6_18 パニック
尖塔の最上階から落ちてきたした男は、昇降のための登り梯子の脇を抜けて石畳に叩きつけられた。
交通事故のような鈍い音を立てて数枚の石畳を割り、いくつかの破片が周囲に飛び散る。
「キャー―――――ッ!」
「なんだ、飛び降り!?」
突然のことに、ごった返していた周囲の人間たちは驚きの声を挙げた。
パーティードレスを着た婦人の一人などは、卒倒しそうになり思わず同伴していた夫に助け起こされたほどだ。
城内は既に興奮と恐慌が混ぜ合わされたるつぼと化していた。
神造裁定者に選ばれた祝福者を迎える祝宴だったはずが、今やそれどころではない。
『竜』が大挙して発生したのが目撃されたという一報を受けて、領主はただちに非常事態を宣言した。
城兵たちは兵舎から飛び出して中庭に整列し、伝令たちは馬に飛び乗り近隣の村々へ布告へ向かった。
が、城内の守備体勢を固めるのにはひとつ問題があった。祝宴に呼ばれた多数の客のほとんどはまだ居館の中にいたのである。
てんでに逃げ出そうとする来客となんとか鎮めようとする領主側・悲嘆にくれるものたちがごった返して、中庭は収拾不可能の混乱の極みにあった。
なまじ有力者たちが集まっているだけに城兵たちも遠慮が混じる。
ある者は馬車を呼ぼうとし、ある者はすぐさま上げられた城門の跳ね橋を下ろすよう兵に向かって唾を飛ばし、ある者は勝手に塀を乗り越えて逃げ出そうとして慌てて引きずり降ろされていた。
そんな時に尖塔の上から男が一人飛び降りてきたのである。
落下した拍子に誰かを巻き込んで事故が起きなかったのはほとんど奇跡に近い。
悲観した誰かが早まって飛び降り自殺をしたかと周りの客たちが輪を作るようにして遠巻きに様子を伺う中、城兵の幾人かが慌てて近寄って来た。
客たちの間に更に驚きの声が起きた。
捨てられる前の案山子のように石畳の上に転がり落ちた"エカント"が、むくりと起き上がったのだ。
石畳に衝突する間も手の中で守っていた注射器を片手に、変形して今にもずり落ちそうな鉄仮面を顔にぶらさげたままあたりを見回す。
「ああ、皆さん落ち着いて。大丈夫、大したことはありませんから」
悲鳴を上げる周囲の人間に向けて、飛び降りてきた男は手のひらを向けて鎮めようとさえしている。
呆気に取られた城兵たちの間を抜けるようにして、顔に青筋を立てた城主が見た目に反して機敏な動きで飛び込んできた。
「何ごとか!何故捕えん!侵入者だ!」
男を見るなり領主は断じた。
城内の守備を差配していた緊急時だというのに、不審な自殺志願者にかき回されてはたまらないといった風である。ただでさえ主賓である祝福者がどこにいるのか分からずに困惑していたこともあった。
怒り心頭といった表情で、城兵に牢の方を指さす。拘束してぶちこめと命じているのだ。
「弱ったな。あいにく招待状は持ち合わせてないんです」
「黙れ!誰だ貴様は!祝福者様とシスター・オデットはどちらだ!」
「それを聞いてどうするんです?」
「もちろん安全な場所にお連れする!『竜』の大群が来ているんだぞ!」
"エカント"は相変わらず芝居がかった動作で肩をすくめた。『竜の大群が押し寄せているのに、そんな場所がこの城の中にあるのか』と言いたげだ。
そのことがますます領主の神経を逆なでした。
「こいつをひっ捕らえ――――――」
「ああ、落ち着いて。皆さん!どうかお願いです。私の言うことを良く聞いてください!!」
絶叫する領主の声よりも、落ちついた男の声の方が不思議と辺りの人間の耳に良く届いた。
喧騒が急に鎮まり、皆が一時立ち止まり聞く姿勢に入る。
その瞬間。
男は右手に握りしめていたままの注射器を自分の首筋に突き立てた。
領主と周囲の人間が驚きに目を見張る間に、中身の液体がみるみる体内に吸い込まれる。
<<慌てず急がず、礼拝所の中に入ってください>>
……続く男の言葉に、その場にいた領主も客も城兵も全てが動きを止めた。
一拍置いて皆が凍り付いた表情のまま、ぞろぞろと静かに城の礼拝所へ目指して更新を始める。
「そうそう。こんなことで巻き添えを食ったりしたらバカバカしいですからね」
一人だけ中庭に残った男は、空になった注射器を放り捨てるとちらりと塔の上へと目をやった。
「さて……。心残りですがお暇しましょうか。何、待つのは得意です。何せ50年も待っていたんですから」
言いながら、もう頭巾に引っ付いているだけといった有様の鉄仮面を外した。
初めてその顔が外気に晒される。
少し面長だが目鼻立ちの整った顔には皺ひとつない。むしろ果物を思わせる張りのある肌と血色の良い色艶をしていた。
塔の屋上を名残惜しそうに眺めるその両の瞳は、流れ出したばかりの血を思わせる鮮紅色だった。
「また会いましょう。私はいつだって心待ちにしていますよ。あなたたち『混ぜ合わされたもの』たちのことを思うだけで、実に心が躍る」
それだけ言うと、"エカント"は城の奥の暗闇の中へと消えていった。
後には空の注射器とひしゃげた鉄仮面だけが残った。
――――――。
「何、何なの!あれ!?」
つまみをいじろうが竜頭を回そうが一向に動きを止める気配のない銀時計を手の中で持て余しながら、ミハルは背中側にあるオデットの頭へ向けて尋ねた。
先刻窓枠越しに見えた大量の生き物。
数が多過ぎて地形の稜線が漠然とうごめいて見えるほどで、どう見ても尋常な光景ではない。
一晩で色々なことが起こり過ぎて疲労の極みにあったミハルだが、今度こそ輪をかけた非常事態なことくらいは察せられた。興奮し過ぎて目が血走っている。口の中でアドレナリンの味がしそうなくらいだ。
「『竜』だ!」
「『竜』!?」
「人類の天敵!千年前にこの世界を半分焼いたクソったれどもだよ!」
バケツ型の兜を被り直したオデットが吐き捨てる。
少年を肩に担いだ恰好で、その足は三段跳びに螺旋階段を下りていく。鎧を着たまま人ひとりを担いでいるとは思えない速度だった。
(この世界の女の人って、皆強いの!?)
先刻大の男6人をあっという間に打ちのめした手腕といい、その頑健さにミハルは恐れ入る他ない。ファム・アル・フートが異常頑丈だと思い込んでいたのだが、決してそういう訳ではないようだ。
「天主に籠るよ!」
「天主ってどこ!?」
「一番防御が硬いところ!この城なら礼拝所の上!」
言いながらオデットは昇降口に達していた。
何の躊躇もなく、10m以上はある手すりも何もない木製の梯子を踏んで、ほとんど落ちるのと変わらない速度で石畳へ達する。
(ひえぇえぇぇ……!)
目の前で急速に上方へと順送りにされていく梯子の段と塔の外壁が目に飛び込んでくる。まるでジェットコースターに乗せられているような内臓が浮遊してせりあがる感覚が腹腔の中で大きくなっていく。
ミハルは叫びたくなるのをこらえながら、もう操作を諦めて蓋をした銀時計を取り落とさないように必死に両手で握りしめていた。




