1_8 "ファイルーズ"
そんなこんなで忙殺されて、ファム・アル・フートがパートナーと肌を合わせることになる日は遅れに遅れた。
重要度の低い行事に丁寧に断りを入れ、なんとか時間を作って一人でいられる時間を確保できたのは出立の前日になってからだ。
頼み込んで人払いをしてもらい、聖天使城の奥まった祈祷室を私用に使わせてもらえることになった。
球戯場の半面ほどの広さの部屋には自分ひとりしかいない。
石敷きの部屋の中にはしんと冷え込んだ空気が滞留している。
身が引き締まるような気持ちで、ひざまずいてファム・アル・フートは壁一面に描かれた壁画に向かって祈りを捧げた。
描かれてから経過した時間古を示すようにところどころ剥離しているが、極彩色で合戦場の情景が描かれている。
かつて世界の半分を焼いたという人と竜の戦いの最中。画面の中央で神々の命によって舞い降りた天使が光輪をまばゆく光らせ、竜を退散させている構図となっている。
絵のどこにも作者の署名はなく、名前も伝わってはいない。
最近流行りの遠近図法や細密画の技術が使われたものと比べるとひどく素朴な絵柄だ。
が、それが逆に竜たちの脅威や天使の威光を伝えていると女騎士は思う。
ひざまずいて口中で聖句を唱え、祈りを捧げ終わってから、ファム・アル・フートは直立した。
常衣に手をかけ、するすると脱いでいく。
相手は既に傍らで準備を整えて待っていた。
パートナーと言ってももちろん伴侶となる祝福者ではない。
どちらかというと相棒―――聖務を受けた日に神造裁定者より与えられた鎧のことだ。
これまでのイベントでは礼服だのドレスだのコルセットだのでコチコチに固められてきたが、やはり出立の儀式は鎧ではなくては。これは騎士としての矜持で、譲れない一線だった。
父より与えられたなじみの甲冑に愛着はもちろんあるが、やはり聖務の始まりに相応しいのは神造裁定者より授かったこの一式以外あるまい。
そう言ってオデットや周囲をを説得して時間を作ってもらった貴重な時間だ。無為に過ごす訳にはいかない。
てきぱきと済ませなくては。
最後の一枚に手をかけてから……念のため戸締りには再度の厳重な注意を払い……、一糸まとわぬ姿になる。
教会から頂いてきた聖水を壺からタライに移すと、手ぬぐいで体を拭いて清めていく。
本当は沐浴したいところだが、今自分が市内の浴場を使えば大騒ぎになってしまう。
宿舎かホテルの部屋にお湯を運ばせることも考えたが、傲慢な振る舞いのように思えて気が引けたので、このような簡単で潔斎を済ませることにした。
全身を清め、髪を洗ったところで立ち上がり、鎧を纏う前に全身をチェックしていく。
肌の色艶や張り具合、肉の付き方を体をねじったりひねったりしながら確認する。
あらかじめ持ち込んだ姿身の鏡に映る裸身は健康そのものに見えた。
睡眠時間を削られ、運動時間を取り上げられてきた割には体調は悪くない。
むしろ気力は重大な使命を前にして充実しているようだ。
目の色、口の中の血色も健康そのもの。高カロリー高脂肪な食事が続いたのが心配だが、肥満の兆候は今のところなし。
気になるところがあるとすれば……。
目を落とす。
鎖骨の下。胸骨の間。横隔膜の上で。
柔らかい脂肪の塊が二つ、床の上にあるはずのつま先を視界から隠していた。
「……はぁ」
ため息が漏れる。
どうしてこんなものがついているのだろう。
鎧を着けていては蒸れるし汗が溜まるし、剣を振りかぶるのにいちいち胸甲の中で動いて邪魔に感じることもしょちゅうだ。
男どもからは好奇と下心混じりの目で見られるし良いことがひとつもない。
うんざりした気分になって、用意してきた小瓶を取り出す。
先輩騎士から処方を教わった特製の薬草入りの香油だ。
谷間に塗り込みながら、ファム・アル・フートは対処法を知らずに汗疹と痒みをずっと我慢し続けていた騎士見習いのころを思い出してしまい、苦虫を噛み潰したような顔になった。
将来生まれてくる我が子を育むために、この食事貯蔵庫が必要なのはもちろん分かる。
分かってはいるのだが、せめて乳房がもう少し小さければと思わずにはいられない。
そうであったら鎧ももっと機能的で、一段階は軽いものにできたのに。
少なくとも特注の胸甲を発注して鎧職人を悩ませることはなかった。
こういう時と、月に一度の天使をお迎えする日が来るたび、ファム・アル・フートは女に産まれたことを後悔し憂鬱になるのだった。
分別の力を総動員して、男に産まれなかったのは神の意思だと割り切ろうとしても、ときどき母を恨みがましく思ってしまう。
胸と尻がかさばるのは北方系の母の血であることは確かだからだ。
……いやいや、今日は晴れがましい門出の日なのだ。愚痴っぽくなるのはやめよう。
念入りに乳房の下側と脇との間に香油を擦り込んでから、ファム・アル・フートは深呼吸した。
鎧とは騎士にとって、愛馬と等しく命を託す尊い存在である。
それが神の手による神造のものとなればこれ以上のものはこの世界には存在しないことだろう。
自分がそれを纏うにふさわしい騎士であるか、それをずっと己と他人に示し続けなければならないのだ。
石畳の部屋の空気はひんやりと肌を撫でてくるが、高揚してくる気分を適度に緊張感に還元するのには丁度いいくらいだった。
支度を済ませた一糸まとわぬ裸体を、傍らにいる相手に正面から晒す。
苦楽を共にするパートナーと個室で結ばれるというのは初夜の花嫁と共通しているかもしれないが、これから自分が初めて肌を重ねるのは若い男の体ではなく金属製の鎧だ。
童子の姿をした御使いから頂いた外箱の前にひざまずく。
少し苦労して蓋を開くと、中には金属の硬質の輝きの他に飾り気のない衣服一式も収まっていた。
どうやら武具の下に纏うインナーらしい。
(……これが神の国の服なのですか?)
立体的な縫製から女物を用意してくれたらしいことは分かるのだが、自分が知っている一般的な戦着のとは材質も形もまるで違う。
とりあえず下着を探すと、それらしいものはすぐに見つかった。
三角形をしているそれはクロッチと両穴の大きさから見て股布のように見えたが、こんなに小さくてちゃんと尻を覆えるのだろうか?
つまんだり伸ばしたりして確かめてみても、伸縮性に優れていることくらいしか分からない。
……こんなことで物怖じしているようでは聖務など果たせるはずもない。
ええい、ままよと勢いで足を通すと、思い切りよく腰骨まで引き上げる。尻肉がまとめて締め付けられる気がするが我慢だ。
肌着も変わっていた。
ガチガチに鉄線で体を縛り付けるコルセットとは真逆の、袖がなく肩紐でかけるだけで胸元も大きく開いてしまうこと請け合いの代物だ。
まさか娼婦のものではあるまいな、と一瞬疑わしくなる。
鏡に映る自分の全身は女としてのなだらかな線を全く隠せておらず、なんとも頼りないが、肌触りは抜群に良いのはだけは気に入った。
続いてすべすべした短衣と裳衣を身に着けて、ようやく人心地が付く。
こちらも目新しい形はしていたが、彼女が望む服の機能はしっかりと果たしてはくれそうだ。
……さて、これからが本番である。
鎧本体に手をかける。
素手で触っても、金属的な冷たさは感じない。むしろ陶磁器のような滑らかさと安心感すら覚える。
天上世界の材質でできているのだろうが、神の技とは自分のようなものには伺い知れぬものらしい。
咽輪。
胸当。
背当。
手甲。
鉄靴。
構造自体は自分が慣れ親しんだ鎧と大差はない。
白い鎧には幾何学に沿った筋がいくつも浮かび、独特の模様となっている。
隙間にはカミソリ一つ入りそうになく、実に堅牢そうだが持ち上げてみると驚くほど軽かった。
もう一度深く深呼吸する。
今日の今までの、聖堂騎士団の単なる一員だったファム・アル・フートはたった今の瞬間消えてなくなる。
これより先は、御使いより与えられた聖務を果たすべく神の手になる鎧を纏い、ただ独りで異郷の地で騎士として生きるのだ。
もう迷いはない。力を込めた指先で鎧を身に着けていく。
……やはりというかなんというか、女騎士の体格に比してその鎧は大き過ぎた。
パーツを固定する度、着るというより着せられているという感覚が襲ってくる。
しかし神造裁定者より賜った鎧に不都合などあるはずがないと信じて、最後のヘッドセットを装着する。
彼女にとって幸運なことに、不安の時間はそう長くは続かなかった。
<<………ADVANCED-COMBAT-SPATIOTEMPORAL-EQUIPMENT-SYSTEM SET UP>>
おそらくは聖句の一種だろう。
霊験となるその音は、耳元から聞こえている耳鳴りのようであり、目の前の姿の見えない何者かが発しているようでもある。
驚きを隠せないとともに、思わず笑みがこぼれてくる。
これが神具が起こす奇跡でなくて何だろうか。
<<……本機は問題なく起動した>>
空気が軋むような音が引き絞られ声となった。
抑揚や感情というものが感じられない声質だが、高さから見て男性のものらしい。
……果たして鎧に性別があるのだろうか?
<<貴公の姓名の入力を要求する>>
名乗れということらしい。
望むところだ。
自らに出せる一番透き通った声で、これから苦難を分かち合う相棒に向かって語りかける。
「私は聖堂騎士団の騎士。バイユート家のイブン・マンスールの娘。ファム・アル・フートです」
<<…音声登録完了。神造裁定者サルヴァダマナより本機のコマンド権限が貴公に一任されたのを確認した。これより当機は騎士ファム・アル・フートの指揮下に入る>>
使う言葉の調子は自分たち騎士が使うものとはまるで違うが、はっきりしていて淀みのない喋りようだ。
そのことにファム・アル・フートは好感を持った。
「あなたは意思を持った鎧なのですか?」
<<否定する。固有の主体的価値判断を行う自我の機能は有していない>>
「良く分かりませんが、鎧に宿った精霊ということよろしいですか?」
<<……貴公の現状認識に齟齬が認められる。が、実害はないと判断する>>
鎧の見た目にそぐわぬ軽さが気になっていたが、精霊が宿る鎧に包まれていると思えば安心感の方が優るというものだ。
<<これより装備の最適化を実行する>>
突然ファム・アル・フートを中心に、何もない空中に透明な板が現れ、神の文字が次々と並び始めた。
驚きのあまり手が伸びるが、空中に浮かぶ記号らしきそれらには触れることなく通り抜けてしまう。
これも神々の奇跡なのだろう、と思い直す。
静かに心を沈め、数字らしいものが変化していくのを見守ることにした。
<<バイタルスキャンが完了。直立不動を推奨する>>
言われるがまま背筋を伸ばす。
変化はすぐに起きた。
いかなる力が働いているのだろうか。無音のまま鎧が変形し、装甲が折り重なり、組み変わっていく。
胸との隙間に拳が入りそうだった胸甲が、鳩胸に合わせた優美なラインへと変貌を遂げる。
長過ぎた手甲が勢い良く縮み、まるで最初から寸法を測ったようにぴったりになった。
故郷の鎧職人を何度も悩ませた胸と背筋にも、全く問題なく鋼板がフィットしてくる。
おぉ、と思わず声が出た。
自ら持ち主の体格に合わせて形を変える鎧とは、なんと素晴らしい。
世界で自分たちの技術が一番と公言してはばからない"平原の都"の彫金細工師たちも、これをみれば自分たちの思い上がりに蒼白になって恥じることだろう。
<<最適化完了。動作テストを推奨する>>
動いてみろ、ということらしい。
ファム・アル・フートは体操してみることにした。
膝を屈伸させたり、肩を回したり、具合を確かめてみる。
抵抗やストレスはまるで感じない。まるで寝巻を身に着けているかのように自由に動けた。
着心地が良過ぎてこれに慣れてしまうともう元の鎧には戻れなくなりそうだ。
つい先日まで身に着けていた父より送られたプレートアーマーに愛着はまだあるが、失敗の許されぬ任務に個人的な感情を差し挟む訳にはいかない。
今はこの神々の恩寵をありがたく使わせていただくことにする。
「ところで、あなたに名前はあるのですか?」
<<当機に固有の名称は存在しない>>
「……ならば私だけの愛称で呼んでも?」
<<貴公に一任する>>
「では、"ファイルーズ"というのはどうでしょうか?」
今は遠くなってしまった彼女の先祖の故地で伝わる、おとぎ話に登場する知恵者のウサギの名前だ。
献身と賢さを象徴する白兎の呼び名は、天上世界の技術によって鍛造されたこの鎧にはぴったりの名前に思えた。
<<了解。"ファイルーズ"を当機の比定呼称として設定する>>
「よろしく。"ファイルーズ"。異邦の地で頼りになるのは貴方だけです」
新たな相棒を衆目に披露するべく、ファム・アル・フートは晴れがましい気持ちで颯爽と部屋を出た。