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5_12 拉致

「帰る……?」

 


(こんな形で?)



 これほど性急に決断を迫られることになるとは思わず、ファム・アル・フートはたじろいだ。



自分が帰る時は、何ひとつ後ろ暗い感情のないままの帰還だと思っていた。

晴れがましく、友人や大衆に迎えられ、もちろん夫となる相手にも笑顔で連れ添ってもらえるものと疑わなかった。

だが、現実は親友によって神々より指名された少年は眠らされ、本人の意思とかかわりなく”アルド”に連れ帰るという。



 無情過ぎる世界は、時として不条理なほど重大な決断を人の思惑を超えた刻限で迫ってくる。

そのことは十分すぎるほど知っているはずだった。

だが、その要求が自分と少年との間にこれほど唐突に降りかかってくるとは、ついぞ思わなかった。



「……っ!!」



 ファム・アル・フートは歯を食いしばった。

その葛藤も素知らぬ顔で、オデットはあくまで明るい声で帰還を誘おうとしてくる。


 

「アルカイドもピッコローミニの旦那も喜ぶぜ」

「……」

「家名だって上がる。何せ50年ぶりの聖務を果たした英雄サマだぜ?きっと爵位だってもらえることだろう」



 爵位、という言葉にファム・アル・フートの肩がぴくりと揺らいだ。

バイユートの家祖が法王圏に亡命して以来、一族と共にずっと忠義を示すために戦働きを余儀なくされてきた。

が、土地や恩賞はもらえてもただ一つ、爵位という名誉と地位だけは与えられなかった。

どんなに戦場での勇猛さを誉めそやされても結局はよそ者、名誉だけは他と厳然と区別されてきたのだ。


 言い換えれば、数十年来バイユートの人間にとって爵位とは羨望と垂涎の対象である。

聖堂騎士団の正騎士という名誉を手に入れたファム・アル・フートにとってもそれは例外ではない。

家の悲願が娘である自分の手で果たせる。

その囁きは砂糖のように甘く聞こえ、女騎士の感情を揺さぶった。


 

「……」

「皆にとってその方が絶対良いんだ。な、我儘言ってないで帰ろう」



 苦笑を含んだ微笑みを浮かべながら、オデットは手を差し出してきた。

この手を取れば、故郷に帰れる。

英雄としての名声と、一族の悲願。

騎士としての夢と引き換えに、法王圏の誰からも祝福され愛される家族が手に入る……。



 ファム・アル・フートは、ふらふらと手をあげた。



「まだです!」



 鋭い語気で飛んだ声に、ファム・アル・フートは自分自身で驚いていた。

伸ばしかけた手が止まり、慌てて胸の前で握りしめ拳を形作る。



「え?」

「きゅ、急にそんなことを言われても、心の準備ができていません!」



 ほとんど転びかけていた気持ちのどこに、これほど激しく反発する気骨が残っていたのか。

己のことなのに説明がつかずに、ファム・アル・フートは喋りながら理由を探した。



「こ、この地でお世話になった方たちに辞去も述べていませんし……」

「あ」

「そんな、いきなりは、その、気持ちの整理が」

「……そっか。他にも仲良い相手くらいはできてるよな」



 声の調子に驚いた様子のオデットだったが、親友の頑固なくらいの生真面目さの表れと取ったようだ。

ぽんぽんと肩を叩いて落ち着かせようとしてくる。



「分かった分かった、そんなに慌てなくて良いよ」

「……そ、そうですか」

「じゃあ、私らは先にドロンさせてもらうから。お別れ言っといでよ」



 ひらひらと手を振って、オデットは客間から出ていこうとする。



「ま、待って……!」



 呼び止める声は先刻の制止よりも明らかに弱弱しく、修道女の耳には届かなかった。

少年を抱き上げたまましっかりした足取りで廊下を抜けていたオデットを、ファム・アル・フートはよろよろと追いかけようとする。




「ミハルを……返し……」



 手を伸ばした先で、シスターは背中を向けて玄関で靴を履き直そうとしていた。

こちらの背中を向け、何の警戒もしていない。

今なら。

今なら確実に少年を奪い返せる。

背後から一撃。無手でもオデットには防ぐ術はない。そうすれば少年を助けられる――――――。



「じゃ、積もる話は”アルド”でな。花嫁さん」



 振り向いたオデットが教科書のような笑顔を見せてから、少年と共に扉を開けて出ていく。



「いやー、軽くて運ぶの楽で良いわー」

「……」



 ―――できなかった。

幽鬼のように青白い顔で、ファム・アル・フートはその場でくずおれる。

狭い廊下に尻餅をつくと、怖気が足元から這い上がって来た。



「……」



 どうすれば正しかったのか、理性は全く答えを見つけられそうにない。

だが、感情は取り返しのつかないものを失ったとはっきりと叫んでいた。

どうしようもない喪失感と気力を根こそぎ奪い取る銷魂が全身を満たしている。

握りしめすぎたせいか動かすのが難しくなった手をゆっくりと開き、タコだらけの手のひらをじっと見つめる。



 この手は大切な何かを守るために鍛え上げてきたはずだ。

神の剣として正義を行うために、何度も皮が破れ豆を潰しそのたび少しずつ分厚くなった掌。

なのに、簡単にその隙間から守ると誓った少年はすり抜けていた。



 役目とはいえ、夫と呼んだ相手を目の前で連れ去られるまま何もできなかった。

神の剣を自称してきたのに、正義を行えなかった。

そのことが女騎士の心に深く深く影を刻んでいた。



「―――――――ッッッ!!」



 誰も聞くことのない慟哭は、細く長く続いた。

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