶。
川瀬の頭の中ではまさに、行き先を見失った一艘の舟のように、ゆらゆらと漂っている。