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6_8 夢の中で

 ……春は甘い季節だ、と母はよく言っていた。


 母の故地ではこの時期になると温かい日差しに合わせて花が芽吹き出し、あまりにかぐわしい芳香を放つために吸う外の空気まで甘くなるのだという。


 深い緑をした常緑樹で囲まれた土地で生まれ育った私には、その意味が良く分からなかった。

春になって良いことといえば、雪で閉ざされて従姉妹たちを相手に邸の中でままごとや人形遊びばかりをしなくて済むようになることと、遊び相手となる虫や小動物がたくさん土の中から這い出してきてくれることくらいだった。



 だから母がことのほかこの季節には好んで庭で散策するのが不思議だった。夏でも秋でも何なら冬でも、外の方が楽しいことがたくさんあるのにと思ってしまうのだった。


 その日は春の午後と夕方の間の曖昧な時間で、そろそろ太陽も地平線の向こうに引き上げようかと迷いだしたころだった。

私は花の刺繍の付いたひざ掛けを持って庭まで走っていた。

母の手縫いの品で、母は手による作品を一族の他の婦女からこぞって求められるくらいの名人だった。

東方由来の幾何学模様や駿馬をあしらったものが多い一族の人間の手になるものと違って、母が作るものは花弁が複雑に折り重なった華やかな花やいきいきとした蔓草など繊細な刺繍だった。


 私は布の上に糸で作られたものより現実に生きるものの方に関心を持っていたが、母が褒められるのは嬉しかった。



「お母ちゃま!」



 ひざ掛けが擦れないように高く掲げながら、敷石の上を走る私を見つけて母は驚いたようだ。

お気に入りのベンチの上で、大きくなったお腹を少し大変そうにしながら身をよじった。



「走っては駄目よ、ファム・アル・フート」


 飛んで来た母の声を無視して、勢いよくベンチの前まで駆け込む。その頃の移動の基本はとにかく『走る』だった。

楽しいことがあまりにも多いので、ゆっくり上品に歩いて景色を楽しむ時間がもったいない気がして仕方なかったのだ。

 


「何度も言ってるでしょう。あなたが一番お姉さんなんだから、他の子も見たら真似するでしょう」

「ひざかけ持ってきた」

「本当に人の話は聞かないわね……」



 眉をしかめながら、母はひざ掛けを受け取った。



「アルマーズがまださむいから持って行ってあげなさいって」

「ありがとう。ファム・アル・フート」



 母はひざ掛けを受け取ると、もう足元が見えないくらい大きくなったお腹から被せるようにして下半身を覆う。

それを見ながら私はベンチの隣に座った。



「赤ちゃんだっこしていい?」

「いいわよ。でも優しくね」



 小さく笑ってから、母は唇を尖らせてたしなめてきた。



「あなたはすぐ思い切り抱きしめるから、痛くて仕方なかったわ」

「やさしくするもん」


 

 中に赤ちゃんがいるお腹に思い切り顔を寄せると、両手を伸ばして硬いお腹を覆った。

母のお腹と中身である羊水で大きく重い感触しかしなかったが、そうしていると柔らかくて温かい赤ちゃんの抱き心地を想像できるような気がした。

 


「おなかいたい?」

「そりゃあ痛いわよ。皮が張ったりうっかりすると割れたりするし、赤ちゃんがお腹を蹴ったときは腰の骨が折れるんないかとびっくりするわ。でも苦しいとは思わないわね。元気に育ってる証拠ですもの」



 気持ちは私にも分かった。赤ちゃんが母のお腹を通して蹴った衝撃が自分の顔に伝わったときは、我がことのように嬉しかったからだ。

しかし、母に痛い思いをさせているのはいただけない。

姉として私はお腹の中の弟か妹に向けて注意した。



「いい子にしなさい」

「……あなたの時はもっと大変だったのよ?お母様はびっくりして、何度も夜中に起きては泣き出しちゃったくらいなんだから」

「おぼえてない」

「でしょうね」



 べたりと完全に母に体重を預けて、お腹にもたれかかる。

そうしていると母の着ている手触りの柔らかな服と匂いに包まれている気がして、例えようもなく安心できた。この世から不安や恐ろしさというものがなくなった気さえした。



「……男の子?女の子?」

「分からないわ。どっちだと思う?」

「お父ちゃまは男の子が良いって」

「お父様から聞いた?」

「ううん、でもみんなそう言ってる」

「でしょうね。お父様はそういうことはおっしゃらないもの」



 ちらりと、頬を母のお腹にくっつけたまま視線をあげる。

青色のふたつの瞳が優しく自分を見下ろしてた。

その深い青色が好きで、どうして自分の両目は紅い鮮血の色をしているのかと手鏡を前に首を捻ったことが何度もある。

『お母様に良く似ている』『髪も顔立ちもそっくり』と言われるのが密かな自慢だった。子供の自分を取り囲む小さな世界の中で、母はこの世で一番美しい女性だと思っていた。



「どうして言わないの?」

「どうしてだと思う?」



 小さく小首を傾げて、母は逆に尋ねてきた。

ちょっと考えてから私は答える。



「はずかしがりやだから」



 母はさもおかしそうに笑った。

 


「そうね。でも男の人はみんな大抵恥ずかしがり屋なのよ」

「そうなの?」

「その中でお父様がおっしゃらないのは、言葉にしたら嘘が混じるとお考えなのね」

「うそ?」


 父が言葉少ななことくらいもちろん私も知っていたが、その本心まではついぞ知らなかった。無口だとか気難しいとか、そういう人の性質によるものだと思い込んでいたのだ。



「欺瞞とか虚飾とか、色んな言葉を使う人がいるけど……。どこか言葉の価値を信じていらっしゃらないのね。行動で本心が伝わると願っておられるのよ」

「ふーん……」



 母の言葉の意味が良く分からず、私は額を再びそのお腹に押し付けた。『今では古い考えかもしれないのだけれど』と補足する母の言葉に一抹の寂しさと諦観を感じて、私は大切なことを質問した。



「お母ちゃまはあいしてるって言われた?」

「いいえ、一度も」



 それを聞いて私は声を上げた。



「ひどい!」

「酷いわよねえ」

「ひどい!!」



 大事なことなので私は二度言った。

私にとっては軽々しく許せぬことと思えたが、母は余裕たっぷりにほほ笑んできた。



「だからね、キスのたびにびっくりさせてさしあげるの。『私はこんなにお慕いしてますよ』ってね。だからお父様はいっつもバツが悪そうにされるわ」

「へぇ……」



 父は母の前ではいつも厳格に振る舞うか、興味なさげに短く声をかけるだけの姿しか見たことのなかった私は、知られざる一面を聞いて興味をひかれた。



「見てみたい!」

「ダメです。お母様だけの秘密」


 

 えぇ、と不平の声をあげると、母は優しく髪を撫でてきた。

その手はあやすように思えたが、はっきりとした拒絶を含んでもいたのが分かって私には残念だった。

どんなにねだっても寝室のベッドでは一緒に寝かせてくれないように、母の中で譲れないものとして厳重に鍵のかかった金庫に閉ざされた秘密となっているのだ。



「あなたもいつかお嫁に行くんだから、大事な人の一番かわいいところは自分だけのものにするのよ」

「ファム・アル・フートのおむこさん?」

「そう。お父様にはなるべく早くに婚約者を決めて頂かないとね。どんな人が良いと思う?」



 うーんとねえ、とひとしきり考え込んでからある大事なことが浮かんだ。

それは私にとって男性の価値を左右するとても重大で深刻なことのように思えた。

自分の発見を知らせてあげたくて、顔中の筋肉をほころばせて母に答える。



「りっぱなおヒゲのある人が良い!」

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