6_16 星採儀
城郭の石造りの塔の窓は例外なく大きい。
監視塔として使われるために視野を確保するためというのもあるが、重量を軽減するためというのが大きい。中に詰めている人間の住環境は二の次である。
その窓に取り付けられた頑丈な木戸を、男は上機嫌に開いた。
「ちょうど満月だ。ご覧。なかなか見事な光景だろう」
丸いすべすべした青い月とごつごつした赤い月……二つの天体からの二色の照り返しを受けて、湖畔の城から見える景色は全てが紫の濃淡に染め抜かれている。
もっとも、男の背中側……部屋の奥にいる少年に景色を鑑賞する余裕はありはしなかった。
理由のひとつは、彼は今汚れた寝台の上に黒服たちによって力づくで抑え込まれているということだった。
とても窓から見える眺望を楽しむことのできる姿勢とは言いづらい。
「やめて!お願い!嫌だ!」
理由のもう一つ……彼の視線と注意は、部屋の中央に立つ黒服の一人が手に持った注射針に全て奪われていた。
薄い蛍光色をしたアンプルの中身の液体が、シリンダー型の注射器の内部へと吸い上げられていく。
「何でも言うことを聞くから!やめて!」
「落ち着き給えよ。言ったろう、危害は加えないと」
興が削がれた、と言わんばかりに男は肩をすくめて少年の方へ向き直った。
「や―――め―――て―――ッ!!」
「そんなに大声を出さなくても良いだろう。しゃんとしたまえ。男の子だろうに」
慎重な手つきでシリンダーの中の液体を扱う黒服の一人の横を通り抜けて、男は寝台で暴れる少年の傍へと近寄った。
「病気の予防は必要なのだよ。この世界と君がいた日本では環境が違う。もちろん住んでいる細菌もだ。未知の細菌に触れると、抵抗力がない体は重い病気にかかる可能性がある」
小児科の医師のように、穏やかで優しい調子で男は語り始めた。
「だからあらかじめ病原菌を弱らせてから保存しておく。それが体の中に入ると、体内の免疫細胞の恰好の練習台になる。そうして既に抗体を作っておけば、本当に細菌に感染してもすぐに同じやり方でやっつけられるという訳だ」
痛みと不安で泣きわめく子供も、この澄んだバリトンの説明を受けてはたちどころに泣き止むだろう。
ベッドに這いつくばる姿勢を強要されているミハルですら聞き入ってしまう、人を安心させる波長のようなものが男の声には内包されていた。
「君に打とうとしているそのアンプルの中身は、その予防接種だよ」
「嘘だ」
自信に満ちた男の説明を受けて、ぽつりとミハルの小さな声が断じる。
「予防接種の話は本当だ。アンタは本当にそれを作ってもいる。だけどその注射器の中身は違う」
うつ伏せの姿勢のまま首だけを持ち上げて、青ざめた少年の唇が訥々と語った。
怯えと恐怖と興奮が過ぎ去った疲労に表情筋は強張っていても、喋る調子に淀みはない。
物心ついてから大人の嘘に晒され続けてきて、虚偽というものに過剰に敏感になってしまった子供がする反応だった。
周囲の黒服たちに会話の意味は分からないらしい。
少年と黙って反駁に聞き入る男との間に広がる微妙な緊張を伴う沈黙に、かすかに狼狽を見せているだけだ。
ミハルの指摘が正鵠を射ていたのか、それとも黒服たちに向かって威厳を保とうとしたのか、男は余裕を見せつけるように大仰に手を広げた。
「誤解だよ、それは。不安なのは分かるが、私に任せたまえ。君のような"流亡の民"を私は何人も診てきたんだ」
「……」
「二つの世界で人が行き来するのは、神造裁定者の意思に他ならない。御心を推測することなぞできないが、その御業を手助けするのは世界のためだよ。私はそのために"流亡の民"の中でも特別な君を受け入れる支度を……」
「それも嘘だ!」
目にはっきりと怒りの色を浮かべて、ミハルは食ってかかった。
「アンタが何を言ってるのか、正直全然分かんないけど……今嘘をついたのは分かる!」
「何を根拠に……落ち着き給え」
「世界のためなんて嘘だ!神様のためだってのも嘘だ!全部嘘!!」
「……」
「俺にも自分にも嘘をついたな!?アンタは神様なんか信じてない!自分の言ってることを信じてなんかいない!」
何故そんなこと思ったのか、ミハル本人にも説明はできない。
おそらくは虚偽を喋る時の微妙な差異……声の調子か筋肉の緊張かごくわずかなクセの総和で判断しているのだろうが、ミハル自身にも自分に嘘を見抜く才能があるなどという確信を抱けるほどはっきりしたものではないことは確かだ。
ただ、このときばかりは胸の内に確かなものが二つあった。
ひとつは目の前の鉄仮面は大嘘つきであることとミハル自身がはっきりと決めてかかっていること。
そしてもう一つは……。
「やっぱりアンタらは、アイツとは……ファムとは違う!アンタは正しいことをしてるつもりなんかない!周りのやつらはアンタが怖いから従ってるだけだ!」
この場にはいない女騎士と、男と黒服たちを心の中で同類だと断じてしまったことへの悔恨だった。
「アイツはバカで頑固で人の話を聞かないどうしようもないやつだけど、自分のしてることと言ってることは全部信じてたぞ!?」
額に脂汗を浮かべながら、一気に肺の中の空気を吐き出すようにして少年はまくし立てた。
その間、男はずっと黙って少年の怒声を聞いていた。
周囲の黒服たちは半ば唖然としながら、目の前で起こっている事態に身動き一つとれずこわごわと男の様子を伺っている。
「残念だよ」
ぽつりと鉄仮面の中の声がごちた。
「友達になりたいと思っていたが……どうやら私は嫌われてしまったようだ」
男の手がぱっと動く。
それを受けて、弾かれたようにじっと止まっていた黒服たちが作業を再開した。
少年の首を両手で無理矢理くつろげ、首の静脈を露わにする。
どう考えても予防接種には不向きな箇所だった。
「先に同志になってもらうとしよう」
「やめ……やめろって!」
無理な姿勢を取らされたミハルが叫ぶが、もちろん従うものなどいなかった。
黒服たちの中には口を塞ごうとする者すらいない。喚いている間は舌を噛み切って自殺を図りはしないと決めてかかっているのだ。
黒服の一人が脱脂綿で首の中ほどを手早く拭き取る。
注射器を持ったもう一人が続いて手際よく血管のラインを確保すると、注射針を押し当てた。
「……やめて!」
少年の悲痛な叫びに耳を貸す者も誰もいはしない。
「やめて!やめろ!やめろってば!」
じたばたと手足を振り回そうにも、5人がかりで押さえつけられては自由になるのは手足の指くらいのものだった。
押し当てられた針が少年の白い肌を突き抜け、わずかに血が肌理の間を伝う。
黒服が注射器のシリンダーに指をかけ、ゆっくりと液体がシリンダーの中から針の間へと向かっていった。
「――――――ッッッ!」
単純な数と腕力という暴に対して、何一つろくな抵抗ができない。
生きながらライオンの群れに内臓の中身を食われる野牛の気持ちが分かったとミハルは思った。
ほとんど諦め半分で、それでも恐怖と怒りに押されるまま涙でにじんだ目で最後の断末魔を上げようと口を開いたとき。
<<やめるんだ>>
(――――――え?)
ミハルが本当に自分の声なのかと疑ってしまうほど、重く冷たい命令が薄い唇の間から飛び出していた。
一瞬状況も忘れてそのことに心底驚いたがミハルだが、更に意外なことが続いて起きていることに気付いた。
「……えっ?」
黒服は本当に一切の動きを止めていた。
手足を拘束するものはその姿勢のまま。
身じろぎ一つしようとしない。
膝立ちになってミハルの首を押さえつけていたものは石膏像のように同じ姿勢で固まり、注射器を手にしていたものは器用にも注入途中のまま全ての随意筋をこちこちに強張らせていた。
自分自身も瞠目しながら、目だけでミハルは黒服たちの顔をうかがった。
もちろん鉄仮面越しに表情は分かるはずもない。ただ、少年と同じように驚異に愕然としていることは察せられた。
「え……えっ?」
何が起こったのか分からず、ミハルは目を白黒させた。
突然奇跡が起きて黒服たちが良心に目覚めでもしたのだろうか。しかし、6人全員が同時に硬直してみせる芸当なぞ練習もなしにできるものだろうか?
混乱でぐるぐると回る頭の中で、ミハルはファム・アル・フートを店の裏口で見つけた夜のことに思い当たった。
あの時も、それまで喚き散らしながら少年の腰に食い下がっていた女騎士は突然意識を失った。
女騎士を運んで介抱するのに精いっぱいでその理由までは思い至らなかったが、ひょっとして同じことが起きでもしたのだろうか。
「正直な話」
動揺と驚きで満たされた部屋の中で、一つだけ別種の感情が入り混じった声が発せられた。
「失望しかけていたが……なかなかすごいことができるんじゃないか」
ぷるぷると手を震わせながら、監視所の中で一人だけ動ける男が固まったままの注射器から黒服の指を引きはがした。
歓喜と高揚で声が弾んでいる。
「ああ……。良い、やはり良いよ君は」
「……!?」
「骨格と成長度合いで目が曇っていたが……逸材だ!やはり彼の血を混ぜたのは良かった!感激だ!遠大な実験の成果を私は観測している!」
興奮しきって荒々しく手を動かしながら、男は再びミハルの静脈に注射針を突き立てようとしてくる。
「もっと見せてくれ、一体何ができる!?」
「熱ッ……!」
いきなりポケットの中に感じた熱に、慌ててミハルは黒服の手を払って中身をかきだした。
劣化してしまったスマートフォンのバッテリーのように、溶け落ちそうなくらい熱を帯びた金属がベッドの上にこぼれ出る。
銀時計だった。
が、ミハルが初めて見る形をしていた。
読めない記号が並んだ丸い文字盤の上に取り付けられた円盤は大きく張り出し、円柱のいくつかは飛び出している。
複雑に重なった円盤のいくつかが、規則正しく動き始めていた。
(――――――ウソ)
今までどんなにつまみや竜頭をいじっても動かなかったのに。
初めて祖母から渡されたとき、『これって壊れてる』と唇を尖らせたことをはっきりと覚えている。
それからシルバーアクセサリーとしてじっと沈黙を保ってきたのが、何故今になって。
理由が分からないことが更に立て続けに起こってミハルはますます混乱した。
「ああ……懐かしい。忌まわしいウミヤ・アストロラーベか」
男の声には、とうとう恍惚の色まで混じり始めた。
「ひょっとして、使い方を知らされているのかね!?見せてくれ!私にはその権利がある!」
「何、何言ってんだ、アンタ!?」
「"エカント"!」
「はぁ!?」
「私の呼び名だ、ぜひそう呼んで欲しい!私が君たちから一番呼ばれたいのはその名なんだ!」
度を過ぎた興奮のあまりか、絶句する少年の前で"エカント"と名乗った男は頭を掻きむしりながらぐるぐるその場で歩き回り始める。
「本当に素晴らしい……。君のことがもっと知りたい……!いや、それでは足りない!いっそ一つになりたいくらいだよ!!」
「!?」
「まずは君のことをもっと教えてくれ!そのためなら何でもするぞ。この薬があればもっと才気を見せてくれるかね!?」
籠手に覆われた"エカント"の手が、乱暴にミハルの頭を寝台に押さえつける。
「なっ……!」
そのまま尖った注射針の先端がミハルの首の静脈に突き刺さった。
「今夜は行けるところまで行こう、二人で!歓喜の夜だ!時間はまだまだいくらでもある!」
喜悦に震える手が注射針の中身を押し込もうとした、その瞬間。
ドン、という鈍い音がした。
衝撃音に交じって、木が繊維ごとひしゃげて潰れる嫌な音が混じる。
ミハルと"エカント"が瞬間的に視線を送った先で、詰め所の安普請な木製の扉が閂と金釘ごと粉砕されて吹き飛んでいるのが見えた。
「……登ってくるのが大変だったぞ、この〇〇〇〇ども」
聞き取れなかったのは翻訳機能の不具合のせいではなく、日本語には概念すらない説明不能で下品なスラングだったためらしい。
ぱらぱらと埃と木屑が舞い上がる向こうで、鎧の上から修道服を重ね着した人影がその全身から怒気を発していた。




