立入禁止区域
コンコンというノックの音で目が覚めた。
「あ、はい」
梶井は慌てて起き、まだふらふらとした覚束ない足取りでドアを開ける。
男がひとり、その場に立っていた。
綺麗な顔立ちに、梶井の背筋がしゃんと伸びる。よれていたTシャツを伸ばしながら、寝ぼけまなこな目を手でこすった。
「大賀 慎也と申します。施設の中をご案内したいのですが、出直しましょうか?」
「すみません、ちょっとウトウトしちゃって。大丈夫です、行きます」
回らぬ頭で、切れ長の目が印象深いなあ、そう思っていると、
「では、こちらへ」と、さっさと歩いていってしまう。
梶井は慌ててドアの鍵を取って閉めると、大賀の後をのろのろとついていった。
「梶井さん、お話は安居さんから伺っております。背が高いですね」
またその話か、そう辟易しながらも大賀の後ろをついていく。
大賀は水無よりは背は高いが、梶井よりも頭一つ分低い。
先ほど、水無の髪型に驚かされはしたが、この大賀には突っ込む要素は一つとしてない。
第一印象は堅物、真面目、そして潔癖。
それはこうやって道案内をしている間にも、ゴミ箱の開けっ放しの蓋を直したり、時々落ちている紙くずなどを拾って捨てたりという行動からも見て取れる。
整髪剤でまとめたクセのある黒髪。黒縁の眼鏡。水無と同じ白衣姿だが、断然この大賀の方が『研究者』だ。
「ここが水無先生の研究室です。もう先生にはお会いになりましたか?」
「はい、さっきここに着いた時に」
「そうですか、では先へ」
大賀の斜め後ろから見る。
ファイルを持つ右手の動きが少しだけぎこちないように見える。
梶井の視線に気づき、大賀が口を開いた。
「すみません、右手が少しだけ不自由で。ご迷惑になることはないと思いますが」
「あ、いえ、こちらこそすみません。じろじろと。失礼でした」
「もともと左利きなんで、日常生活に差し支えのない程度ですが、何かあったら言ってください」
(……もともと?)
少し引っかかったが、「はい、わかりました」と答える。
二人並んでそのまま少し歩くと、廊下の角に立入禁止の看板が見えてきた。DO NOT ENTERの赤い文字。
その手前でストップし、大賀が振り返った。
「ここは立入禁止区域ですので、絶対に入らないでください」
何だろう、そうは思ったが、立ち入りを制限されている場所はどこの研究施設でもあると思い直して、頷く。
「そんであの……これは何なんすか? 掃除中かなんか?」
立入禁止の看板の隣には、もうひとつの看板。
「ああ、これは水無先生の趣味です。至るところに意味のない看板を置くのが好きでね。こう言ったらなんですけど、ここ(立入禁止区域)で床が滑るなんてことは、あり得ないでしょう? トイレじゃないんだから」
「……そっすか。そーすね」
「迷惑な趣味ですけど、少し考えればわかりますから、それで判断してもらえると助かります。立ち入り禁止の方は本物ですから、注意してくださいね」
「……了解です」
変人か? 首を捻りながら、梶井は先へと進む大賀の後をついていく。
「……ちなみにさっきの『足元注意』の看板ですけど、あのイラスト自体が気に入っているらしいです」
「あの、スリップ注意の? 人が足を滑らせているイラスト?」
「そう。イラストの人物の滑り方の角度がミソなんだそうです。滑ったあとは絶対に、床で頭を打ってるはずだって主張してくるわけです」
「…………」
心の中で、「変人」決定の烙印を押す。
「何か質問はありませんか?」
「水無教授は、何歳なんですか?」
間髪を入れずの質問に、大賀がふっと吹き出した。
頬をふくらませたその表情に、幼さが戻る。
梶井は実は大賀の見かけと中身には、相違があるかも知れないと思った。
「31です。ここに来る研究者がみんな、それ聞くんですよ。この人が本当にあの有名な水無先生ですか? と同じ確率でね」
「31⁉︎ やべえマジっすか」
31歳ということは、安居が12年今の生き時計係を続けているのだから、少なくとも19歳より若くして、このデボラシステムを構築したことになる。
「逆算してます? 彼は真の天才ですよ」
「スリップくんの行く末まで計算してるんですから、そうだと思いますよ」
「はは。そうですね。彼は……哀れなgeniusだ」
大賀が最後に言った言葉。それは口の中でこもり、梶井にはよく聞き取れなかった。
♦︎大賀 慎也 : 研究所の『研究室』室長。水無教授の右腕。日本人純血種。綺麗好き、整理整頓好きに加えて、自分への評価は厳しめ。安居いわくクールビューティ。




