5_11 復讐の炎
「き、騎士をやめろ!?どうしてそんな……」
ファム・アル・フートには、友人が突如変わってしまったようにしか思えなかった。
「あんなに応援してくれていたではないですか!」
指導騎士であるアルカイドの課す訓練に耐えきれずベッドの上で泣いてしまった時。
騎士団の任務を失敗し落ち込んでしまった時。
他の大隊員から軽んじられ辱めを受け、やり場の怒りに震えていた時。
いつも隣にいてくれたのはこのシスターだった。
とりとめのない話をしたり、下品な冗談を連発したり、やり方は必ずしも意に沿うものではなかったかもしれないが自分がふさぎ込まないように精一杯気を払ってくれたのはオデットだった。
「本当はその頃から不安だったよ」
そのオデットが、冷めた声で言う。
「何故ですか!私が、私に、欠けている資質があるとでも!?」
「悪いことができないことだよ。今回でそれがはっきり分かった」
耳まで紅潮させながら声を張り上げたファム・アル・フートは、先輩の言葉に目を見張った。
「そ……それは騎士にとって瑕疵となるのですか!?」
「きれいごとじゃないんだ。命令じゃ非情なことだってしないといけないのに、お前さんは優し過ぎる。いざという時に手を汚せないで死ぬやつを私はたくさん見てきた」
底冷えのする声でオデットは言った。
ソファからミハルを抱え上げながら、精一杯誠意と非情さのこもった視線で女騎士を見据える。
「オデットは……手を汚したことがあるのですか?」
「そうだよ。私がいつも誰にでも優しいと思ってた?」
「……」
「東方で私が何をしてたか、お前さんが知ってたらそんなことは思わなかったよ」
ファム・アル・フートの脳裏に、オデットが聖堂騎士団に来る前の前歴がよみがえる。
東方の帝国と隣接する最前線……入植騎士団に修道騎士として所属していたはずだ。
入植という言葉は穏当だが、要はその場の情勢でうつろう国境近くを力づくで統治する侵略の尖兵の役目を担う兵士たちである。
帝国との国境線が確定した現法王の就任までは、国境警備のみならず現地住民との諍いや暴動対策、時には対テロ作戦が後を絶たなかったはずだ。
いったい根の明るい修道女の目にどんな地獄が映っていたのか、ファム・アル・フートには想像もつかない。
「オデット……」
「いいよ、慰めは。今更綺麗な体に戻ろうとも思わない。けど、友達としてお前さんが汚れるのだけは嫌だ」
先刻よりわずかに語気を細め、しかし決然としてオデットは言った。
「考えようだよ。騎士をお前さんにはもっと立派なうらやましい役目があるじゃないか」
「な、何です?」
オデットが元の優しい声に戻ったことに、ファム・アル・フートは安心するよりも動揺した。
「この子と家族を持って幸せになることだよ」
言いながら、オデットは両腕の間のミハルを抱え直した。、
「かぞ……く?」
「綺麗なドレス着せてもらって、みんなにお祝いしてもらってさ。幸せなお嫁さんにおなり」
穏やかなオデットの言葉はファム・アル・フートを狼狽させた。
今まで自分では何度も口走ろうとどこか空想上の概念だったような言葉が、信頼するシスターの声を通すと不思議な現実味を帯びて聞こえてくる。
故郷に帰ることになれば自分がそんな祝福を受けることになるのだ、ということを今更ながらに思い出す。
「故郷に帰って、新居に一緒に住んで。孫をたくさん作って上げて親父さんを安心させてあげなよ」
「お父様を……?」
「そうそう。お前さんたちの赤ちゃんだからさ、きっとすごい可愛い美人さんで大喜びするよ」
ファム・アル・フートの想像の中で、花崗岩を削り出したようないかつい風貌の父がゆりかごの中の赤子をおそるおそるあやす姿が浮かび上がった。
普段の姿からは考えられないくらい甘くでれでれと相好を崩し、小さく懸命に泣き声をあげる孫をどうして良いか分からず困り果てている。
自分はそれを見て苦笑しながら近寄り、父に代わって赤子を抱き上げ泣き止ませるのだ。
その時に小さく嫌味くらい言ってもいいかもしれない。
厳格な父に大して軽んじるようなことは今まで考えられなかったが、それは場を和ませるユーモアとしてその場にいる全員を笑顔にさせることだろう。
……それは、悪くない情景に思えた。
そう受け止める自分の感性が意外で、ファム・アル・フートははっと息を呑んだ。
今までは子作りというのはただの義務で、赤子というものは脆弱で頼りなくて手間ばかりかかって面倒なものだと思っていたはずだ。
それなのに、想像の中のその様子はなんともいえない温かさと血肉の通った幸福感で満たされているように思えた。
「でも、私は、騎士として……神の剣として……」
「安心おし。それに、もうすぐ騎士の役目なんかなくなるんだ」
法王と教会を守る使命がある、と続けようとした女騎士をシスターが小さく制した。
「な、何故です?」
「この子がきっとあいつらを滅ぼしてくれる」
「あいつら?」
「忌々しい竜どもだよ」
ファム・アル・フートが聞いたことのない、静かで暗く怨念の火が灯った声だった。
薄くそれでいて狂猛な笑みを頬に張り付けて、腕の中の少年にシスターが視線を落とす。
「な……何を言っているんです、オデット」
「祝福を受けたこの子が皆殺しにして、仇を取ってくれるんだ」
「そんなことを……ミハルが?」
「私の足跡の臭いを追いかけて、村ごと両親と弟たちを食い殺したあいつらを」
オデットは自分と会話していることを忘れている、とファム・アル・フートは悟った。
彼女に過去に何があったのか知らないが、素行不良で好き放題生きているように見せていたこの修道女はひょっとして心の奥底で身を灼くほどの怒りを隠し秘めてきたのではないか。
教会と神々にその憎悪を仮託し、使命の中で命じられた敵に暴を振るうことで辛うじて自我を保ってきたのかもしれない。
そんな怒りで濁った目を通してみれば、数十年ぶりに神から祝福者として使命を受けたミハルはさぞや輝かしい光を伴って映るに違いない。
その輪郭や正体すら見えず、自分の願望をそのまま当てはめてしまうほどに。
親友の見たことのない心の闇を垣間見た気がして慄然としていると、はっとオデットが我に返った。
「あ、ごめんごめん。怖い声出してた?」
「オデット……」
「ん?」
正直言って怖かった。
オデット本人が、ではない。
自分が正直に本音を口にすることで、友情にヒビが入ることが、だ。
だが、言わずにはいられなかった。
「み、み、ミハルは、普通の男の子なんです……」
「……」
「優れた才能も、特別な資質も有しているとは、私にはどうしても思えません……!」
この一週間接してきた正直な想いだった。
ただの小心で、傷つきやすい少年。容色に優れていても本人は迷惑に思っているくらいの、どこにでもいる男の子。
それ以上彼に何かを求めることはファム・アル・フートにはできなかった。
「でも、口は悪くても本当は優しい子で……」
「そんな訳ないだろ」
渾身の勇気を振り絞って発した言葉は、呆れ声でかき消された。
「じゃあ神造裁定者は、何もない普通の子供にアンタを嫁がせようとしたわけ?」
「…………」
「それこそ何のために。理屈に合わないだろ」
今まで敢えて考えまいとしてきたことを指摘され、女騎士は口つぐんだ。
疑えば、神造裁定者への疑義となり、信仰を問われるのではないかと恐ろしかったのだ。
しかし、オデットがいうような特別な権能を少年が有しているとは、とても女騎士には思えなかった。
「慌てすぎだって。ちょっと頭冷やして落ち着きなよ」
声だけはいつもの明るい調子に戻って、オデットは苦笑した。
「とりあえず”アルド”に帰ろう。話はそれからだ」
「かえ……る?」
まさかオデットはこのまま、”エレフン”を後にするつもりでいるのか。
ファム・アル・フートは何と答えれば良いのか分からず戸惑った。
「”聖務”は終わり。お前さんは英雄として帰って、幸せなお嫁さんになって、平和に暮らすんだ」
あくまで優しいオデットの声を、ファム・アル・フートには悪魔に心臓を撫でられるような思いで聞いていた。




