6_2 紫空
「いやー、本当に珍しいことなんだよこれは。”流亡の民”……坊やみたいな”エレフン”の人間のことね……は法王庁の管轄なんだけど、見つけ次第基本的には役に立ちそうなことだけ頂いてさっさと送り返すのが……」
となりの席でシスターが身振り手振りを交えながらつらつらと説明を続けてる。
が、耳には入って来ても頭が理解に追い付かなかった。
気を失っている間に自分が縁もゆかりもない場所にいきなり連れてこられている。そのことがミハルの意識のほとんど全てを占めていた。
(……これって拉致じゃないのか?)
自分に降りかかっている難事の正体の輪郭がおぼろげながらに掴めてきて、その恐ろしさに服の下でぞっと鳥肌が立った。
ファム・アル・フートが繰り返し法王庁とかいう自分の所属する機関について口走っていたことを今更ながら思い出す。
どうしても現実離れした女騎士が言うことなので実感が湧かなかったが、異世界とはいえそこに生きる人間が作った組織が権威と面子をかけて彼女を送り込んだ意味をもっとちゃんと考えるべきだった。
人間が複数いれば権力というものが必ず幅を利かせるようになる。
それが大きなものであればあるほど、個人の意思は比重が薄まり軽視されていく。
法王庁というのが彼女の住む世界で最大の宗教権力であれば、必要とあらば強硬手段に出るのは自明の理ではないか。
今までファム・アル・フートが少年に対して結婚だの好意だの手順を踏もうとしてきたのは、彼女自身の性根が馬鹿正直だからに過ぎなかった。
組織の意思とは無関係のところで、女騎士は悪いことが思いつけないようにできているのだ。
本当なら自分のような子供を拉致して連れ帰るくらいやろうと思えばいつでもできた。もし異世界とミハルが住んでいた現実世界とを自由に行き来できるなら、犯罪の痕跡も追跡する余地も残さない分はるかに簡単なことかもしれない。
自分が想像していたよりもずっと危うい立場にい続けていたことと、悪意というにはあまりに無機質な組織の思惑が降り懸かって来たことに今更ながらミハルは戦慄した。
……怖い。
怖い。怖い。怖い。
怖気が頭の中を塗りつぶしていく。怯懦が猛烈な力で背骨をわしづかみにして、余計なことを考えることすら逡巡してしまう。息をする以外の何もできない。
「それで、坊やはこれから聖都で神造裁定者に……聞いてる?ちょっと難しかった?」
「……、……、……!」
ミハルの耳にはもうシスターの説明など届いてはいない。
代わりに自分の呼吸の音がどんどん大きく、速くなっていく。体の周りだけ空気の濃度が薄くなったようだった。
手のひらの中がじっとりと汗で濡れているのが分かる。
口の中がぱさぱさに乾いて、いくら唾を飲み下そうとしてもできない。まるで舌が粘土に置き換わったようだ。
「おーい、大丈夫?」
「ケホッ、エフッ、ゲホッ……!」
見えない手に喉首を掴まれたようで、咳き込んでしまい返事をするどころではない。
頭がくらくらとして、重力の方向が一定ではなくなっている気がした。
顔の半分がピリピリとする。指先が痺れて感覚がなくなっていく。
脈拍が頭に被せたバケツを叩いているかのように自己主張を激しくする。
身体感覚が遊離していく。
自分の身体が現実のものではなくなっていくかのような気分に、ミハルの頭がパニックを起こしかけたとき。
「―――――こっちおいで」
「!?」
ついと肩を抱き寄せられて、こちこちに強張っていた体を傾けられる。
そのままシスターの体に柔らかく抱き止められた。
有無を言わさずにオデットのもう片方の腕が頭に回り、少年は抱きすくめられてしまう。
「ごめんね、急なことでびっくりした?」
「…………!」
「落ち着いて。自分の呼吸の回数を数えてごらん」
額の上に軽く乗せられた細い顎から、落ち着いた女性の声と一緒に子気味良い振動が伝わって来た。
大人の女性に抱きしめられて密着している。突然のことにパニックになりかけていた少年の神経が別の種類の驚きで上書きされていった。
自分の頬が胸の柔らかい膨らみを押し潰して形を変えていることにどぎまぎしながらも、言われるままに息を吸って吐くことに集中する。
際限なく早まっていたリズムが徐々に遅くなり、手足の先にわずかに温かみが戻って来た。
「ちょっと落ち着いた?」
「……」
「男はこうやっておっぱいに触れると落ち着くんでしょ?変なの」
「―――――――っ!」
恥ずかしさに赤くなった少年の様子を見て笑いながらも、オデットは更に抱き寄せて密着の度合いをより深めてくる。
初めて直接触る修道服は意外と硬く、布地が複雑に組み合わされて頑丈にできていた。
そんな些細な発見よりも、その下にある柔らかい肌と触れば蕩けそうな肉で構成された大人の女の体を布越しでもはっきり認識できることの方がミハルは驚きだった。
いつぞやファム・アル・フートの体から感じたのとはまた別種の、しかし同じ類の女の体臭がわずかに鼻腔をかすめる。
「落ち着くまでこうしてると良いよ」
「…………!」
「大丈夫だって。そんなに緊張しなくて」
言われながら後ろ頭を撫でられてしまう。
まるで赤ちゃん帰りをした子供をあやしているような対応にミハルは狼狽したが、その心地よさは抵抗し難いものがあることもまた事実だった。
「安心おし」
「……」
「坊やは大事なお客さんなんだから、痛い目にあわせたり怖い思いをさせたりする訳ないじゃないか」
その声に嘘や謀りごとの気配は微塵もなく、優しかった。
彼女が自分を拉致してきた張本人であることくらい少年にも容易に察せられた。
それでも肌を通して伝わる柔らかな体温にパニックが鎮められていったのもまた事実だった。
「あの、もう離し……」
正直言って胸の中の感触にもっと浸っていたかったが、良識と何故だか感じるこの場にはいないファム・アル・フートへの罪悪感が少年にそう口にさせた。
「ダーメ」
「え?」
「なんか役徳な気がしてきたから、もうちょっとこのまま」
笑いながら、少年の表情に余裕が出てきたことを確かめるようにオデットはふざけて自分の身体をくねらせた。
さらに強く少年の顔に自分の胸を押し当て始める。
「うりうり」
「あの……本当、やめ……」
「照れちゃって、かーわい―――!」
しどろもどろになった少年の恥じらいは修道女の嗜虐的な部分に火をつけたらしい。
赤茶けたミハルの前髪に顎をすり寄せながら、恍惚とした表情で耳元にささやいてきた。
「その顔、母性にキュンキュン来るわぁ……!ねえ、ファム・アル・フートには内緒で気持ちいいことさせてあげよっか?」
「き、気持ち良いことって……!?」
「あれー?いったい何を想像したのかなー?子供のくせにやーらしいぞー?」
稚気と悪戯心でトーンの上がり切った声でからかいながら、抱きしめたままの少年の体をまさぐり始めた。
「本当、やめてください!」
こそばゆさと恥ずかしさにとうとう耐えきれなくなり、ミハルは慌ててオデットの体を押して拘束から逃れる。
「あはは……ごめんごめん。いやー、からかいがいのある子だねぇ」
笑いながらオデットが服の乱れを直していた。
ミハルはげんなりと眉をひそめながら、少し距離を置いて座り直す。
ファム・アル・フートも大概だったが、この人はからかい半分でちょっかいをかけてくる分だけ更に始末が悪い。
そう思ったところで、修道女の言う通り少し気分が楽になっている自分に気付いた。状況は一切何も変わってはいないのだが。
(俺って単純なのかな……)
ついでにちょっとだけ胸の柔らかな感触を名残惜しく思ってしまっていることに少しに呆れてしまう。
と、ミハルの縮こまった胃が小さな悲鳴を上げた。
そういえば、朝食以来今日一日何も食べていない。
「お腹すいた?何か食べる?」
恥ずかしさに小さくうつむいたミハルに、オデットはすぐさまテーブルの下から布のかかったバスケットを取り出した。
「チーズとパンくらいしかないけど」
日本のパン屋で見るものよりずっと色が濃くずっしりと重いパンに、手のひらくらいの大きさがあるチーズの塊を手渡される。
「固焼きだからあんまり美味しくないけど我慢してね。宿についたらお肉とスープ用意してるはずだから」
空っぽの胃に詰め込めるなら何でもいい。ミハルは両手でパンを掴むと夢中になってかじりついた。
確かにシスターの言う通り、妙に酸味が強い上に煎餅みたいに固くて口の中でボロボロ崩れた。
口の中が乾きっているせいかそれとも保存のために水分が少ないのか、いくら咀嚼しても一向に飲み下せそうにない。
「お水飲む?」
シスターが取り出したのは、博物館でしか見たことのないような分厚い不均衡なガラスの瓶だった。
「ぬるくなっちゃってるけど我慢してね」
この際なんでも良い。瓶のフタを兼ねたグラスに注がれた水で一息に流し込んで、ようやく胃に収めることができた。
一口二口そうやってかじりついたころにはもう、顎の方が疲れてしまいそうにくらいだった。
味はともかく、空腹がまぎれてようやく人心地がついた。
「一応お酒もあるけど……飲む?」
オデットがワインボトルを掲げてみせるが、流石にこれは首を振って断る。
もう少し食べたい気分だったので、チーズの塊に噛みついた。
スーパーで売っているプロセスチーズよりずっと硬くて、まるで石鹼を食べているみたいだった。さらに塩味が強くてとても全部は腹に収められそうにない。
悪戦苦闘しながら少しずつ歯で噛み砕いていると、シスターが妙に目尻を緩めてじっとこちらを見ていることに気付いた。
『?』と視線だけで何事かと尋ねる。
「なんか食べ方かわいいから見てたい」
ペットの小動物にエサをやるような楽しみを見つけたらしい。ミハルは不機嫌に目元に皺を寄せるとチーズを飲み込みながらそっぽを向いた。
「あははー、『たくさん食べて早く大きくなりなさい』……なんてね!」
「……!」
頭を撫でてくるシスターの手をかぶりを振って拒否しようとしたところで、前方の小窓からコツコツと小さなノックが聞こえてきた。
どうやら御者が急かしているようだ。
「もー、空気読めよな……。もうちょっと!」
オデットがグラスの水を再度注ぎながら唇を尖らせる。
「……そうだ。今のうちに良いもの見せてあげる」
「え?」
「ほら、来てごらん」
立ち上がったオデットに手を引かれるまま、ミハルも腰を浮かした。
修道女がカーテンの扉を開ける。
久方ぶりに外から飛び込んできた光は、明るさはそうでもないがなんとも言えない複雑な色が入り混じっていて、ミハルは一瞬今が朝方なのか夕方なのか分からなくなった。
「足元に気を付けて」と言いながら、オデットがぱっと馬車を下りる。途中で足の置き場所を確かめるようにして、ミハルもぎこちなく後に続いた。馬車がこんなに車高の高い乗り物だとは思わなかった。
半分飛び降りるようにして無事に地面に足をつく。
舗装されたり石敷きになったりはしていないが、どうやら道路のようだ。幅は乗ってきた馬車がどうにかすれ違えるくらい。
薄明かりの中で乾いた土が粉を吹いているのが分かる。車輪らしいわだちに混じって、雨水が溜まっていたらしい大きなが穴がいくつもぽつぽつとあいていた。
それらには申し訳程度にくしゃくしゃの藁束が突っ込まれたり盛土がされたりはしていたが、道路事情はどうやら劣悪のようだ。馬車が揺れるわけだ、ミハルは納得した。
なんだか首筋にうそ寒さを覚えて視線を上げる。
周囲を見渡してぎょっとした。
まばらに黒づくめの男たちが数人、馬上からこちらに視線を投げかけている。
一様にフルフェイスの仮面と艶消しの加工がされた鎧を身に付けていて、初めて見る武装した騎乗兵の威圧感にミハルは思わずたじろいだ。
本当にここは自分がいた世界とは異なる常識が支配する場所であることを否応なく実感させられる。
「あ、この連中は気にしないで。単なるボディーガードだから」
どう見ても好意的な態度とは思えない騎士たちを無視して、オデットは黒塗りの馬車を回り込むようにしてミハルを反対側へといざなった。
「シスター・オデット」
やはり同じ装備を身に付けた御者が馬車の前方席から渋い声を出した。
その手に握られた手綱の先には丸太のように太い脚をした白馬が四頭も繋がれていて、自分はどうやら元いた世界で言えば相当な高級車に乗っていたらしいなとミハルは驚いた。
「休憩だって、きゅーけい!長いこと乗ってたらお尻が痛くなるでしょ!」
ひらひらと手を振って御者の咎めるような声を受け流すと、オデットは戸惑っているミハルの背中に回り込んだ。
「ほら、見てごらん。地面には何もないでしょ。遠くの方」
気圧されて足元ばかり見ていたミハルは、オデットの手を両肩に置かれてから初めて視線をあげた。
はっと息を呑む。
見慣れた緑のなだらかなそれとはまるで違う白亜の岩肌の急峻な山々が、見渡す限りに広がっている。。
今背後の側で沈みつつある太陽から発せられる入射角の低い日光によって、深く黒い影が谷間の影に落ちるとともに稜線が明るく照らされて複雑なコントラストを形造っていた。
それだけでも幻想的な光景だが、さらにその上に、少年の常識ではありえないものが浮かんでいた。
「”エレフン”じゃ見られないよね」
丸い月だった。
今まさに地平の向こうから出てきたばかり、輪郭もおぼろで明度もうすぼんやりと見える程度だ。
ミハルがよく知る白銀色のものとは全く異なる見た目をしているのだが、太陽と入れ替わりに夜空の首座を占めようとしている大きな星のことはそうとしか表現のしようがなかった。
その天体は青くすべすべとしていて、クレーターのような影となる部分が少ないせいでまるで見慣れたものよりもずっと薄い大きな円盤がひょっこり顔を出しているかのようだった。
それだけでも驚きだが、更に少年を瞠目させたのは沈みゆく太陽とその真向かいに位置する月との間、南の空にさらにもう一つの天体が顔を覗かせていることだ。
のっぺりとした青い月とは対照的な、赤いごつごつとした不揃いな石ころ。
そう表現するのが一番近いだろうか。顔を覗かせたばかりの青い月は違って、こちらはまるで地面に向けて威を放つかのように南天の中空に既に鎮座している。
大きさもまるで違う。もう一方と比べればこちらは三分の一ほどの直径しか持たないようだ。それでもまだまだ強い勢力を保った日光の残滓に負けまいと、不吉な赤い光を放っている。
青い月と赤い月の二つが照り返す光に覆われて、山々の急峻はまるで紫の薄布を纏ったように茫漠たる輝きを放っている。
「今日は満月だから、真夜中はもっとすごいぞー?」
声を張りあげるオデットのことはもう頭から掻き消えていた。
故郷のことも。元いた場所に返れるのかという不安も、女騎士のことも忘れてしまう。
目の前の壮大な自然の情景のただなかにちっぽけな自分の身体が向き合っていること。そのことだけに少年の意識は魅了されていた。




