5_10 くずれゆくもの
「薬って、え……?」
ファム・アル・フートは、親友の口から出た言葉が信じられなかった。
「オデット……貴方一体、何を」
「何って、決まってるだろう?」
普段通りの明るい声で言い切ると、オデットはソファから立ち上がった。
弾む足取りでテーブルを回ると、倒れ伏したミハルのすぐ隣に腰を下ろす。
「このままアルドに来てもらうんだよ」
そう言って、シスターの少し節くれだった指が少年の髪の毛を掬い上げた。
親友の指先に敵意などないはずなのに、何故かファム・アル・フートの脊椎に怖気が走った。寝ている赤子の頬を這う毒蛇を見たときの母親のように。
「やーん、寝顔もかわい―――!頬っぺたすべすべ――――!」
素っ頓狂な声を上げてオデットが少年の顔をおもちゃにするのを、ファム・アル・フートは愕然として見ていた。
震える声でシスターの真意を問いただそうとする。
「な、何を言ってるんですか?薬を盛って、寝ている間に、無理矢理、”アルド”へ……?」
それは、誘拐とか拉致とかいう犯罪ではないのか。
こんなオデットを見るのは初めてだった。
今までどんなに素行不良や浮名を流してきても、譲れない一線は守る分別を持ったオデットを大人の女性として密かに敬意を抱いていた。
それが今、こうもあからさまに毒を盛り、動けない子供を連れ帰るという。
「あはっ、軽うっ!ちゃんとお肉食べさせてあげてんの?」
オデットが倒れ伏したミハルを抱き起し、膝に乗せた。
どこまでも底抜けに明るい甲高い黄色い声を、こんな寒々しい思いで聞く日が来るとは思わなかった。
「……な、何故?」
「なんでって……向こうに連れ帰ったらその時点で聖務果たされたようなもんだろ?」
「え?」
「何も塔に監禁して、鉄の鎖で繋いで飼おうってわけじゃないさ。向こうに来てもらって、ゆっくり長い時間かけて説得しようってこと」
ファム・アル・フートは、その言葉の裏側にしらじらしい欺瞞を感じた。
言葉ほどに少年に自由が与えられるはずがない。帰りたいと言って、何かれ理由をつけて”アルド”から離さないに決まっている。
「アンタだってそっちの方が良いだろ?この子を連れて帰ったら聖務を果たした英雄サマだよ?」
「そ、それはそうですが……それならそうと本人を説得するべきです!」
「何青臭いこと言ってんの。こんな子供がそんなこと自分で決められるはずないだろ」
「ならば、諦めるべきでは……」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょうよ。騎士団どころか法王庁のコケンがかかってんだぜ?聖務を達成できなかったらどうなるか、ちょっとは考えた?」
オデットの言葉に気おされてしまいそうになるのは、その言葉に一分の理が含まれているからだ。
聖都の三重の城壁まで埋め尽くして自分を送り出した民衆。
彼らは、何もその後の沙汰がなくても数か月は期待を胸に自分を待ってくれることだろう。
一年も経てば、まだ聖務は果たせないのかと疑問に思い出すかもしれない。
数年もすれば日々の生活に追われて忘却の霧の向こうに記憶を追いやってしまう者が大半を占めるようになる。中には自分のあげた歓喜の声が報われなかったことに勝手な不満を抱きだす者もあらわれるかもしれない。
そして、数十年ぶりの神々の代理人による直々の命を果たせなかった法王庁と所属する聖堂騎士団は無能とのそしりを受けることになるだろう。
それはファム・アル・フートにも理解はできる。
できるのだが、自分たちの権威と少年の人生とは引き換えにできるようなものとはどうしても心が受け入れられなかった。
「でも、ミハルには学校が……!お店の仕事もあります!この世界に家族や友人だっているんです!」
「住めば都って言うだろ?その分アンタが良い思いさせてあげなよ。奥さんの責任だぞ?」
必死の声を、こともなげにシスターが受け流した。
親友が自分の行っていることを何一つ疑問に思っていないことを瞬時に悟って、ファム・アル・フートは表情筋を氷つかせた。
「私が来なかったら、ずっとこのままだったんじゃないか?」
オデットが言った。
「お前さんまさか、この子が大人になるまでずっと待つ気?」
「それは……でも……。ミハルは、お互い好きになったら考えても、そう言ってくれて……」
「隣でかわいいかわいいってやって、それで結婚してくれるまで時間置くつもり?」
「……」
シスターが呆れたように眉をひそめた。
「それで途中でこの子の気が変わったら?同年代の他に好きな子ができたら?何か一つでも保証はあるの?」
「そ、それは……!」
女騎士は言い返そうとして、言葉に詰まった。
自分がこの世界にやってきて、確かなものなど何一つないのだ。
彼女が手に入れかけていると思っているものは、全て少年の心持ひとつで揺れて崩れてなくなってしまうものばかりではないか。
「もー、真面目過ぎ!そういうところだぞ!」
オデットが再び稚気に満ちた声をあげた。
だが、その目は笑っていないようにファム・アル・フートからは見えた。
「しばらくゴミ漁りして食べ物探してたって?何考えてんの本当」
「……」
「アタシならすぐに盗むか奪うかしてるね。神から受けた聖務だもん。それくらいできなくてどうする」
本当に目の前にいるのは、冗談で喋り好きなあの先輩の修道女なのだろうか。ファム・アル・フートはまるで自分の脳髄の輪郭が溶けていくかのような疼痛を覚えた。
底冷えのする声は、シスターの言葉が冗談でも例えでもなく本心の底から出たものであることを雄弁に物語っていた。
女騎士の目から生気が失われたのを見て、シスターはわずかに憐憫と同情を入り混じった視線を後輩へ向けた。
「ファム・アル・フート。本当はお前さんが”エレフン”に来る前に言おうと思ってたんだ」
「な、何を……?」
「この聖務限りで引退しな」
「――――――え?」
「騎士はもうやめな。アンタには向いてない」




