セプテンバー2
次の日。
英明塾にりさが一番乗りだと思いきや勉強部屋に赴くと昨日来た里中が席について俯いて黙り込んでいた。
「昨日来た里中君だっけ。おはよう」
「おはようございます」
恭しくりさにとって堅苦しい挨拶をしてくる里中。
「別に敬語じゃなくても良いよ。普通にタメ語でも。私たちは同じ受験生でタメなんだから」
「そうですか」
「里中君は明治受けるんでしょ。私は中央に行ってやるって感じ。お互いにがんばろうね」
握手を求めるりさ。だが、
「その件ですが僕は分からなくなりました」
「ハッ?」
疑問の言葉を吐き出すりさ。
「昨日梓先生が言ったことがモットーだと思って」
「そのことなら気にしない方が良いよ。姉さん私たちの気持ちも知らずに一方的に言ったことだから。それに姉さんものすごく反省しているみたいだから」
「何か僕は恥ずかしくなりました。明治明治って言っていた自分が」
「ヘッ?」
里中の発言にきょとんとする。
「本当はどこの大学でも良いのにそうやって良い大学に行って人を見返すなんて。はっきり言って傲慢だと思いますし、自分が嫌になりました」
「・・・」
里中の発言にりさは自分も恥ずかしくなり言葉をなくす。
「だから僕は何の為に大学に行くのか一から考えていこうと思いました」
「・・・」
里中の発言に心打たれ自分が何をやっているのかと自嘲したくなってしまうりさであった。
「それに昨日のあなたを見ていたらお言葉ですがすごく見苦しかったです」
里中はそう言って部屋から出ていった。
里中に見苦しいなんて言われて傷つき恥ずかしくなったりさ。それに何のために勉強しているのか分からなくなった。
そんなことを思っていると今部屋で勉強している自分が嫌になった。
気がつけばりさは風が吹く河川敷に足を運んでいた。以前梓につれていってもらったところだ。
ちょうどその頃グラウンドに少年たちが野球をしていた。りさは何となくそれを眺めて考えごとをする。
確かに里中が言っていた学歴で人を見返すなんて傲慢だ。そんな人間にはなりたくない。でも高学歴の人間は持てるし社会では一目を置かれる。学歴なんて関係ないって言っているけど、そんなのは綺麗ごとだなんて言いきれない自分がいる。それは英明塾の人たちはみんな優しい連中ばかりで人を学歴などでは判断したりはしない。でも中学の時、りさが好きだった男は進学校に通っていて中央を受けると言ったから私も無謀ながらも便乗した。勉強もうんざりするほどやった。その希望も見えてきたけど、りさの動機はなんだか不純しているし、そんな自分が見苦しい。もうどうすればいいのか分からない。とにかく勉強 しなきゃ。
良いよ傲慢でも。私は中央に行くって決めたんだから。せめてその信念を貫き通そうじゃないか。
りさは英明に戻り勉強部屋で勉強を始めるが、ものの数分がたち手に着かなくなってしまった。
自分でも分からなかった。なぜ手に着かないのか。
それでも続けようとして頭の中がパニックになり思うように続けられない。
さらにそれでも続けようとして頭の中が真っ白になり思うように集中できなくなり、それがいらだちに変わり右手に持っているシャープペンシルを黒板に投げつけ仕舞には涙が溢れてきた。
「なんだよ。どうしてだよ。訳分からないよ」
自分でもどうしたのか訳が分からずにそう呟いていた。
そんなときである。
「りさ頑張っているか?」
意気揚々に英明塾に出勤してきた梓だった。
その傍らに十歳ぐらいのいたいけな少女が梓のワイシャツを掴みながら俯いて親指をかじりながら立ち尽くしている。少女は赤いワンピースを着込んでいてかわいらしい。
りさは涙を見せないように拭って、
「何」
と機嫌悪く素っ気なく言う。
「どうしたんだりさ。泣いていたのか?」
心配する梓。
「別に泣いてなんかないよ」
「勉強する前に紹介するよ。この子朝倉みゆきちゃん十歳。よろしくしてあげて」
梓にひっついていた女の子はみゆきと言うらしい。
「そう」
「何よ元気ないじゃない」と梓はみゆきちゃんにりさを注目させるべく「そうだみゆきちゃん。得意なデッサンでこのりさお姉ちゃんを描いてみてはどう?」
「みゆきが?」
「ほらりさ勉強の息抜きにみゆきちゃんにデッサンしてもらいなよ」
にっこりとりさの方に手を添えそう促す梓。
「別に良いよ」
もはやりさの機嫌は一色即発の雰囲気だったことは今の梓には分からない。
「ほらりさ」
「さわがないでよ」大声で張り上げ梓はきょとんとしてみゆきは梓にしがみつきおびえている。続けてりさは怒りの勢いに乗って「ここは勉強するところだろ。そんなガキ入れてくるなよ。デッサンだったらよそでやってくれよ」りさは言った後にハッと我に返り辺りを見るとみゆきちゃんが泣き出してそれを梓が宥める。機嫌が悪かったとは言えひどいことを言ってしまったことに取り返しがつかない。りさは思い切り目をつむって梓に叱られることを覚悟した。
だが梓は叱るどころか、にっこりと笑って優しい口調で言いかける。
「どうしたんだりさ。何があったんだ?私でよければ話してくれないか?」
「帰る」
とりさは一言言って勉強室から出て玄関に行ったところで梓に、
「りさ。明日も待っているからね。あんまり無理しちゃだめだよ」
と梓は再びりさに対して優しく言う。
なぜだかそんな優しさにりさは涙腺が故障したかのように涙が止まらない。
涙を見せないように振り返らずにりさは外に出た。
なぜだろう梓の優しさが頭から離れずにその思いにふれてみると拭いきれないほどの大量の涙が出てくる。それにこの勉強に集中できなくなった無力感。
この状態のまま原付を運転するのは危険なので泣きながら家まで引いて帰った。
自宅に到着しても涙が止まらない。
部屋に戻り何もやる気も起きないのでベットに横たわった。
涙も落ち着いてりさは心の中で里中に言われたことを思い出していた。
里中にあんなことを言われたから勉強が手に着かなくなった。全部あいつが悪い。とは言い切れない。それは良い大学に行って人を見返すなんて傲慢だという里中の意見は間違ってはいない。でも私は中央に行くという信念を貫きたい。だからっていい大学に入ってみんなを見返したいなんて、やっぱりそんなの傲慢な考え方だ。学歴のある奴は世間から一目を置かれるのできれいごとなんて言っていられない。でも英明塾の連中は人を学歴などで判断したりはしない。でもりさは自分の信念を貫くために中央に行きたい。でも良い大学に行って人を見返すなんて傲慢だ。
ああ、もう考えたくない。頭が壊れそう。もう死にたい。出来れば海の底でものを言わない貝になりたい。でも死ぬ勇気がない。じゃあ私は何のために生きているの?何のために大学に行くの?それはボランティアで、保育の仕事を手伝ったときにかわいい子供たちと戯れて楽しかったから。だったら教育学部ならどこの大学だって良いじゃん。中央に行く信念などどうでも良いじゃん。じゃあ何で社会は優秀な大学出をひいきするんだろう。それが世の中をおかしくしている根元の一つかもしれない。
知的障害者の愛梨お姉ちゃんや行き場をなくした英明塾の生徒達はなぜか世間から迫害されてきた。人の世ほどおかしいものなどないみたいだ。
だったら私は世間が言う最低な大学でも良い、そこから私はこう叫んでやる。『ガールズビーアンビシャス』と。
何だろうこの気持ちのいい暖かい温もりは?幼い頃私はこの温もりの中で育ったと言っても過言ではない。悲しみの涙から喜びの涙へと変わる瞬間だった。いつも安心していた。形にはないし、ましてや色もない不思議な感触。
気がつくとりさは眠ってしまったみたいだ。
起きあがろうとしても何かりさをすごい力で押さえつけられている感じがする。
りさは暗闇に化した部屋で目を凝らすと愛梨が強い力でりさを抱きしめ眠っていた。
「ちょっとやめてよ愛梨お姉ちゃん。子供じゃないんだから」
りさは愛梨を引き離そうとするが愛梨は強い力でりさを締め付けるように抱きしめている。
「りっちゃんは悲しんでいるって梓先生から聞いたよ。だから愛梨ちゃんがこうやって慰めてあげているの」
「分かったから離してよ。私はもう子供じゃないからもう良いよ」
本気で引き離そうとするが愛梨は強い力でりさを抱きしめる。
「だってりっちゃんが悲しんでいると愛梨ちゃんも悲しくなっちゃうんだもん。だからこうやって愛梨ちゃんはりっちゃんを抱きしめてあげているの。昔りっちゃんがいじめられて帰ってきたとき愛梨ちゃんがこうやって抱きしめてあげたらりっちゃんは安心して眠ったもん。だから愛梨ちゃんはこうやって抱きしめてあげているんだもん」
もがくりさだが愛梨はりさを離さない。
もう好きにしろって感じで愛梨に包容される。
りさは昔から知的障害者を持つ姉の愛梨がいるという理由でいじめられてきた。そんな姉を憎んだが、今思うといじめられてよかったと思っている。愛梨は知的障害者で知能が遅れているからという理由で世間から迫害されることを余儀なくされてきた。でも愛梨は勉強や知識などよりも十倍、いや百倍と言っても過言ではない大切なものを持っている。それは人を慈しむ純粋な心であり、簡単に言えば愛である。どうしてこんなに大切なものを持っている人間が迫害されるのか?世の中障害を持っていないほとんどの人間は俗物にとらわれているつまらない人間ばかりだ。りさもその一人の人間であったことに自分自身を自嘲したくなる。
愛梨に包まれたりさはそのまま朝を迎える。
りさが目覚めどうやら気づかぬうちに泣き寝入りをしてしまったみたいだ。昨日は愛梨や梓の優しさに泣いてばかりだ。それに里中の発言に。一生分の涙を流した気分だと思っているりさ。それともう一つ勉強よりも大切なことを学んだ。
窓を開け太陽の光と初秋の過ごしやすい空気にさらされ気分は最高である。
目を閉じ胸に手のひらを添えて生まれ変わった気分でもある。
「りっちゃん」
と台所の方から愛梨の声が聞こえる。
「今行くよ」
とりさは台所に向かった。
台所に近づく度にマーマレイドの甘い香りがする。それに目玉焼きを焼く香ばしい音も。家族がそろった幸福の食卓が始まりみんなおいしそうにトーストの上にマーマレイドを塗って頬張る。
「りっちゃん」
「何愛梨お姉ちゃん」
「愛梨ちゃん梓先生に聞いたんだけど、機嫌が悪いからって十歳ぐらいの女の子のみゆきちゃんって子にひどいことを罵ったって聞いたよ。ちゃんと謝るんだよ」
りさを叱る愛梨。
「分かった」
素直なりさ。
朝ご飯を終えりさは原付で英明塾に向かう。
初秋の空気にさらされながら街路樹のイチョウの木を見ると葉は色あせかけてりさの大好きな秋に染まろうと季節が変わることについ微笑んでしまう。
大切なのは勉強じゃない。りさの周りにいる人たちが教えてくれたことだ。じゃあ大切なのは何なのか?それを探す旅に出かけるんだ。
それよりも早く昨日迷惑をかけた梓やみゆきに謝らなくてはならないとりさは思う。
英明塾に到着して梓の原付が見受けられ、どうやらりさより早く来ているようだ。
「おはよう」
と言って勉強室に入ると梓がみゆきにかけ算を教えている。
「りさおはよう」
「・・・」
みゆきは怯えている。
「姉さんにみゆきちゃんだっけ。昨日はごめんなさい」
深く一礼をして誠意をもって謝った。
「まあ私は良いんだけどさ」と言ってみゆきちゃんの方に話を向け「みゆきちゃんはどうする」
「ホーリーセッカン」
りさに真摯に言いかけるみゆき。
「ハッ何それ?」
「最近秋葉原で人気のアニメ美少女御子ナナの主人公のナナの必殺技よ。りさもセッカンされたら」
ニヤリと笑って梓が言う。
するとみゆきはナナのおもちゃの大幣を構え、
「正義も悪もどちらも愛の化身ホーリーセッカン」
とみゆきはりさの頭上から思い切りおもちゃの大幣を振りかざしりさの頭に直撃した。
「いったーい。何するのよ」
憤るりさ。
「これでりさお姉ちゃんの悪い心はなくなりました。だからりさお姉ちゃんはみゆきとお友達」
にっこりと笑って握手を求めるみゆき。
りさは昨日の一件と比べればこのようなことはやすい代償だと考えよろしくと言わんばかりに握手をする。でもたたかれた頭をさするとたんこぶが出来ている。どうやらみゆきの洗礼なのだろうと思うりさ。
みゆきの勉強が済んでりさは梓に相談したいことがあった。
「どうしたんだりさ?私に相談なんて珍しいじゃない」