6_9 路地裏
「ファム・アル・フートは赤ちゃんにやさしくするよ」
両手いっぱいに母の大きなお腹を抱えて、私は宣言した。
「本当?」
「本当」
「お母様たちが赤ちゃんの世話してる間も良い子にできる?」
「できる」
「焼き餅妬いてワガママ言ったりしない?」
「しない!」
母が心配することが不満で、私は強く言い切るとお腹に顔を埋めた。
ぎゅうっと鼻先を埋めていると、あることが急に心配になってきて、さっと顔を上げて母に尋ねる。
「赤ちゃんはファム・アル・フートのこと好きになってくれる?」
これはなかなか深刻な問題に思えた。
何しろ相手は言葉も通じなければ物の価値も分からない赤ん坊である。珍しい石や綺麗な虫を拾ってプレゼントしても喜んでくれるとは限らないではないか。
「誰かに好きになって欲しいの?」
「うん」
「それにはまずあなたが相手を好きにならなきゃね」
乱れた私の前髪を直しながら母は言った。
「ファム・アル・フートが好きになるの?」
「そうよ」
「どうして?」
「自分のことを好きな人は誰しも分かるものよ」
母の言葉は頭ではなく感覚ですっと理解できた。
母が自分のことを好きなのは、これはもう考えるまでもなく現在進行形ではっきりと分かる。
同じくらい単純な理なのだ、と思うと嬉しくなってきた。
「そうすれば赤ちゃんも好きになってくれる?」
「ええ」
「じゃあ赤ちゃんのこと好きになる!」
再び母のお腹に顔を埋めて、私はベンチの上でじたばたと両足をばたつかせた。
普段は口酸っぱく私のお行儀悪を叱ってきた母は、何故かこの日だけは心のまま振る舞うことを許してくれた。
暗くなって心配した侍女のアルマーズが迎えに来るまで、その日はずっとそうして母に甘えていた。
その後待ちに待った出産の時が来て。
あまりにかぼそい小さな産声をあげた妹が、この世にいられた時間はほんの3時間だった。
お産をきっかけに母も熱病に罹患し、一月後にこの世を去った。
父はその後、何度再婚を奨められても決して首を縦には振らなかった。
その頑迷な態度は少なからず周囲の反感を買ったようだが、私には誇らしかった。
そして私は、家を絶やさないために騎士になることを決めた。
……。
遠くから雑踏が聞こえてくる。
日が落ちて大分経つらしい。路地裏はすでに夜の世界に支配されていて、膝に顔を埋めるようにして座り込んだ自分の視界の中は真っ暗だった。
表通りは休日の夜が始まったことを示す喧騒が鳴り響いていたが、この路地裏にはその賑わいはさざめきのようにしか届いてこない。
相変わらず壊れかけた街灯がまたたいてはぶつ切りの光を放ってくるが、今はそのことがありがたかった。眩しい輝きなどとても直視できそうにない。
眠っていたのか、物思いに沈んでいたのか、自分でも良く分からない時間だった。
果たして先刻まで見ていたのが夢だったのか。気欝な神経が少しでも明るい思い出を探そうとした結果なのかそれすら判然としない。
ただ、朦朧とした意識で、あることに気付いた。
「もし生きてれば、ミハルと同じくらいだったんだ……」
今までそんなことにも思い至らなかった自分に呆れてしまう。
神々の意思に沿って明晰に、論理的にあろうとしてきたのは何だったのか。こんな単純なことにも気付かずにいたとは。
死んだ子の年を数えてどうなるというものでもないが、そこまで目を曇らせたまま今まで神の剣を自称していた自分の滑稽さに自虐的な笑みがこぼれてきた。
「……帰りましょうか」
ぽつりと漏らした。
オデットがミハルを連れ帰ったときに、もうすでに結末は決まっていたのだ。
この”エレフン”での自分の聖務は終わった。
法王庁に帰投すれば、神意によって伴侶と定められた祝福者を見つけ出した騎士として称賛と名誉が待っている。
オデットの言う通り一族の悲願であった爵位すら願えば手が届くだろう。
かつては喉から手が出るほど羨望していたそれらが、手に入ることが決まった今とはなっては汚泥のように重たく心の中に沈殿している。
その後は結婚式だ。
自分が結婚したと聞いて父は喜んでくれるだろうか。ろくすっぽ連絡もよこさずに自分ひとりとして決めてしまったが、父の性格からして法王庁から正式に受けた命令とその結果である婚姻には表立って反対はすまい。
きっと誰もが盛大に祝ってくれる。
法王聖下が直々に法王庁最大の聖堂で挙式を執り行い、出立したときの倍する歓呼の声で聖都の市民が祝福してくれることだろう。
オデットも。アルカイドも。ピッコローミニ隊長も。トスカネッリ団長も。法王聖下も枢機卿猊下も学僧の方々も誰もかれもが。この結婚を待ち望んでいる。
本当に皆が幸福になれる。
ただひとつ。
安川ミハルという少年の人生を、二度と修正できないほど捻じ曲げてしまうことを除いて。
「……それが今更どうしたというんですか」
考えてみれば、自分がしてきたことだって大差ないではないか。
何も知らない彼に無理矢理に結婚を迫り、自宅に押しかけ、周囲に触れ回り、やってきたことの迷惑さ加減では大して変わらないだろう。
今更罪徳をひとつ重ねて何を気に病むことがある。
異世界から来た自分との結婚が彼の人生を大きく変えることくらい、考えたことがないとは言えるはずもない。聖務や神の意志といった美辞麗句で誤魔化し、自分を正当化してきただけのことだ。
……ひょっとして今の自分は頭が冴えているのではないか。
何も食べていないから空腹のはずだが、その分だけ脳髄に血が巡っているのかもしれない。
愚かな自分の矮小な悩みなど忘れてしまって、ただ利得だけ考えれば楽なのかもしれないという気さえしてきた。
もう考えるのをやめてしまって、周りに言われるまま敬虔な花嫁を、その後は模範的な母親を演じれば自分の人生は幸福なまま終われるのだ。
ひょっとしたらミハルも、”アルド”で何不自由なく暮らせる方を喜ぶかもしれないではないか。
何ならお爺様だって、ミハルの両親だって、”アルド”に呼んでしまえばいい。それくらいの我儘は世界を挙げての称賛の中簡単に通ることだろう。
そうだ、その方がずっと良いのだ。皆が望む結末なのだ――――――。
「……でも、それだけじゃない何かがあったのではなかったでしたっけ?」
幸せな幕切れが頭に思い描けているというのに、心の奥底で何かが頑なに拒んでいることにファム・アル・フートは困惑した。
体が胸と首の中間あたりを境目に引きちぎれそうな思いさえした。
何故そうなってしまうのか、自分の心が分からずに何度も自問と韜晦を繰り返した結果、もう真っ暗になってしまった。
「どうして……?」
いっそちょうど帯びている大剣で体を二つにしてしまえば頭も体も思い思いに動けてちょうどいいのではないか?そんなバカげた考えさえ浮かんできた。
どうしてこんなに苦しむのだろう。
こんなことなら心など持って生まれなければ楽だったのに。
何度目になるのか分からないため息とともに、再び膝の上に置いた両腕の間に額を押し当てた。
その瞬間。
「…………もしかして、ファムちゃん?」
暗がりの中から聞こえてきた声に、私は飛び上がらんばかりに驚いた。




