偽のαウォッチ
(相変わらず仕事が早いなあ、安居さん)
濡れた両手をハンカチで拭きながら、トイレから出る。
蓬莱 要はゆっくりと『デボラシステム』のDルームに戻ろうと、廊下を歩いていった。
今日のオペレーション室の担当は、戸松 小夜梨だ。
あの、ちゃらんぽらんで騒がしく、ミスの多いルーイー=リャンとは、安心感が格段に違う。
先日。
所在不明(本人はトイレと言い張っている)となったルーイーの代わりに、帰宅間際だった梶井が、『デボラシステム』を担当したという話を聞いた。
「僕の担当日じゃなくて、良かったなあ」
さすがの安居も今度ばかりは、ルーイーに雷を落とした。
「お前なあ、マジで減給にすんぞ」
「ヤダヨーヤダヤダ。お給料減ったら、ダーリンに殴られちゃうからっ」
「はあ⁉︎ 殴られる前に殴ってるだろ、お前はあ。この前もテコンドーとかなんとかでその愛しのダーリンをぼっこぼこにしただろ」
「安居サーン、それクラヴ・マガね。ぼっこぼこ? ソンナコトナイヨー。これでもちょー可愛がってるんだから」
「とにかく、今度やったらお前のボーナスで俺の車のローン組んじゃうからな」
「いやあああ」
二人のやりとりを聞いているだけで、どっと疲れが出る。
蓬莱は苦く笑いながら、Dルームへと入った。
「それより、梶井さんを水無教授のところに、異動させるなんて」
今回の人事異動、必要に迫られたのかな、と蓬莱は思った。
ルーイーがこっぴどく怒られてから課長室を出た後、その場に残った蓬莱が、安居と交わした筆談の内容を頭に思い浮かべる。
『安居さん、梶井さんですけど、例のNo.n3847265の動きに、気付いてましたよ。よくもまあ、あんな一瞬のできごとを捕捉できますね。ほんと感心する』
『あいつなぁ。クソ生意気だけど意外と繊細なんだよ。枝豆の皮を1列に並べるって、すげえ技もお持ちだ』
『なんですかそれ。とにかくその場では何とかごまかしましたけど、次にオペレーション室に入る時には、気づかれるかも』
『時期尚早だなあ。まだ川瀬 町子とは会わせたくねえ。とりあえず、手を打つから、お前は普段通りの蓬莱ちゃんでいけ』
この紙面上の対話は直ぐにシュレッダーにかけられた。ガガガっと細い紙が吐き出されてくるのを、蓬莱は安居の部屋で確認している。
(E地区辺りに飛ばすんだと思ってたけど、まさか水無教授の所とはねえ)
Dルームの長椅子にごろんと寝そべる。
(何か妙案でもあるのかな、安居さん)
蓬莱は、腕を伸ばすと、ちらと左腕にあるαウォッチを見た。
国から支給される、このαウォッチ。
普通なら子どもの出生時、市役所に出す出生届と交換で手渡される。
そしてほとんどの親は可や不可などの思い悩むことなく、さっさと子どもに与えてしまうのが常識だった。
それは、このαウォッチが本人のバイタルチェックも兼ねているからだ。
子どもには健康に過ごして貰いたい、もし病気があるなら早期に発見治療したい、そう願う親の気持ちも分かる。
(実際、自分の親もそうだったからなあ)
蓬莱は物心ついた頃からすでに自分の腕に着けられて以来、今はもう身体の一部と同化している時計をそっと触った。
αウォッチの寿命は10年。
よって、現在二十四歳の蓬莱のαウォッチはこれで3代目になるはずだ。
けれど今。
着けているこの時計は、実際は4代目。
山奥のラボの一室。
デボラシステムを創った張本人、水無教授から、この4代目αウォッチを手渡された時に言われた言葉を思い出す。
「蓬莱くん、本当に良いんだね。後悔はしないかい?」
「良いんですよ。僕、このまま自分を騙し続けることの方がきっとこの先、後悔することになると思うから」
その時、同席していた安居が、珍しく顔を歪めて苦笑したのを覚えている。
「じゃあ、これね。これで蓬莱くんは自由だよ」
水無教授が、差し出した蓬莱の左手首に、αウォッチをはめる。
「でも安居さんに関してはその役職上、厳しい監視がつきまとうからね。この蓬莱くんにあげたαウォッチのように、小細工なんかしたらモロバレだろうし、だから安居さんにはこういうフェイクは用意できないんだ。悪いけど、安居さんと話す時は君も気をつけるようにね」
「筆談なら、大丈夫ですか?」
「うん、これは安居さんにも言っておきたいんだけど、冷静に落ち着いて会話すること。それが第一条件だね。まばたきの回数の増減から、バレる可能性もあるから」
ドキドキするの厳禁ね、水無が微笑みながら続ける。
「後は、会話はなるべく長くならないようにした方がいい。ボロが出てしまうかもしれないからね。蓬莱くんにあげたαウォッチは、絶えず冷静な状態の身体情報を送り続けるように細工してあるから、多少ドキドキしても大丈夫だけど。あ⁉︎ でももし彼女に振られたりしても、感情のない冷たい男だと思われることになっちゃうなあ」
へらっと笑う水無。
蓬莱は改めて思った。
目の前にいるこの人物、水無 想。
それが秘密裏とはいえ、(世界に冠たる)『デボラシステム』を構築した天才の中の天才。
それなのに本人は、ともすると吹けば飛んでしまいそうな、そんな薄幸の雰囲気を身にまとっている。
驚異的な頭脳と引き換えに生命力の大半を奪われでもしたのかというような、そんなひょろっとしたモヤシのような第一印象。そんな第一印象は、結局今も覆ってはいない。
「大丈夫ですよ。僕、見た目も冷たい印象みたいですから」
蓬莱がそう答えると、水無はその深い漆黒の瞳を、驚いたという風に見開いた。
「ええぇ。蓬莱くんからはそんな印象、全然受けないけどなあ。人当たりもいいし、すっごく善い人に見えるけど」
人との交流を億劫に思う、研究一筋の大先生でも、そんなお世辞が言えるんだなと、たいそう驚いた記憶がある。
(安居さんの、影響かもな)
ちょくちょくこの研究施設に顔を出しているこの人たらしなら、『人間嫌い』の教授も懐柔できそうだ。
「そんなことねえって。こいつ、優男に見えて結構したたかだぜ。ポーカーフェイス装っちゃって、可愛げがねえったら。そこが分かんねえなんて、水無先生はまだまだだなあ。なっ、蓬莱ちゃん」
そう言って、蓬莱の肩をバシンと叩く。
わははと大口を開けて笑う安居の人柄に、水無は引っ張られているのではないか。
そうなの? と安居の隣で弱々しく笑う水無。
蓬莱は正反対の二人を前にして、同調して笑うのが良いのか、それともこのまま鉄面皮を貫くのが良いのか、迷った。
♦︎水無 想 : IQ計測不能とも言われるトップクラスの頭脳を持つ天才。飛び級制度により大学在学中に教授となる。十代後半で若くして『デボラシステム』を開発、初期の運用を全面的に任される。現在は引退し、山陰地方の山奥のラボで研究中。弱々しい。吹けば飛んでいく。趣味はαウォッチを面白く改造することと、謎の看板収集。