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6_15 日本語


(なんでそんなもの……!)



 中世風の城の一室で使われるには、プラスチック製の注射器はあまりにアンバランスな小道具だった。

男は続いて取り出したアンプルに針を突き立てると、慎重に中身をシリンダーの中に吸い上げた。

中身までは分からない。が、ミハルにとっては医療関係者でもない人間が注射針を扱っているだけで十分身の毛のよだつ光景だった。

しかも彼らには自分に対する遠慮や好意などといったものは微塵も感じられない。


 

(何、何の薬!?)



 異物を投与されようとしている。その生理的な恐怖に、猿グツワを噛まされたミハルの顔が引きつった。



(もしかして、麻薬か何かじゃ……!)



 注射針で服用する依存性のある薬物は幻覚剤や向精神薬に限ったことではない。確かアヘンやヘロインといった薬物も、血管注射で中枢神経を抑制する作用があったはずだ。科学的に合成されたのではない麻薬ならこの世界に存在しても不思議でもなんでもない。

いつぞや目にした薬物乱用対策のパンフレットに書かれていた内容を必死に脳裏に思い出しながら、ミハルはじたばたとその場から逃げ出そうとした。



 依存性のある薬物を射って捕虜が逃げられないようにする。犯罪ドラマか何かでそんな筋書きの話を見た覚えがある。

例え麻薬ではないにしろこんな連中に、注射針まで使って異物を体内に投与されるなど考えただけで充分おぞましい事態だ。



 が、手枷と足縄は少年の懸命の努力にも小揺るぎもしなかった。そうこうしているうちに、注射針を持った男はゆっくりと近づいてくる。



「―――ッ!ンん――――――ッッッ!」



 顔中を真っ赤にし、ミハルはかぶりを振った。抵抗する様子と見たのか、更に二人の黒装束ががっちりとその両肩を押さえつけるように保持する。



 異変が起きたのは、注射針を持った男がミハルの正面に立った瞬間だった。



「――――――――――――ッ!!」



 それまで真っ赤になって汗を噴き出していた顔が、休息に青ざめていく。

猿クツワで隠れていた喉首が急速に上下を繰り返し、縛られたままの手足がぷるぷると小刻みに震え始める。

色素の薄い黒目と白目の部分の比率が逆転し、宙にある一点を緊迫した拍子で瞼が開閉を繰り返した。



 みるみるうちに酸欠の症状を示し始めた少年を前に、周囲を囲む黒服たちはにわかに色めきだった。

猿グツワを誤飲して喉が詰まり、拘束された人間が死亡することは稀にあることだからだ。



 誰が指示を出すでもなく左右に黒服が飛び付き、口をふさぐ猿グツワが解かれた。



「エェ……ッ!!ゲホッ、ゲホッ!!」

 


 唾液でぐしょ濡れになった綿布が、少年の白い胸の上にべたりと貼り付いた。

けたたましい咳が繰り返される。手足がぴんとのびきり、不自然に痙攣を始めた。



「あ……あぁ……!?」



 ふらふらと頭を揺らし、涙でぐしょ濡れになった少年の瞳が悲痛に助けを求めていた。



「お母さぁん……。どうしてこんなことするの……!?良い子にしてたのに……!」


 

 朦朧とした唇がうわごとを繰り返し始めた。

酸欠で意識障害になったのかもしれない。でなければショックで引き付けを起こしたか。

騎士たちは介抱するべく手枷を外し、足縄を緩めた。



 そこが付け目だった。



 痛々しく紅い斑点を残した両足が、足の拘束を外した黒服の鉄仮面を蹴飛ばした。

尻餅をつく騎士と、突然の事態に驚く黒服の間を縫って、下着一枚の少年は駆け出した。


 監視所の木戸に体当たりをして部屋から飛び出す。あとはお決まりの時計周りになっている螺旋階段を転がり落ちるだけだ。

 どんなに少年の体育の成績が悪かろうと、全身に重量のある装甲を付けた男たちよりは身軽だ。

塔の下ではまだパーティーの真っ最中である。言葉が通じなかろうが、半裸のままの主賓が客の中に姿を現せば必ず騒ぎになる。



 そこまで見越していた。



「はい、そこまで」 



 計算外は、少年の前に一度も姿を表さなかった七人目が扉の外で待ち構えていたことだけだ。



 後ろから伸びた手が強引に腕を掴んできたことよりも、かけられた声の意味が分かってしまったことの方が少年の精神を激しく打ちのめした。


(日本語……!?)

「仮病を使うなら……もう少し徹底するべきではなかったかな?例えば、そうだな……。あの野卑の連中が担架で君を下に運ばざるを得なくなるまで発作のふりを続けるとか」



 キャッチボールの投げ方を指導するかのような口ぶりで講釈しながら、その男は少年を引き寄せた。

他の黒服と同じ、艶消しの鎧に鉄仮面といった装いで差は見つけられない。


 ファム・アル・フートのように明らかに現世技術とは異なる鎧を身に付けているわけでも、シスター・オデットのようにペンダントをつけているわけでもない。



「……おかしいな?通じているだろう?使うのが久しぶり過ぎて発音が錆びついたかね?」



 確かに抑揚はおかしかったが、十分に通用する日本語がくぐもった鉄仮面の下から聞こえてくる。

澄んだバリトンだ。耳朶を打つだけで頼もしさを覚えるような、たくましい男の声……。



「大丈夫。危害は加えない。落ち着き給え。ああ、かわいそうに。足に痕がついてる……強く縛り過ぎだ」



 馴れ馴れしく少年の両肩を抱くようにして、男はゆっくりと詰め所の方へと少年を連れていこうとする。

完全に想定外の情報が押し寄せたミハルの脳は思考を停止し、誘われるままに先刻まで縛り上げられていた部屋の方へ足を向けさせられた。



「やはりあいつらに任せるべきじゃなかった。悪く思わないでくれ。私は我慢弱くてね。本当なら今の段階で君の前に姿を現すつもりはなかったんだ……。が、ついついこまで来てしまった。年甲斐もなくこんな仮装までして」



 遅まきながら部屋から飛び出してきた黒服たちが、少年を捕まえた男を前にして電気を流されたかのような勢いで背筋を直立させた。

男が蚊でも追い払うかのごとく軽く手を振るのに合わせて、黒服たちがぱっと左右に分かれて部屋の奥の寝台までの進路を譲る。そのことが彼らの間での力関係を如実に示していた。



「……アンタ、何者?」

「なに、ただのこちらの世界に住まう老人だよ。神聖な兵装の補助なしで日本語が喋れる理由が気になるかね?答えはがっかりするほど単純。君と同じ日本人から習った。言葉使いが古いのは許してくれたまえよ。何せ覚えたのは、ええと君の世界の計算で……50年も前に使われていた言葉だ」



 落ちついた調子だが、男の口からは矢次早に言葉が飛び出してきた。

まるで遊戯にはしゃぐ子供のような無邪気さまで感じられて、ミハルの頭はますます混乱した。



「日本人が?俺以外にもこっちに来たことあるの……?」

「……ははっ!?知らなかったのかね!それは面白い。今度身近な人に聞いてみては如何かな?『現地人が"アルド"と呼ぶ異世界に行ったことはありますか?』と、ね」



 自分で言いながらさもおかしそうに、くっくっと喉の奥で笑い出した。

再び寝台に座らされながら、ミハルは今更ながら自分が半裸になっていることに羞恥心を抱いて、両腕で自分の身体を抱くようにした。

今までは無言の相手に一方的にいじくられるばかりで恥ずかしいと思う間もなかったが、こうして短い会話をしただけで急に相手も人間なのだという意識が湧き上がってくるから不思議だった。



「いや、それにしても見目麗しい!腰骨が見えなければ私でも男の子か女の子か判別に迷ったところだ。ああ、もう服を着てもらって結構だよ。いい加減に計測もし終えただろう。……何をしているのかね、服と手荷物を返してあげたまえ」



 いきなりミハルには聞き取れない言葉で、男が直立不動を保っていた周りの黒服に向かって何事かを短く命じた。

弾かれたように動き出した黒服が、先刻までとは打って変わって恭しさを感じるほどにきびきびとした所作で投げ置かれていた服と銀時計を渡してくる。



「……」



 そのことに面喰いながら、少年はシャツの袖に手を通した。

上機嫌そうに古い椅子の上に腰を下ろして、男が着替えを終わるのを待っているようだった。



「彼らは法王庁がよこした人間なんだが……どうにも気が利かなくていけない。あの組織もいい加減大きくなり過ぎたかな」

「アンタはその……ファムやオデットさんの上司か何かなの?」

「私が?法王庁の人間?おいおいよしてくれ。こんな坊主がいたら信者は大迷惑だ」

 


 さも笑えないジョークだ、と大げさに男は両肩をすくめてみせた。



「じゃあ何がしたいんだ?」

「目的かね」



 その言葉を待っていた、と言わんばかりに男が身を乗り出した。



「私は、君のような美しくて賢い少年が本当に大好きなんだ」

「……?」

「だからぜひ友達になりたいと思って飛んで来たんだよ」

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